群馬県中之条町の城郭

嵩山城(中之条町大字五反田)
「嵩」は「たけ」と読む。あまり馴染みのない漢字である。
群馬県中之条町の市街地の北にやたら目立つ山がある。
この山が信仰の山「嵩山」である。

見るからに信仰を集めるにふさわしい山容の山である。
↓は南側、吾妻川南岸の植栗城から見た嵩山である。手前の街が中之条町の中心部。

それとともにこの山は「嵩山城」址でもあり、激戦が展開された歴戦の城でもある。
山は北から南に張り出した尾根の末端が盛り上がっているのだが、ほぼ独立峯と言える。

東西約700mに渡り、巨岩が林立する細尾根が連なる。
東のピークが標高789.2mの大天狗H、中央部が標高760mの中天狗D、そして西が標高723mの小天狗Bである。
南から見るこの山の印象的な姿はこの連続した細尾根を正面から見ているのである。


@道の駅「たけやま」からの登り口にある「一の木戸」、
ここが、一応、大手門ということになる。


A小天狗、中天狗間の鞍部、「天狗の広場」。
城の二郭に相当する。北斜面に帯曲輪が3段ほどある。


その3つのピーク間の鞍部に平坦地がある。
この平坦地が城としての主体部分である。
ピークは物見であろう。

中之条町役場から県道53号線を約2.5q北上したところに道の駅「霊山たけやま」があり、そこが登山道の始点である。
ここからの比高は大天狗までは約240mである。登山道は西のピーク、小天狗に向かう表登山道と東のピーク、大天狗に向かう東登山道があるが、どちらを行っても急坂できつい道である。

表登山道を登るとすぐに一の木戸@がある。
大手門であり巨岩がある。登山道は最後は中天狗と小天狗間の鞍部「天狗の広場」Aに出る。

25m×15mの広さがあり、曲輪である。
西の小天狗B側に数段の曲輪があり、北側斜面に3段ほどの帯曲輪がある。ここが緊急時の避難場所であったことが想定される。
小天狗は岩場であり、石の祠Cがある。
ここからの眺望は抜群であり、明らかに物見である。
中天狗側にも2段ほどの曲輪があり、巨大な岩の上を登っていくと中天狗Dである。
ここら東に向かうと2つほどのピークがあり、北に派生する尾根に曲輪が確認できる。

B大天狗から見た小天狗。まさに岩山そのもの。 C小天狗山頂の祠。
その左の林が中天狗、さらに左が大天狗
D中天狗の頂上、ここからの眺望は悪い。

中天狗と大天狗間の鞍部が城としての主郭部である。
西側に「無常平」(無情平)という平坦地Eがある。
「実城平」が本来の名であり、主郭を意味するのであろう。20m×12mの広さがある。
ここに落城時の犠牲者を供養する観音70体と阿弥陀如来1体が安置される。

その東したが本郭Fである。標高は738m、40m×20mの広さがある。
北側斜面には帯曲輪が3段ほど確認できる。
この平坦地の東側に「経塚」があり、ここから高度50mを登ると大天狗である。

そこに行くには、鎖に掴まりながら登る岩場Gを通過しなくてはならず、けっこう恐ろしい。
ようやく到着した山頂にはご神体の女岩Hがあり、頂上に石の祠がある。

E城の主郭「無常平」、斎藤城虎丸はここにいたのだろう。
死者を弔う石仏から出るオーラが凄い。
F無常平から少し下ったところにある本郭。 G大天狗までは岩場の連続。けっこう怖い。

ここからの眺望は抜群であり、北には苗場山方面が望まれる。


←H大天狗山頂にある女岩。 ↑女岩上の祠と北方向の眺望、山は苗場山方面。

古代から祖先の霊魂を祀る山を「たけやま」と呼び、嵩山は死者の霊が山の上に集まる神聖な「霊山」として、吾妻地方の信仰を集めていた。
字としては「武山」「嶽山」「岳山」とも書き、和利嶽、見付山、お天狗山とも呼ばれる。
この山には神様がいて、春には里におりて田畑の神となり、実りを与えてくれるとされていたので豊穣の神でもあった。

縄文時代の遺跡も多く、「嵩山の神和利大明神として子持山の神を妻とし、鳥頭明神を子供として吾妻地方の中心的な神となっていた」と『神道集』に記されているので、多くの霊山同様、縄文信仰が後世の信仰のルーツであろう。

中世はここは城郭でもあり嵩山城と言った。
白井長尾氏の支城の1つであったようであるが、居住用の城ではなく緊急時の避難場所であったようである。
その後、岩櫃城の支城となり、斎藤氏の城であった。

永禄6年(1563)には、岩櫃城が武田信玄家臣の真田幸隆に攻められ落城すると、岩櫃城主吾妻太郎斉藤越前守の子城虎丸を擁した吾妻衆(岩下衆)が、上杉謙信の支援を受けて嵩山城に立て籠った。
その前進基地が内山城、城峰城、横尾八幡城であったという。

しかし、真田幸隆の調略で池田佐渡守を離反させ、総攻撃を行い永禄8年(1565)11月、激戦の末、嵩山城は落城し、一族は大天狗の岩から飛び降り自決した。
この戦いで真田方にも多くの損害が出たという。
現地を見ると、まともに攻撃すれば大損害が出るだけである。
だいたい、城方は上から豊富にある岩を落とすだけで撃退が可能である。

やはり、大軍で包囲して兵糧攻めをするか、離反を誘うしか攻略の方法はないだろう。
前者の方法は余程の余裕がないとできない方法であり、短期間での攻略なら後者以外の方法はないだろう。
城は落城が、再建されることなく廃城となり、以前のような霊場に戻った。
なお、この戦死者を弔って、元禄15年(1702)坂東・西国・秩父の百番観音が建立された。
(中之条町のHP、日本城郭大系を参考)

横尾八幡城(中之条町大字横尾)
中之条中心部から国道145号線を沼田方面に約3q、名久田川と赤坂川の合流地点西側の標高425m、合流点からの比高約65mの山にある。
城には矢場地区から林道が八幡地区に延び、その途中に案内があるので車で行けるのであるが、何せ狭く急な林道である。
対向車に来たら大変である。まあ、その時は自己責任で対応願いたい。・・それしかない。

城は尾根末端の盛り上がった部分に土塁で囲んだ主郭を置き、その周囲に輪郭状に曲輪を配置した小規模なものに過ぎない。
主郭部には東屋@があり草が刈られているが、周囲は小竹が密集した藪状態であり、遺構全体の把握は不可能である。

「吾妻記」によると、大永年間(1521〜1528)に尻高三河守によって築城されたと伝えられる。永禄8年(1565)の嵩山城攻防戦では嵩山城の出城として使われたという。

真田領になると天正8年(1580)に真田昌幸が富沢豊前守を配置する。
天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると吾妻地域が空白地帯となり、さらに同年6月に起きた本能寺の変によって織田氏配下の滝川一益が厩橋城から引き揚げると、上州南部までを支配していた北条氏が北上を開始し、吾妻・利根を支配する真田氏と対立する。
天正12年(1584)真田昌幸は吾妻・利根の二郡を岩櫃城の長男の信幸に任せる。

天正17年(1589)12月名胡桃城を奪った北条勢が次の目標とした真田氏が支配していた吾妻領を狙い、北条氏邦が白井城から攻め寄せるが、富沢氏、渡辺氏、金子氏、尻高氏、鎌原氏、湯本氏、川原氏などの吾妻勢がこの城に篭り、これを退けたと伝えられてる。
城を見た限り、居住用の城ではなく、戦時用の戦闘用城郭である。
天正末期に北条勢来襲に備えて真田氏が整備したものであろう。
けっこう知名度がある割には予想よりコンパクトな城であった。
@北西側尾根鞍部にある虎口。この方面が搦め手か? A本郭は土塁に囲まれ東屋がある。
B本郭北東側土塁間に開く虎口。 C本郭東下の帯曲輪

城峰城(中之条町大字西中之条)
中之条市街地の北側の東西に長い山にある。標高は440m。城址の西側が福祉施設「萌希の丘 ほほえみ工房」がある。
その東側が城址である。
西側の堀は道路になって湮滅しているが、その東側の土塁は残っており、中央部に虎口が開く。
おそらく、堀には橋が架かっていたのであろう。
土塁の東側が主郭であるが、35m×50m程度の広さであり、その周囲に帯曲輪がある。
城の東側は山が続くが堀等はなく、100m東に旗塚という物見台がある。

歴史等は不明であるが、西側を意識した構造である。
永禄8年(1565)の嵩山城攻防戦において城方が真田方の岩櫃城に対し築いた出城ではなかったかと思われる。
簡素な造りから陣城程度の臨時築城されたものかもしれないが、内部が適度な広さを持つため、居館としても使うことが可能であろう。

@西側の土塁、堀は埋められ道路になっている。 A主郭内から見た西側の土塁。 B主郭部東側の曲輪。

吾妻城(中之条町大字中之条町)
別名「中条の塁」と言う。
まず、住所が凄い。
中之条町大字中之条町・・何だこれ?冗談?間違いかと思ったら正しかった。

城の名も凄い。
この地方の総称である「吾妻」である。
驚き続きのこの城、さぞ凄いかと思いきや、別の意味で凄い。
小さい!これは居館レベルである。

@城址西側、道路は堀跡であろう。 A主郭と推定される「オクリ」の虎口。
城址は3、4軒の民家である。
城ということを隠せば、ごく普通の宅地である。
でも、よく見れば城の要素が見られるのである。

場所は中之条市街地の
西側、吾妻川の北岸、西側に枯木沢川が流れ、川側は深さ10mの谷になりかなりの要害になっている。
南側は国道145号線が通り、王子原の三叉路交差点がある。

その枯木沢川の東側の南北に長い台地が城址であり、台地の東側は低地になっている。
城域は南北150m、東西40mほど、内部は4段程度になり、北側の標高が358m、南端が348mである。

内部は城主子孫、剣持氏の宅地になっている。
「オカタ」(「お館」の意味か?)「オグリ」という地名が残り、坂虎口が確認される。

伊豆出身の北条氏家臣、鹿野(こうの、狩野とも)和泉守が在城していたが、後に真田氏の家臣となり、沼田藩改易後、帰農し、剣持に改姓したという。
しかし、北条氏の家臣がなぜ、ここにいるのであろう。
北条氏は吾妻地方には触手を延ばすが領土にはしていない。
北条氏の下を離れた旧家臣がここに住み着いた、あるいは北条氏滅亡後、真田氏の家臣になった者であろうか。

小城(中之条町大字伊勢町)
中之条市街地東部、JR吾妻線と国道353号線、県道232号線に挟まれ、東に桃瀬川を望む台地端部にあった。
標高は330m、桃瀬川からの比高は15m程度である。

しかし、遺構は宅地等になり、城の名残は「古城公園」@という名前に残るのみである。

この公園の西側の民家付近が本郭だったといい、周囲の道路が堀跡であったらしい。
台地続きの西側には沢を利用した堀が存在していたらしい。

鳥瞰図は「日本城郭大系」掲載の山崎一氏作成の縄張図を参考にした。

@二郭東跡にある「古城公園」、住宅のある付近が本郭部。 A古城公園東下の平坦地は腰曲輪の跡らしい。

白井長尾氏が岩櫃城に対するために築いたものという。でも、それ本当だろうか?
現地を見てみると、この城の対敵方向は逆に東方の白井城方面である。
岩櫃城の支城といった方が妥当である。
天正8年(1580)12月、尻高摂津守・同庄次郎の立てこもる小城を池田佐渡守、海野郷右衛門らの吾妻勢が夜襲をかけて奪い、摂津守が戦死。
天正17年(1589)12月、名胡桃城を奪った北条勢が次の目標とした真田氏が支配していた吾妻領を狙う。
この時は管理人の見解どおり、岩櫃城の支城として機能している。
しかし、小城を守っていた蟻川入道、桑原大蔵らが白井城から来襲した北条勢を撃退、翌天正18年2月、北条方に奪われるが、夜襲で再奪還したという。

名前の通りの小城であるが、最前線にあったため、戦歴が豊富である。
しかし、現在のほとんど何もない姿から激しい攻防戦が繰り広げられたことは全く想像ができない。
(日本城郭大系を参考)

山田城(群馬県中之条町)
中之条から国道353号線が四万川沿いに北西にある名湯「四万温泉」方面に延びる。
山田城はメインルートである四万川の東岸を走る国道353号線の反対側、県道234号線沿いにある。
県道234号線は東吾妻町の東吾妻中学前から国道145号線から分岐して北に延びるが、約2.5q進むと善福寺がある。
その西側に吾妻神社があり神社西から南の山に林道が延びる。

この林道を約1q、登っていくと道は分岐し、大きな民家がある。
そこの道脇に城址の解説板が建つ。そこが城址の入口であり、城の西端である。
この道も堀跡ではないかと思われる。解説板から東に延びる道を進めば城址である。

この城、標高500mある。
山麓が391mであるので比高は約110mある。結構高い。

この高さの山城と言えば尾根式の直線連郭式というイメージがあるが、この城、四方に広く丘城のような印象である。
山城特有の鋭さはなく、曲輪は広く、切岸は低く緩やかであり、居館的な感じである。

曲輪によっては自然の山としか思えないところさえある。
城は南北2本の緩やかな尾根とその間の谷津部が城域である。
南側の尾根筋の付け根部は藪であるが、堀切などが確認できる。
先端部には堀切Fがあるが、自然の谷のように思える。
その先Hは緩やかに傾斜しているだけで城域らしいが、そのような感じを受けない。

一方、北側の尾根筋は比較的藪は少なく歩ける。
この道@を進むと帯曲輪を経てすぐに本郭Aとなる。
この位置が36.5893,138.8039。
本郭は20m四方の広さに過ぎない。


@解説板から東に延びる道を行くと、本郭南の帯曲輪に出る。

A本郭内部ちゃんと城址の標識がある。

北側に曲輪があるがここは藪、東側は堀切Bがあり、その東側に広い曲輪Cがある。
谷津部に降りていくと谷津底が平坦になっている。
そこは池だったといい、水の手曲輪Dとなっている。
文字通り水場であるが、今は水がなく干上がっている。

しかし、その北側が深さ10m位、抉れた谷Eになっている。
谷底には水が湧き流れ出ている。
この場所の東に南側の尾根の曲輪群先端の堀切Fがあり、物見台のような土壇状の曲輪Gがある。
ここは東の中之条方面への物見だろう。
さらにその先に緩斜面Hがあるが、ここが曲輪かどうか微妙な感じである。

B本郭の東下に堀切があるが、規模は小さい。 C本郭の東に位置する広い曲輪。 D谷津部の平坦地、水の手曲輪、池は干上がっている。
E谷津部の先は谷になっており沢になっている。 F南側の尾根に展開する遺構の東端にある堀切 GFの堀切北側の曲輪、東方面の物見台だろう。

全体に戦う城というイメージではなく、山中にある居館あるいは軍勢駐屯場である。
水が確保でき曲輪も広く、大勢の人数を収容も可能である。

この山系はこの付近の拠点城郭、岩櫃城に続く。
大括りに言えば、稲荷城等と同様、その支城の1つである。
南の山には高野平城があるが、そこが詰めの城兼物見だろう。

城主は岩櫃城の城主であった斎藤氏の一族山田氏であったという。
永禄6年(1563)真田幸隆の攻撃で岩櫃城が奪われ、斎藤氏は没落するが、ここの山田氏がどうなったのかは分からない。
近世にはこの地の村役人に山田氏の名前が見られるが、子孫である。
斎藤氏没落後、帰農したのか、真田氏に従属した後、岩櫃城が廃城になった後、帰農したかのいずれかであろう。


HGの曲輪の北側はダラダラした緩斜面である。