群馬県嬬恋村の城

鎌原城(妻恋村鎌原)
浅間山北麓に「鎌原遺跡」がある。
江戸時代天明の浅間山の噴火で土石流が襲い全滅した村があったところである。
その西に鎌原観音堂があり、浅間白根火山ルートが通る。

城はここから西の沢「うしろの沢」を越えた尾根の北端部にある。
この尾根は鎌原区の本村と吾妻川との間にあり、南から北方に伸びる。
西側は吾妻川の断崖であり比高60mほどある。

左上の写真は西側の国道145号線沿いから見た城址である。
凄まじい、垂直の崖である。
ここから登るのは無理である。

この上、意外なほど平坦であり、高原野菜の畑なのである。
右上の写真は城のある岡から見た南方向である。
遠くの山は浅間山、その北山麓である。

尾根と言っても幅は広く、北に向けて地勢を下げる。
内部は高原野菜の畑である。
当時は牧場だったのであろう。
城はその牧場の北の末端にある。
ところで、ここは天明の浅間山の大爆発で火砕流に襲われたのだろうか?

南に大手があり、子孫が建てた「霞城」の碑がある。@
この付近が三郭の大手口があった場所らしい。



        Yahoo地図の航空写真に写る鎌原城、吾妻川を臨む崖上にある。⇒

堀切があったが、西側Aに確認できるが、中央部は湮滅している。
ここは食い違い構造になっていたという。

さらに北に進むが、地勢は下がっていく。
遠くに城址解説板が見える。
そこが二郭である。
その北に堀Bがあり、これは明瞭に残る。

堀を越えると二郭、さらにその先が本郭Cであるが、その間の堀は湮滅している。

先端Dには「群馬TV」の放送施設がある。
搦手口が本郭の先端部から降りるようになっていたという。
その全長は南北約400m、総面積は約36000平方mという。

広大な城であるが、これは牧場主の城であったことによると思われる。
おそらく、三郭あたりは牧舎が立ち並んでいたのではないだろうか。

@三郭の大手口に建つ城主子孫が建てた城址碑 A三郭南の堀は西側にその跡が残る。 B 三郭と二郭間の箱堀はきれいに残る。
C二郭内部、この付近に堀があったらしいが。 D 本郭先端に建つ「群馬テレビ」の放送塔 松代大林寺にある城主だった鎌原一族の墓所

城主の鎌原氏は滋野氏族というので、真田氏と同族である。
ここに居を構えた経緯等は分らないが、戦国時代はこの地の地頭であり、山内上杉氏に従っていたらしい。

鎌原氏の領地は現在の吾妻郡西部、嬬恋村、長野原町、草津町、六合村付近一帯であり、平安時代前期、海野氏の一族下屋将監幸房の子孫が開拓した土地であったという。
すでに鎌倉時代にはこの地にいたことが『吾妻鑑』に登場する。

文明年間(1469〜86)、山内上杉顕定が関東管領となるころ属するようになり、永享の乱(1438)、享徳の乱(1454)、長尾景春の乱(1476)、が続き、長享の乱(長享元年(1467))等の戦乱に山内上杉氏に従って転戦したようである。
北条氏が勢力を拡大すると、上杉憲政は没落、上野の地は豪族乱立状態となり、岩櫃城の斎藤氏の勢力が拡大、鎌原氏も斎藤氏に従うようになる。

一方、武田氏の勢力が上野に拡大してくると、鎌原氏は信玄に属して斎藤氏から離れることを画策。
永禄3年(1560)、鎌原幸重・重澄父子は、武田家臣の同族の真田幸隆を介して武田信玄に従うことになる。

その後、斎藤憲広と抗争するが、劣勢に追い込まれ、永禄5年(1562)信州佐久郡に逃れるが、真田氏の支援で鎌原城を回復、さらに真田氏に属し永禄6年、岩櫃城を落とし、斎藤憲広を越後の上杉謙信の下に逃れさせる。
以後、真田幸隆の家臣として鎌原宮内少輔は岩櫃城代となり、武田信玄の上野侵攻に従軍した。
しかし、信玄の死後、勝頼の代、天正3年(1575)、長篠で大敗。
真田信綱に属して出陣した鎌原宮内少輔の嫡男筑前守も戦死。

武田氏は天正10年(1582)滅亡。
この混乱の中、鎌原氏は、真田昌幸に属して、天正18年(1590)の小田原の役で鎌原宮内少輔重春が活躍。
以後、真田信幸の家臣として鎌原重宗が大坂の陣に参戦、重宗の息子重継は沼田真田氏で筆頭家老を務めた。
しかし天和元年(1681)に沼田真田氏は改易され、鎌原氏は松代真田氏に仕えることとなり、子孫は松代藩士として続き、松代大英寺に墓所がある

大前城と大前館(妻恋村大前)
群馬県最西端の城が大前城である。
高原の村、妻恋村にあり、城址の標高も921mである。
妻恋村役場の西400mにある山が城址、麓に諏訪神社(標高883m)@があり、神社裏の尾根を登って行くと城址に行ける。


Yahoo地図の航空写真より。
大前城の北の谷を挟んで、その北側の台地が大前館であったという。

城は南側が吾妻川沿い、大笹街道(国道144号)が通る市街地A北を覆う山、北側に沢が流れる西側から東に突き出た尾根状地形を利用している。
市街地の標高が876mなので比高は45mほどである。

なお、吾妻川の標高は837m、その南の対岸にJR吾妻線の終点大前駅がある。
神社裏を登ると直径10m程度の曲輪があり、その先の登りに数段の段差があるが小曲輪の可能性がある。
頂上部が本郭であるが、その東に幅9m、深さ3mの堀切Bがある。
本郭Cはひょうたん形をしており、東側がやや高い。

@諏訪神社の北側の尾根に小曲輪が展開する。 A @から見た大前市街、この先が鳥居峠方向。 B本郭東側の堀切。
C本郭内部は2段になっているが平坦。 D本郭西側の堀は良好に残っている。 E本郭西側も曲輪だろう。堀らしいものがある・
しかしタラの木が密集しており探査不能。

東西60m、最大幅30m程度、内部は平坦である。西に幅8m、深さ4mほどの堀切Dがある。
その西側も曲輪と思われるが、段々地勢が低くなり、南側から抉りが入る。E
途中からはタラの木の林となり、探査は不可能であったが、何か先にありそうな感じである。
大笹街道を抑える城であり、西窪城とともに東にある鎌原城の支城であったと思われる。

大前城の北の谷津を挟んで、北側に大前館があったという。
大前城の城主の居館だったという。その場所に行ってみたのだが・・。
ただの高原野菜の畑があるだけ。
土塁のようなものや、切岸のようなものがあるが、遺構かどうか分からない。
下の写真が大前館のあったという場所である。
左の林が大前城である。
遠くの山は浅間山である。


大笹関所(嬬恋村大笹) 
嬬恋村役場のある大前地区から国道145号線を鳥居峠方向に約2.5ほど行くと、大笹地区になり、国道脇に大笹関所の門が復元されている。
解説板を参考にすると、この関所は、寛文二年、沼田薄主、真田伊賀守により、大笹村に設置された。
明治2年に廃関となるまで約200年余り沼田−吾妻−菅平−仁礼(須坂)−善光寺を結ぶ大笹街道の通行人や草津温泉の入湯客などを管理した。
この街道は、北国街道(国道18号線)の脇街道であり、善光寺平から菅平を経て高崎に至る道で、越後や善光寺平から上州を経て江戸へ出る重要な街道であったという。 

この街道は、北国街道より短いのがメリットであるが、千曲川端の福島宿(須坂)から鮎川沿いにのぼり、仁礼宿を経て標高1600mの菅平、峰の原高原を横切り、鳥居峠から上州大笹宿にいたる間、峠越えの険しい道だったが、距離が短いことから繁栄し、北信濃の種油が大量輸送された。

 
仁礼から沓掛までは2宿14里(北国街道では10宿20里)と短いため、荷駄は専ら大笹経由で運ばれたという。宿継ぎに要する経費や荷いたみに優れ経済的でコストパフォーマンスが良かったという。
今の国道406と国道144号線が大笹街道にあたる。

 しかし、北国街道福島宿〜仁礼(須坂市)〜菅平〜鳥居峠〜大笹の間は「山道八里」と称し、標高1000メートルを越える菅平高原を越える険しい道であり、冬季は積雪吹雪のため交通不可能になる事が多かった。
また、冬の厳しい時に峠越えの道筋で犠牲になった旅人や牛馬は数多かったという。
その供養と旅の安全を祈って、仁礼宿の外れから、仁礼峠の頂上というべき峰の原の供養塔まで、約17kmの間に60体ほどの石仏がある。

遺構である門扉は国道脇に復元されている。
この門は廃関後取り壊されたが、当時大笹の土屋源三郎氏の先祖が払い下げ秘蔵していたものを特に寄贈してもらい当時の絵図によって1946年復元したものという。