丸岩城(長野原町大字横壁)
多くの城があるが、奇怪な姿の城としてはここ以外には、精々「岩殿城」程度であろう。
別名「丸屋要害」と言う。
とても城を築くような場所ではない。「丸岩」は何せ南側以外は断崖絶壁の山である。


↑ 北西下、国道406号線から見た丸岩。まるで「たこ坊主」。妖怪である。
まさか、この上に城があるとは・・。


標高は1124m、これも半端ではない。
吾妻川からの比高は約577m、これも半端ではない。
でも比較的簡単に行けるのである。
長野原から高崎方面に国道406号線が通り、城の少し南が標高1039mの須賀尾峠である。

この峠近くから城に行く山道がある。
その入口部の標高が993mであるので、城址までの比高は131m。
かなりの高さが稼げる。
ここから城址までの直線距離は800mほど。
それほどのものではない・・・ということはない。

実際は丸岩の南側の標高1161mの岩山の下を通るのであるが、その岩山から崩れた岩だらけの道を行かねばならないのである。
ちょっとバランスを崩すと転ぶ。
転ぶと岩にぶつかる。危険きわまりない。

@岩場を越えると鞍部に出る。ここからが城域である。 A南側の尾根筋には塹壕状の遺構がある。 Bここが主郭、小さいが土塁が周囲を囲む。

2015年秋にここに来た。
その時は天気が急変し、吹雪になった。
こんな岩場、濡れたらさらに滑りやすくなる。
そんことであの時は断念せざるを得なかった。

今回、幸い天気は良かったが、それでもこの岩場の通過は怖い。
岩場通過時に地震が来たら?多分、上から大量の岩が落ちてくるだろう。
現に岩が当って倒れたり、折れたりしている木が何本もある。

この岩場を通過すると鞍部@に出る。
ここからが城域である。
登っていくと尾根の中に堀があるような変わった遺構Aが現れる。
果たしてこれが堀なのかは分らない。
埋没しているのかもしれない。
堀ならおそらく遮蔽塹壕であろうか?
それとも風避け通路か?

C主郭から西側に下る尾根には曲輪が展開する。 D主郭、東側の鞍部。
E主郭から東に続く尾根には曲輪が連続する。 F北側斜面の帯曲輪。防御には役には立たない。
これは大笹街道への威圧用だろう。

山頂の主郭Bは小さいものであるが周囲を土塁で囲んだ楕円形陣地であり、ちゃんと造られている。
この主郭の西側の尾根に段々に曲輪Cが展開する。
さらに東に続く尾根にも曲輪D、Eが展開する。
麓から見上げる奇怪な山容に比べるとごく普通の山城の姿である。
そのギャップが意外である。

長野原町誌によると、築城年月については不詳であるが、加沢記によれば、永禄6年(1563)10月中旬真田昌幸、矢沢頼綱は五百余人を引きつれて、大手三島大竹の陣所に向う途中、このここを通ったことが記されている。
このとき大戸真楽斎、弟但馬守の両名は二百人程の兵を率い須賀尾峠丸屋の要害に出迎え、真田の兵と合わせて七百余騎云々とある。
或るいはこの時代、この城は大戸真楽斎の城であったと思われる。

長野原郷土誌によれば元亀年中には海野幸全が居住していたという。
更に加沢記では、天正10年(1582)8月北条氏が吾妻郡に侵入を企図したときは、湯本、西窪、横谷、鎌原の4人のものが交替で加辺屋の要害に籠っていたと記されている。
また、沼田盛衰記によると、天正16年の頃横河辺、丸屋城は鎌原宮内、羽尾入道、横谷左近、湯本三郎右衛門が交替で守っていたことが見え、加沢記と大同小異である。

天正17年(1589)8月、沼田城、名胡桃城を奪った北条氏は吾妻の岩櫃城占領を画策する。
須賀尾峠からの侵入も侵攻ルートに想定されていたと思われる。この城は鎌原、湯本三郎右衛門、西窪治部、同甚右衛門が守備していたという。

この記述からは須賀尾峠を越えてくる敵を防ぐための城であり、城の正面は異様な山塊が見える北側ではなく、南の須賀尾峠方向であったことになる。
この城には居住性はなく、居館は麓の柳沢城であり、平常時は少数の城番がいただけだろう。
おそらく城番の役目は敵の侵入を主郭から狼煙や太鼓等で麓に知らせることであっただろう。

なお、北側斜面にも帯曲輪Fが存在する。この曲輪は大笹街道を敵が進む場合の威圧用であろう。
山頂部とここに旗を林立させれば、大軍がいるように見えるだろう。
しかし、この城に籠れる人数はせいぜい100名程度のものであろう。ウ
(日本城郭大系を参考)

長野原城(長野原町大字長野原)
長野原町役場北の標高753mの山が城址である。
役場からの比高は約135m、吾妻川からは約174mである。
城のある山は吾妻川と白砂川の合流地点にある。
ちなみに白砂川の上流が六合村である。
この城から、少し西側を大笹街道(国道145号線)から分岐する国道292号線の先が天下の名湯「草津温泉」である。
本来ならこんな急な岩だらけの山城で汗だくになっているより、名湯に使ってゆっくりしたいものである。

城には役場裏からの道を行けばよいが、この道はかなり遠回りになる。
このため、役場から東に300mほど行った山の中腹にある薬師堂から登る。

でもこのルート、近道であるだけあり急勾配である。
おまけにかつて大雨でがけ崩れで閉鎖され、管理もされていない。
閉鎖と言ってもそこは自己責任である。
崖崩れといっても、岩が道に倒れているだけで特に登るのに支障はない。

それより、山道に積もった落ち葉が滑るので恐ろしいのである。

この道を登ると箱岩という巨岩が聳える。
この上が箱岩出丸である。
巨岩の下に水場がある。

その西側の斜面に2段の平坦地があり、岩がある。
ここは南向きであり、北風もさえぎることができる場所である。

多分、ここに城番の小屋があったのであろう。
この平坦地の北が尾根である。

この尾根沿い約1qにわたり城郭遺構が展開する。
標高は720〜50m、アップダウンが続くが比較的歩きやすい。

尾根の北側は崖である。
尾根を東に行くと箱岩の上の箱岩出丸であるが、小さなピークがある程度である。
さらに東に行くと東の物見がある。
この先に東出城、物見が展開する。

尾根を西に向かうと秋葉山出城がある。
物見台の土壇と武者溜がある。

さらに西側の最高地点が主郭部である。
最高地点には土壇があるが狭い。
この部分は尾根城ではなく西側斜面に段々に曲輪が展開する。
居住性も有する場所である。

曲輪は比較的広く平坦である。
竪堀が西下に下る。
この方面が大手である。
@本城の最高箇所の土壇、井楼櫓があったのであろう。 A@の土壇の西側の曲輪。 B本城の西に下る竪堀。
C本城の南側に展開する尾根の曲輪。 D秋葉山出丸の土壇。 E秋葉山出丸の堀・・ではなく「武者溜」。

長野原町誌によると、上杉氏家臣、羽尾入道の城であったという。
羽尾氏は岩櫃城主の斎藤憲広とともに、真田幸隆に従う西の鎌原氏と領地争いをし、永禄5年(1562)9月中旬、鎌原氏に所領を押領されると、真田幸隆は鎌原、長野原両所の要害に禰津、芦田、甘利衆をおいて勤番させ、長野原城は芦田衆によって勤番した。

そしてここを前進基地として岩櫃城攻略を開始する。
永禄6年(1563)9月中旬、真田幸隆の岩櫃城攻略戦は斎藤氏との和議が成立するが、9月下旬、斎藤憲広は和議を破り長野原城を攻撃。
長野原合戦が展開され、斎藤越前守により長野原城は奪還され、羽尾入道道雲が城主に返り咲く。

F秋葉山出丸の南斜面にある腰曲輪 G箱岩、この下に水場がある。岩の上が箱岩出丸。

しかし、同年10月13日真田氏は斎藤氏の本拠、岩櫃城を攻撃して占領、
11月27日夜、羽尾入道は、羽根尾城にいたが鎌原氏の攻撃を受け、大戸城に逃れ死去する。
その後、長野原城も真田氏の手に落ち、湯本氏が城主を務めた。

H箱岩出丸の最高箇所、北は崖である。 I箱岩出丸の東側の曲輪。

天正10年(1582)北条氏が吾妻郡へ侵入を企図したときは、湯本三郎右衛門がこの城を守っていたことが、加沢記、吾妻郡城塁史に確認される。
それ以降、この城がどうなったか不明であり、廃城の時期も不明である。
(日本城郭大系を参考)

羽根尾城(長野原町羽根尾)
JR吾妻線羽根尾駅の北の標高750m、比高90mの山にある。
国道145号線と吾妻線が交差する場所から線路の北側に入り、道は細いがそのまま進み、山に登って行く。
↓は羽根尾駅の北側から見た城址の山である。

途中に6台ほど止められる駐車場があり、そこから歩くが、軽の4駆ならそのまま行けないことはない。
結構、急な坂であるが、5分ほどで本郭北側の堀切@付近に至る。
この堀切、深さ6mほどの立派なものである。

ここを南に登ると本郭Aであるが、東西20m、南北50m、周囲は高さ1.5mほどの土塁が全周巡り、東側に鉄塔が建つ。
西側斜面には竪堀が下る。南側10m部分は枡形になっており、東下4mに腰曲輪がある。

本郭の南側は深さ7mほどの堀切Bがあり、竪堀Eとなって下る。
その南側に長さ15m、中央部に土塁を持つ曲輪Cがあり、高さ6mの切岸の下Dに長さ40m、幅5mほどの曲輪があり、その先は下りの尾根続きとなる。
一方、本郭の北側は比較的平坦な尾根が続き、水場がある。
この方面には堀切は存在しない。

本郭の西側の谷部には2段ほどの段差があり、これも城郭遺構である。
地図にもマーキングがあり比較的有名な城ではあるが、城はほとんど単郭の物見の砦程度の規模である。

ただし、堀などのメリハリは素晴らしく一級品である。

築城は、天文年間(1532〜1555)の初期、この地方の領主、海野一族、羽尾幸全という。
天文10年(1541)、武田信虎・村上義清・諏訪頼重らの連合軍に追われた滋野一族の海野棟綱、その子真田幸隆が、鳥居峠を越えて吾妻郡の同族である羽根尾城の羽尾幸全を頼り、幸全は幸隆らを庇護した。
のちに寄親の長野業政の箕輪城に身柄を預けられ庇護された。
海野平の奪還をめぐって、関東管領・上杉氏を頼ろうとする父・海野棟綱と、甲斐武田氏で父・信虎を駿河に追い家督を継いだ武田晴信(信玄)を頼ろうとする真田幸隆の意見が対立、
幸隆は箕輪城を出て、武田信玄の家臣となった。

その後、皮肉にも武田氏の信濃先方衆として、吾妻攻略を命ぜられ、恩のある上杉氏に付く羽尾幸全、長野業政らと戦うことになる。
この地の最大城郭は岩櫃城であり、幸隆はまず岩櫃城の斎藤氏と対立関係にある鎌原城の鎌原氏を味方とする。
しかし、永禄6年(1563)羽根尾城、長野原城周辺で合戦となり(長野原合戦)、羽尾幸全は戦死したとも、越後上杉氏を頼って落ち延びたとも言われる。
その後幸隆は岩櫃城を攻略し、吾妻一帯を支配に置く。

なお、幸全の舎弟海野幸光(長門守)輝幸(能登守)兄弟は、幸隆に従い、永禄9年(1566) 幸光は岩櫃城代、 輝幸は沼田城代にそれぞれ任ぜられた。
しかし、 陰謀に嵌まり真田昌幸の誤解を受け、天正9年(1581)11月29日幸光は岩櫃城で、 輝光は迦葉山の女坂で自刃させられてしまう。
幸光75歳、輝幸72歳であった。

@本郭北側の見事な堀切 A本郭内部。全周を土塁が覆う。 B本郭南側の深さ7mほどある堀切
C 二郭の腰曲輪 D 二郭南側は細尾根状の曲輪が続く。 E Bの堀から下る竪堀。

林城(長野原町川原湯林)

林集落の南、吾妻川にのぞむ崖端にあり、この付近の字が「城」である。
標高は610m、下の旧道からは比高50m、吾妻川からは比高90mほどある。
八ッ場ダム建設に伴う国道145号線の高所への付け替え工事で平成19年(2007)に発掘調査の結果、城や屋敷の遺構が発見されという。
北側は平地であり、この方面から攻撃されると弱いが、この北側に迂回するだけでも大変である。
おそらく吾妻川沿いの街道筋を監視するための城であろう。遺構はどこまでが遺構なのかよく分からない。
規模もよく分からない。崖に面し腰曲輪があるが草だらけで分からなかった。

これが遺構らしいが・・南側に帯曲輪がある。 発掘現場、ここは虎口か? 西側から見た城址、丸岩大橋の上に当たる。