丹生城(富岡市(旧妙義町)上丹生)
「にう」と読む。富岡から松井田に向かう県道48号線沿いにある金乗寺が目印であり、その裏山、西側の山が城である。
金乗寺の横の道を登って行くと、上信越道の切通しがあり、橋がかかる@。
この橋を渡らず南の道を行くと城址である。ここが城の搦手である。
縄張図ではこの付近に堀切が1つあるはずであるが見当たらない。湮滅しているのかもしれない。
ここまでは何とか車は入ることができ、駐車もできる。
この先、南側の尾根伝い一帯が城址である。

石塔がある曲輪Aを過ぎると、いきなり堀切、土塁を持つ曲輪が現れる。
本郭はそこから尾根を少し南東に行った場所にある。
そこまでの間100mにさらにBなどの堀切が6本連続する。

2重堀切も2か所あり、本郭となる。この6本の堀切から北西側の尾根の防衛を強く考慮していることがわかる。
本郭北の最後の堀切は6mほどの深さがあるが竪堀にはなっていない。
本郭の標高は290m。ここから4つの尾根に人の掌のように曲輪を展開する。
本郭はL型をしており1辺50mほどであるが内部は藪である。周囲は帯曲輪になっている。
東側の帯曲輪には井戸跡Cがある。
解説では水堀となっているが、井戸水を貯めた池であろう。

そこから南東の尾根が大手筋である。この追手曲輪からは段々曲輪が展開し、見事が虎口がある。
大手道はうねうねと蛇行し、正面に曲輪が立ちはだかる感じである。
さらに大手道は南に延びるが、この道H自体が横堀の堀底を行くようになっている。これは塹壕であり、堀に身を隠したまま移動できるように工夫したものである。この尾根筋が350mほど続き、途中に4か所の堀切がある。堀切Fは東側が竪堀のようになり、中村集落に通じる。
最南端の堀切Gは巨大であり、ここが本城部分の最南端と思われる。

その南側は盛り上がっており、金乗寺前にあるイラスト図では二郭(二の丸)と書かれているが、そこはただの山だった。
物見程度が置かれていた程度の場所であり、防御機能はなし。攻撃を受けたら即、本城側に撤退することになっていたのであろう。
この南下が丹生の集落である。

一方、本郭に戻り、南下の曲輪に「三日月石」Dなるものがある。
解説によると「案内板によると1.敵が夜襲をかけてきた際に、この岩の水が月光で光り、警戒した敵が退却していった。2.城主であった丹生次郎金乗はこの水で墨書をしていた。3.この水は枯れたことがなく、住民はこの水を目の治療に使っていた。」と書かれている。
確かに削った部分は人工であるが・・・。

この三日月石の場所から南に2本、西に1本の尾根があり、各尾根に曲輪が展開するが、完全に藪状態。写真を撮っても藪が写るだけである。
しかし、切岸の斜面は急であり、高さもあるため、堀切もそれほど必要とされないが、一応、門跡のような土壇Eは存在する。
この尾根筋の曲輪はそれほどきちんとした感じのものではなかった。

南に延びる尾根末端が盛り上がり、そこが三郭であるが、ここもただの山、ここも物見台程度のものだったようである。
なお、丹生という地名、非常に変わっているが、ここは酸化鉄の多い赤土(丹生)が鉄鉱として採取され、製鉄・鉄鋼業が行われていたという。
それを管理としていたのが城主の新田氏であり、その主城がこの丹生城であったらしい。
なお、東700mに位置する城山が丹生東城であり、支城であったという。

@城のある尾根の最北西端は上信越自動車道が A北西端の曲輪。ここが最高地点。 BAから本郭までには6本の堀切がある。
C本郭東下の井戸跡 D本郭南西下の曲輪にある三日月石 E本郭南の尾根の門跡?
F大手筋の曲輪の堀切 G大手筋最南端の堀切 H塹壕状の堀底道

この城は新田氏の一族の城であり、新田義貞の末弟:四郎義重が鎌倉幕府を滅ぼした功でこの地を得て築城したとされるが、これは怪しく、足利持氏から地頭に任じられた岩松満長とも考えられている。
彼が先祖の新田姓を名乗ったのであろう。戦国時代、弘治年間(1555ころ)、城主は新田景純であり、小幡氏などと並びこの西上野に勢力を持ったが、武田氏の侵略で、永禄2年(1559)ころ武田氏に降伏、翌3年には甲斐に移ったという。
新田氏が甲斐に移されたのは製鉄技術者として移されたのではないかと思われる。
その後、丹生城は小幡氏のものとなったようであり、国峰城の支城として使われたと推定される。
なお、景純死後、子の信純は、後の永禄9年、武田氏の箕輪城攻めに従軍して功績を挙げ、後閑城を与えられ、上野に復帰した。

参考:山城めぐり