赤堀城(伊勢崎市赤堀町今井)
旧赤堀町役場の西、国道50号線の赤堀小学校前の西大久保の交差点から県道76号線を前橋方向に200mほど進んだ場所、西の粕川、東の鏑木川との間に築かれた城である。

城域は東西170m、南北350mほどであり、この周辺の城同様、南北に長い。
本郭部のみが良好に残る。北側、東側に高さ4mの高い立派な土塁が残る。
ただし、郭内は畑である。郭内は一辺80mのほぼ正方形で、北と南とにある虎口は喰違い構造である。
周囲には掘跡が明瞭に残る。特に北側の堀は幅15m程度はあったようである。
当時は水堀であったという。

本郭の北から東を巡って南まで梯郭式に二郭が囲み、北側には土塁と堀跡が残されている。

なお、堀の北の民家の屋根換時、梯子をかけ登ろうとしたところ、梯子が旧井戸のような穴に入り込み、掘ってみると赤土面に黒色の穴跡があちこちに通じており、抜け穴ではなかったかと言われたという。
二郭の東面と南側は鏑木川の氾濫や宅地化で消滅状態にある。

この城は赤堀氏の居城である。
赤堀氏は藤原秀郷の子孫と伝えられるので、佐野氏や藤原姓足利氏などと同じ一族である。
このうち藤原姓足利氏の流れを組み、足利俊綱の子足利又太郎忠綱の弟泰綱の玄孫孫太郎教綱が祖であり、赤堀氏を名乗ったという。
本郭南側の虎口。 本郭東側の土塁。高さ3mほど。 本郭北側の虎口は食い違い構造。 本郭北側の堀跡。幅は20mほど。

赤堀氏は金山城の由良氏に仕えたが金山に去った。
その後、小菅摂津守が三代領有した。小菅氏は大坂の役にも出陣するが討死してしまった。
今も小菅氏を祖とする一族がこの周辺に多く、江戸時代初期に帰農した子孫と言われる。


天幕城(伊勢崎市赤堀町磯)

磯の城山という場所が天幕城、別名「磯城」の跡である。
赤堀城の北2q、毒島城の北東1.5kmに位置する。城は西を流れる蕨沢川に面した高さ8mほどの南北に長い丘陵上にある。
城域は南北400m、東西120mほどである。
岡の東側は蕨沢川の旧河道とおもわれる低地で、現在蓮田であるが、当時は水堀であったらしい。

城域はほとんどが畑であり、耕地化のため遺構はかなり破壊されている。
本郭は北端部にあり、北と、西に高さ4mの土塁が残るが、後は破壊されてしまっている。
その外側、西から北にかけて幅10mの腰曲輪がある。
この曲輪の東側が二郭である。
その間に北に下りる虎口がある。
虎口を下りたところに車を留めるスペースがあるが、ここは馬出であったという。
さらに西下の蕨沢川に面して井戸跡があり、水の手曲輪といっている。
写真は本郭北側の塁壁と堀である。
南にも虎口がある。二郭の南側に大堀切があり、その南が三郭であるが今はただの周囲より一段高くなった畑に過ぎない。

その南にも堀があったらしいが埋められたり、用水路が造られていたりして良く分からない。
三郭の南に南曲輪とも呼ぶべき一郭があったといい、その東面に追手虎口が構えられ土橋が通じていた。
南曲輪の南側には堀があったと思われ今は水田になっている。

この城は赤堀城の支城であろう。
この地は那波氏、桐生氏、由良氏、上杉氏、武田氏、北条氏ところころ支配者が変わったが、この城もこれらの支配者の思惑に翻弄されたのであろう。
廃城は小田原の役後であろう。


毒島城(伊勢崎市赤堀町今井)
国道50号線の赤堀小学校前の西大久保の交差点から県道76号線に入り、赤堀城前を通り、900m西に進む。
一丁畑の交差点を今度は県道102号線に入り、800m北上し、西に曲がると城址に至る。

赤堀城からは北西1.5kmの距離である。
この県道沿いに北斗という工場があり、これが目印である。
この工場の南西側にあたる。
水田地帯の中にある比高15mほどの島のような丘が城址である。
南方を除く周囲は丘であり、城のある丘はこれらの丘に囲まれた湾状の水田地帯(東西500m、南北400m)の中に孤立した島である。

当時は周囲は沼地であり文字通り島であったという。
島の西に巨岩あり、馬蹄の跡のようなくぼみがあり、上杉謙信の馬の蹄の跡という。
丘の大きさは東西150m、南北100m程度であり、2段構造となっている。

水田地帯から比高8〜10mのところに島を一周する帯曲輪があり、そこから3,4m高く本郭がある。
本郭内部は東西100m、南北50mの大きさであり、中は完全にフラットであり畑になっている。
虎口は西南中央のみである。桐生氏の家臣、毒島勘解由長綱が城主であったといい、後に桐生市広沢の寄居に移った。
城主が青木入道の時、三浦河内守謙庭公に攻められる。
北東から見た城址。
まるで船のようである。
北側の腰曲輪。
左の一段高いのが本郭。
本郭内部は平坦で畑になっている。 北側から見た帯曲輪と一段上の本郭。
きれいな2段構造になっている。

この沼には一匹の大蛇が住んでいて寄せ手を苦しめた。
そこで寄せ手は七つの石臼で毒をつき、吉沢峯の取水口から流し込んだところ、大蛇はいたたまれず西へ脱出し城はたちまち落ち、若君は仁田山の絹問屋(糸問屋)に落城の前晩に助けだされて仁田山方面に落ちたという伝説が残されている。

なお、吉沢峯には今も大きい臼が残されている。これを毒臼と呼んでいる。

位置的に赤堀城の出城ではなかったかと思われる。
当時は周囲が沼であったと思われ、それなりに堅固であったかもしれないが、周囲の丘の方が高く、そこから城内は丸見えである。
こんな状態で果たして城として成り立つのだろうか。

田島城(富士見村田島字森山)

富士見村役場の南側にある。
赤城南麓の舌状台地にある南北に長い城である。
比高は4m程度に過ぎず、ほとんどが宅地と畑になって失われている。

本郭の東側は崩されて畑になっている。
東西100m、南北70mが城域であったと推定され、北堀の外にも郭があったらしい。

上毛古城記に「引田城、長尾大膳太夫」とあるが、この城を指しているらしい。
漆窪城の出城であったと推定される。
北西側から見た城址。 東側に曲輪が残っている。畑は土を削った跡。

大前田の砦(宮城村大前田)

赤城山の南山ろくの扇状地にある大胡城の出城。
西側に川があり、その谷に面した台地の縁にあり、60m四方ほどの大きさの本郭を帯曲輪が囲む。

南北250m、東西100m位の城域を持つ。
現在は宅地と畑であるが、郭の形状や堀跡が分かる。
この民家付近が主郭部。竹薮の中に土塁がある。 城址南側は切岸になっている。