群馬県嬬恋村の城

西窪城(嬬恋村大字西窪) 36.5234、138.5385
嬬恋村の中心部、大前の東、万座川と吾妻川の合流点の西の尾根末端部北側にある。吾妻川を挟んで対岸は鎌原城である。
JR吾妻線「万座鹿沢口」駅が少し東にあり、駅前で浅間白根火山ルートが国道144号線に合流する。
城は万座川沿いにある西窪発電所の南側の崖の上に位置する。

そこまでは東下にある西窪神社前から登る。この道は尾根に出るが、尾根末端部は結構広い。
城はこの広い尾根の北端部にある。
尾根上の広い部分とは横堀で区画されていたと言い、道路がその名残であるが、西側に行くと谷津を利用した堀Dとなり、西側に電波塔が建つ。
堀跡である道路の北側は高さ約8mの切岸になっており、@その上が本郭である。

ここの標高は876.6m、吾妻川からの比高は約75mである。
城内には少し東にある廃屋の庭?畑?跡から入る。
そこは緩斜面になっているが、斜面の真ん中を堀を伴う竪土塁Aが東に下る。

この斜面の西側が本郭であり、南北を高さ約3mの土塁Bが覆う。
土塁上に立ってビックリ、北側が崖である。
どうやら崩落しているらしい。
この崩落した部分も本郭の範囲ではなかったかと思う。

北側、万座川から見た城址。下には西窪発電所がある。 @右が本郭、道路が堀跡という。 A本郭東の緩斜面に堀を伴う竪土塁が下る。
B本郭北側の土塁。右側は崖、崩落しているようである。 C西側の曲輪の北側の土塁。曲輪内は藪! D西側の曲輪、南側の土塁(左)と谷津利用の堀(右)。

曲輪内部は熊笹で形状が把握しにくい。
30×20mほどの広さである。

西下約8mには土塁で囲まれた部分Cがあり、これも曲輪と思われるが、熊笹が凄くて形が把握できない。
地元の人によると狼煙台と伝わっているそうである。

この地の土豪、西窪氏の城という。西窪神社の前に居館があったという。
西窪氏の出は真田氏と同じ海野氏であり、同族の鎌原氏と行動をともにし、戦国時代は武田氏、真田氏に従っていたという。

城としては鎌原城とともに吾妻川に沿う大笹街道の交通を両側から抑える役目があったのであろう。
西窪氏は沼田真田氏改易後は大笹の番所の役人を務め、明治維新を迎えたという。
(宮坂武男:境目の山城と館 上野編を参考にした。)

鷹川城(嬬恋村袋倉)
国道144号線を西に向かい長野原町から嬬恋村に入ると、吾妻川の谷が深くなり、南から北に突き出た崖がある。崖上には諏訪神社が建っている。
いつも国道144号線を通る度、凄い風景と思っていたが、そこが鷹川城である。


↑ 西側、吾妻川を渡った国道144号線から見た城址

諏訪神社の建つ主郭部を拡大、崖が凄い。諏訪神社の建物が少し見える。→

吾妻川の水面の標高が713m、神社の地が811mなので崖の高さは100m近くある。
上から落ちたら終わりである。今までに転落事故はなかったのだろうか?

城へは東下、JR吾妻線袋倉駅前から道が延びており、車で行くことができる。
この山はほぼ独立した形であり、南側は車道が通り、山の下をJR吾妻線袋倉トンネルが貫通する。
山の上は平坦で畑になっており「城の平」Dと呼ばれる。
南側が盛り上がって山になっているが、そこには城郭遺構はない。ただの自然の山である。
北端の諏訪神社の地が城郭部であるが、境内は3段@になっている。


@主郭部に当たる諏訪神社境内

城へは東下、JR吾妻線袋倉駅前から道が延びており、車で行くことができる。
この山はほぼ独立した形であり、南側は車道が通り、山の下をJR吾妻線袋倉トンネルが貫通する。

山の上は平坦で畑になっており「城の平」Dと呼ばれる。
南側が盛り上がって山になっているが、そこには城郭遺構はない。ただの自然の山である。
北端の諏訪神社の地が城郭部であるが、境内は3段@になっている。

北端の一番高い場所Aに神社社殿が建つ。さらに細尾根が北に延びる。
ここから見下ろす吾妻川側の崖B、Cは恐ろしい。転落事故はないのだろうか。
崩落したような場所も見られる。
おそらく崩壊が進み、城が機能していた時と今では違った風景ではないかと思う。

A北端の突き出し部から見た神社本殿。 B境内から西下を覗くと・・ C北端の突き出し部から本殿の北下を覗くと
城を置くにはなかなかよさそうな場所であるが、現実の遺構は物見の城程度のものに過ぎない。
これはここに本格的な城を置いたとして、攻撃を受け危険な状態になった場合、逃げ道がないためではないかと思われる。

歴史は明確ではないが、鎌原城の出城ではないかと思われる。

D左の写真の「城の平」は城番の居住地や軍勢の宿営地ではないかと思う。
比較的高い場所にある平坦地であり、ここを宿営地にすれば敵からの奇襲に対しての安全性も高そうな場所である。


←D諏訪神社の南側に広がる平坦地「城の平」
左手に見える山には遺構がありそうだが、ない!

鎌原城(妻恋村鎌原)
浅間山北麓に「鎌原遺跡」がある。
江戸時代天明の浅間山の噴火で土石流が襲い全滅した村があったところである。
その西に鎌原観音堂があり、浅間白根火山ルートが通る。

城はここから西の沢「うしろの沢」を越えた尾根の北端部にある。
この尾根は鎌原区の本村と吾妻川との間にあり、南から北方に伸びる。
西側は吾妻川の断崖であり比高60mほどある。

左上の写真は西側の国道145号線沿いから見た城址である。
凄まじい、垂直の崖である。
ここから登るのは無理である。

この上、意外なほど平坦であり、高原野菜の畑なのである。
右上の写真は城のある岡から見た南方向である。
遠くの山は浅間山、その北山麓である。

尾根と言っても幅は広く、北に向けて地勢を下げる。
内部は高原野菜の畑である。
当時は牧場だったのであろう。
城はその牧場の北の末端にある。
ところで、ここは天明の浅間山の大爆発で火砕流に襲われたのだろうか?

南に大手があり、子孫が建てた「霞城」の碑がある。@
この付近が三郭の大手口があった場所らしい。



        Yahoo地図の航空写真に写る鎌原城、吾妻川を臨む崖上にある。⇒

堀切があったが、西側Aに確認できるが、中央部は湮滅している。
ここは食い違い構造になっていたという。

さらに北に進むが、地勢は下がっていく。
遠くに城址解説板が見える。
そこが二郭である。
その北に堀Bがあり、これは明瞭に残る。

堀を越えると二郭、さらにその先が本郭Cであるが、その間の堀は湮滅している。

先端Dには「群馬TV」の放送施設がある。
搦手口が本郭の先端部から降りるようになっていたという。
その全長は南北約400m、総面積は約36000平方mという。

広大な城であるが、これは牧場主の城であったことによると思われる。
おそらく、三郭あたりは牧舎が立ち並んでいたのではないだろうか。

@三郭の大手口に建つ城主子孫が建てた城址碑 A三郭南の堀は西側にその跡が残る。 B 三郭と二郭間の箱堀はきれいに残る。
C二郭内部、この付近に堀があったらしいが。 D 本郭先端に建つ「群馬テレビ」の放送塔 松代大林寺にある城主だった鎌原一族の墓所

城主の鎌原氏は滋野氏族というので、真田氏と同族である。
ここに居を構えた経緯等は分らないが、戦国時代はこの地の地頭であり、山内上杉氏に従っていたらしい。

鎌原氏の領地は現在の吾妻郡西部、嬬恋村、長野原町、草津町、六合村付近一帯であり、平安時代前期、海野氏の一族下屋将監幸房の子孫が開拓した土地であったという。
すでに鎌倉時代にはこの地にいたことが『吾妻鑑』に登場する。

文明年間(1469〜86)、山内上杉顕定が関東管領となるころ属するようになり、永享の乱(1438)、享徳の乱(1454)、長尾景春の乱(1476)、が続き、長享の乱(長享元年(1467))等の戦乱に山内上杉氏に従って転戦したようである。
北条氏が勢力を拡大すると、上杉憲政は没落、上野の地は豪族乱立状態となり、岩櫃城の斎藤氏の勢力が拡大、鎌原氏も斎藤氏に従うようになる。

一方、武田氏の勢力が上野に拡大してくると、鎌原氏は信玄に属して斎藤氏から離れることを画策。
永禄3年(1560)、鎌原幸重・重澄父子は、武田家臣の同族の真田幸隆を介して武田信玄に従うことになる。

その後、斎藤憲広と抗争するが、劣勢に追い込まれ、永禄5年(1562)信州佐久郡に逃れるが、真田氏の支援で鎌原城を回復、さらに真田氏に属し永禄6年、岩櫃城を落とし、斎藤憲広を越後の上杉謙信の下に逃れさせる。
以後、真田幸隆の家臣として鎌原宮内少輔は岩櫃城代となり、武田信玄の上野侵攻に従軍した。
しかし、信玄の死後、勝頼の代、天正3年(1575)、長篠で大敗。
真田信綱に属して出陣した鎌原宮内少輔の嫡男筑前守も戦死。

武田氏は天正10年(1582)滅亡。
この混乱の中、鎌原氏は、真田昌幸に属して、天正18年(1590)の小田原の役で鎌原宮内少輔重春が活躍。
以後、真田信幸の家臣として鎌原重宗が大坂の陣に参戦、重宗の息子重継は沼田真田氏で筆頭家老を務めた。
しかし天和元年(1681)に沼田真田氏は改易され、鎌原氏は松代真田氏に仕えることとなり、子孫は松代藩士として続き、松代大英寺に墓所がある

大前城と大前館(妻恋村大前)
群馬県最西端の城が大前城である。
高原の村、妻恋村にあり、城址の標高も921mである。
妻恋村役場の西400mにある山が城址、麓に諏訪神社(標高883m)@があり、神社裏の尾根を登って行くと城址に行ける。


Yahoo地図の航空写真より。
大前城の北の谷を挟んで、その北側の台地が大前館であったという。

城は南側が吾妻川沿い、大笹街道(国道144号)が通る市街地A北を覆う山、北側に沢が流れる西側から東に突き出た尾根状地形を利用している。
市街地の標高が876mなので比高は45mほどである。

なお、吾妻川の標高は837m、その南の対岸にJR吾妻線の終点大前駅がある。
神社裏を登ると直径10m程度の曲輪があり、その先の登りに数段の段差があるが小曲輪の可能性がある。
頂上部が本郭であるが、その東に幅9m、深さ3mの堀切Bがある。
本郭Cはひょうたん形をしており、東側がやや高い。

@諏訪神社の北側の尾根に小曲輪が展開する。 A @から見た大前市街、この先が鳥居峠方向。 B本郭東側の堀切。
C本郭内部は2段になっているが平坦。 D本郭西側の堀は良好に残っている。 E本郭西側も曲輪だろう。堀らしいものがある・
しかしタラの木が密集しており探査不能。

東西60m、最大幅30m程度、内部は平坦である。西に幅8m、深さ4mほどの堀切Dがある。
その西側も曲輪と思われるが、段々地勢が低くなり、南側から抉りが入る。E
途中からはタラの木の林となり、探査は不可能であったが、何か先にありそうな感じである。
大笹街道を抑える城であり、西窪城とともに東にある鎌原城の支城であったと思われる。

大前城の北の谷津を挟んで、北側に大前館があったという。
大前城の城主の居館だったという。その場所に行ってみたのだが・・。
ただの高原野菜の畑があるだけ。
土塁のようなものや、切岸のようなものがあるが、遺構かどうか分からない。
下の写真が大前館のあったという場所である。
左の林が大前城である。
遠くの山は浅間山である。


大笹関所(嬬恋村大笹) 
嬬恋村役場のある大前地区から国道145号線を鳥居峠方向に約2.5ほど行くと、大笹地区になり、国道脇に大笹関所の門が復元されている。
解説板を参考にすると、この関所は、寛文二年、沼田薄主、真田伊賀守により、大笹村に設置された。
明治2年に廃関となるまで約200年余り沼田−吾妻−菅平−仁礼(須坂)−善光寺を結ぶ大笹街道の通行人や草津温泉の入湯客などを管理した。
この街道は、北国街道(国道18号線)の脇街道であり、善光寺平から菅平を経て高崎に至る道で、越後や善光寺平から上州を経て江戸へ出る重要な街道であったという。 

この街道は、北国街道より短いのがメリットであるが、千曲川端の福島宿(須坂)から鮎川沿いにのぼり、仁礼宿を経て標高1600mの菅平、峰の原高原を横切り、鳥居峠から上州大笹宿にいたる間、峠越えの険しい道だったが、距離が短いことから繁栄し、北信濃の種油が大量輸送された。

 
仁礼から沓掛までは2宿14里(北国街道では10宿20里)と短いため、荷駄は専ら大笹経由で運ばれたという。宿継ぎに要する経費や荷いたみに優れ経済的でコストパフォーマンスが良かったという。
今の国道406と国道144号線が大笹街道にあたる。

 しかし、北国街道福島宿〜仁礼(須坂市)〜菅平〜鳥居峠〜大笹の間は「山道八里」と称し、標高1000メートルを越える菅平高原を越える険しい道であり、冬季は積雪吹雪のため交通不可能になる事が多かった。
また、冬の厳しい時に峠越えの道筋で犠牲になった旅人や牛馬は数多かったという。
その供養と旅の安全を祈って、仁礼宿の外れから、仁礼峠の頂上というべき峰の原の供養塔まで、約17kmの間に60体ほどの石仏がある。

遺構である門扉は国道脇に復元されている。
この門は廃関後取り壊されたが、当時大笹の土屋源三郎氏の先祖が払い下げ秘蔵していたものを特に寄贈してもらい当時の絵図によって1946年復元したものという。