上泉城(前橋市上泉町)

赤城山南麓の扇状地にある平城、桃ノ木川と藤沢川の合流地点に築かれ、大胡城の支城といわれている。
前橋駅から北東3qにあり、上信電鉄、上泉駅から北に500m、桃ノ木川を渡った北岸にある。
上泉郷蔵があるところが本郭、上泉(かみいずみ)町自治会館の地が二郭、その北側を覆うように三郭が配置される。
平城のため、住宅地となり遺構はかなり失われてはいるが、堀跡、切岸が所々に残っている。
城域はさらに西も広がっており、西林寺の地も範囲であり、西端の玉泉寺の地が出丸である。
公民館の北側に一段高い本郭があるが、それほど広いものではない。内部に江戸時代に建てられた郷倉がある。周囲に土塁があり、堀が存在していた。

城は天文年間、大胡城主大胡氏の一族の上泉氏によって築かれたという。
上泉氏の出についてどこまで真実か分らないが、地理的には大胡城の支城であることは間違いないと思われる。

上泉氏といえば、剣豪、上泉信綱が有名であり、ここの城主だったと言われており、像が本郭南の公民館前に建てられているが、彼が本当にここで生まれ育ったのかについては確証はないようである。

上泉氏は北条氏の北進に対して、長尾景虎(上杉謙信)に従って転戦しているが、直接の上司は箕輪城の長野氏である。
永禄元年(1558)の長野氏の『着到帳』には、「下芝砦定居」として上泉伊勢守時則の名が見られる。

これが信綱と同一人物という可能性もある。永禄4年(1560)に長尾景虎によって作成された『関東幕注文』に、白井衆として上泉大炊助の名がある。
この大炊助が上泉城主であったかは分らない。
しかし長野氏は永禄9年(1566)滅亡し、そのころ、上泉氏も城主の座から追われていたと思われる。
その上泉信綱であるが、剣豪の親父の名も信綱、彼は「武蔵守」を名乗っており、上泉城主であった可能性が高い。
剣豪である子の信綱ははじめ秀綱を名乗っており、途中で伊勢守信綱と親父の名を襲名したという。
これが、剣豪信綱がここの城主だったとの混乱の基となっている。
確かに彼はこの城で生まれた可能性はある。

いずれにせよ、剣豪信綱は全国を旅しているが、それは上泉氏が長野氏を滅ぼした武田信玄は仕官を進めるが、彼はこれを拒否し、城を去ったことによるものと思われる。
元々、剣豪としての素養はあり、松本備前守政信(一説に塚原卜伝)について鹿島新当流を、ついで愛洲移香の子小七郎宗通について陰流を、また小笠原宮内大輔氏隆に軍法軍配の術を学び、これらに創意工夫を加えて新陰流を編み出したといわれるが、どこまで真実かは分らない。
城を去り、彼は門人縁者を伴い、新陰流を広めるため、京都を目ざして修業の旅に出る。
この時、「伊勢守信綱」を名乗ったらしい。

本郭跡は高さ3mほどの高台になっている。 本郭から見た自治会館の駐車場は堀跡である。 西林寺南側の切岸

まず塚原卜伝の一ノ太刀の伝授者である伊勢の国司北畠具教を頼り、その紹介で奈良興福寺の宝蔵院胤栄を訪ね、柳生但馬守宗厳、松田織部助信栄を教え、ついで京都に入り、将軍足利義輝に技を披露する。
また、権大納言山科言継ら公家(くげ)たちと親交を結び、元亀元年(1570)従四位下に叙せられた。
その後、京都を離れたが、信州千野氏に技を教授したことまで判明しているが、その後の動静や没地・没年などはさだかではないという。
菩提寺である西林寺の過去帳には天正5年(1577)1月16日を命日としているが、これも確かなものではないという。

なお、信綱の嫡男秀胤は、北条氏に仕えていたが第2次国府台合戦で戦死し、その後を泰綱が家督を継ぐが、小田原の役で北条氏が没落すると浪人になったとされている。
彼は上泉主水で知られる会津一刀流剣術の開祖である。
出自については諸説あるが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前に上杉景勝の軍備強化の一環で仕官を求められたとき、それに応じて上杉氏の家臣となり、直江兼続の配下となった。
そして最上氏との戦いである長谷堂城の戦いで戦死する。
泰綱の娘の元へ志駄義秀の子が養子として入婿し、300石で跡を継ぎ上泉秀富と名乗り、以後、子孫は米沢藩士として続く。
海軍中将・上泉徳弥は子孫にあたる。

国土地理院が昭和49年に撮影した航空写真を使用。

大胡城西方支城群

国土地理院が昭和49年に撮影した航空写真を使用。

兎替戸砦(前橋市小坂子町)

兎貝戸(うさぎかいど)とも書く。

大胡城の西3qにある出城の1つであり、県道101号線沿いの芳賀中学校の県道を挟んだ東南付近にあった。
東が谷津になっており、比高8mほどの岡の東縁を利用している。

「日本城郭体系」によると100m×60mの規模であり、二郭からなり、堀・土居が残るとしている。

小坂子城(前橋市小坂子町)
「こざかし」と読む。
芳賀中の北にある八幡神社付近が城址である。
「日本城郭体系」によると250m×100mの岡城としている。
神社の東、民家との間に堀跡が残る。
神社北側の北に切岸があり堀切跡のように思える。


小坂子要害(前橋市小坂子町)
県道34号線と県道101号線が交わる小坂子交差点から県道101号線を600mほど北上した岡にあった。
西側と南側は谷津状であり、城址は民家になっている。北側に土塁と堀が存在したと推定される。


川白田砦(前橋市小坂子町)
県道34号線と県道101号線が交わる小坂子交差点から県道34号線を大胡方面に100mに行った場所北側の岡にあり、福徳寺の南に位置する。
「日本城郭体系」によると50m×80mの規模であり、北と西の道が堀跡ではないかとしている。


勝沢城(前橋市勝沢町)
字を「番城」「藤沢城」ともいう。
字名のとおり、支城(番城)であったと思われる。
県道101号線沿いにある芳賀小学校の北側一帯であるが、城の北側は高花台団地になって湮滅している。
西に藤沢川が流れ、天然の水堀になっている。
川に面して段々状になっており、これが遺構らしい。
岡の上には堀があったらしいが湮滅したのか確認できない。

遺構は室町時代以降の城というが、建久元年(1190)、源頼朝の家臣藤沢清近(清親)の居城であったといわれている。
清近は射術(弓馬の術)に秀でて、源頼朝の部下として多大の戦功があったという。
源頼朝も建久4年3月に下野国那須野から上野国三原の狩場の視察にこの地も巡回したという伝承があり、この時に、狩猟の達人22人を召抱え、その中に藤沢次郎清近が入っていたという。
勝沢は昔、藤沢と言っていたらしい。
団地が出来るまでは、遺構がよく遺され、南北約200mの規模であり、中央に南北に通る堀があり、これによって城は東西に2分されていたという。
堀の東が本郭であり、南北50m、東西60mの規模、北に幅15mの帯曲輪があり、「折」が見られたという。
堀の西が二郭であり、東西100m、南北70mの規模、その北に南北30m、東西40mの郭が並んでいたという。
←の写真は藤沢川沿いから見た城址であるが、段々状の曲輪跡の畑以外、遺構らしいものは見つけられなかった。
(芳賀村史参照)