東吾妻町の城

岩下城(東吾妻町岩下)
国道145号線沿い、JR吾妻線の矢倉駅と岩島駅の間に岩島小学校がある。
その北に聳える山が岩下城である。
岩下の砦ともいう。

↑ 国道145号線から見た城址がある山

国道145号線からは比高が約110mあり行きにくい感じがするが、林道が背後まで延びており意外と簡単に行ける。
国道の北側に岩島中学校があった。既に廃校になってしまい今は八ッ場ダム建設工事事務所になっているが、そこへ行く道を通り、吾妻線の下を行くと林道になる。
途中で未舗装になるが、十分に車が走行できる。
この林道の最高地点で道が分岐するが、その付近に車を止め、南側の山の尾根に登りそのままに進んで行くと城址である。


@まず、迎えてくれるのがこの堀切。気合い十分。

城は東西2つのエリアに分かれ、西側が主郭部であるが、2つのエリア間には巨大な堀Cがある。ここがこの城の一番の見どころである。
幅は約25m、深さは主郭側から約15mある。
まるで谷であり、横断するのに一苦労する。
登り始めた尾根は東側のエリアである。

まず、申し訳程度の小さな堀切が現れ、次いで気合の入った深さ約5m、幅約8mの2つの堀切@、Aが現れる。
そこを突破すると、東のエリアの主郭Bとなる。
ここは一辺約30mのL型をした曲輪で内部は平坦である。

南の尾根に細い曲輪が続き、西側に腰曲輪があり、大堀切Cの西側に主郭が聳え立つ。
谷のような大堀切を横断し、西側のエリアの頂上部によじ登って到達。

A2つ目の堀切。 B東部分の主郭内部。平坦で広い。 C主郭部間の大堀切。写真では迫力がでない。
D主郭部最高位の曲輪、土壇がある。 E主郭部西下の曲輪には秋葉社があり登り道がある。 F主郭部から大堀切に沿って下る竪土塁

そこから大堀切をのぞき込むと怖い!
頂上部Dには土壇があり、井楼櫓が建っていたのであろうか。
ここの標高は545m、22m×15mほどの広さである。

下に秋葉社が建つ曲輪Eがあり、南下に参道が延びている。
西下にも帯曲輪が見える。頂上部に戻り、帰り道を探す。

大堀切に沿って竪土塁Fが北に延びているのでそこを降りるが、結局、藪の中に至り、東のエリアに戻るには一苦労する。
それほど大きな城ではないが、堀の深さ、切岸の鋭さ等、メリハリが素晴らしい。
西側がオリジナルの部分であり、それだけでは防御が不安であるため東のエリアを増築あるいは拡張整備したようである。

真田氏支配の時代は岩櫃城の西の出城である。それ以前は斎藤氏の城であり、大野氏から岩櫃城を奪って斎藤憲次が移った後は、家臣の富沢但馬守基光が城主になる。
永禄6年(1563)斎藤氏が真田氏に敗れ岩櫃城を奪われると、富沢行連は真田氏に下り、城主を務める。
その子、勘十郎は長篠で戦死している。

古谷館(潜龍院跡)(東吾妻町大字郷原)
戦国末期、真田昌幸が武田勝頼を保護し、その居館として用意したのがここである。
結局、その構想は叶わず、用意した場所は後世、潜龍院という寺院に転用された。
本来の名前は分からないが、一般的には麓の集落の名を取り「古谷館」と呼ばれている。

A石垣がある場所が、武田勝頼を迎えるために真田昌幸が準備したとい館跡、後に潜龍院という寺院に転用された。
背後の山は岩櫃山、緊急時にはこの山中に逃げ込めば、短期間なら何とかなる。


古谷館と古谷集落の航空写真 (Yahoo地図を使用)

武田勝頼をここに保護しようとしたという話が真実であったかは分らないが、戦国のイフの世界に浸れる場所である。
もし、武田勝頼がここに来たら?
どんな歴史になっていたのだろうか?
わくわくする話である。

@古谷集落の西から登る道は土壇に挟まれ、門跡だろう。 B潜龍院の南東側。平坦地端には土塁があったようである。 東側から見た平坦地。正面が潜龍院跡。

その場所は標高803mの岩櫃山の南側の中腹にある平坦地である。
標高は516m、吾妻川の川面からは比高144m、郷原駅から約100mの比高がある。
まさかここにこれほどの平坦地が存在するとは信じられないくらいである。
その広さ、東西250m、南北100mほどある。

北側に石垣がある区画があり、ここが武田勝頼のために準備した館の跡という。
南側には土塁が覆い、西側には城門があったような場所がある。

この平坦地は後世、畑になっていたといい改変を受けているようである。
ここには南側の「古谷」集落の西側から登る。

上の写真は古谷地区から見た岩櫃山であるが、古谷館は中腹にあるのであるが、ここからはその存在は想像つかない。
古谷集落、標高450〜80mにかけての緩い斜面にあるが、南にも尾根があり、両腕で覆われた山間の盆地であり、この集落自体も城砦都市的な性格を有する。
この形は岩櫃城に対する「平沢」集落の関係と非常によく似る。

郷原城(東吾妻町大字郷原)
潜龍院跡から等高線上を南東に5分ほど歩くと郷原城に着く。
潜龍院を守る城であるとともに、岩櫃城への吾妻川上流方面からの攻撃にかわすための城である。
また、潜龍院と岩櫃城を繋ぐための城でもある。

岩櫃山から南に派生した尾根にあり、北端部の標高536mのピークに主郭Aを置き、南に下る尾根筋に曲輪や堀を展開させる。
最南端部は榛名神社Fがある付近までであろ。

北端部が主郭Aであり、それより北は岩櫃山に続くため、こちら側からの攻撃は想定していない。
防御不要と考えているのであろう。というよりこの方面は逃走用なのであろう。
城の最終局面では岩櫃山に逃れれば当面の間は安全である。
この構造は岩櫃城と同じである。

@主郭背後の鞍部。普通はここに堀切を置くはず・・。 A主郭内部、西側に土壇がある。 B主郭の南側には腰曲輪が2段ある。

城の構造は北端の鞍部@の南側に主郭Aがあるが、物見台程度のものにすぎない。
西側に土壇があるが、これは風避け土塁であろう。
鞍部に堀切があっても当然のような気もするが存在しない。

C主郭南下の帯曲輪。 D主郭部南端の堀切。 EDの堀切から榛名神社までには平坦部がいくつかある。

鞍部北側の巨岩が曲輪のような感じである。
主郭の南に2段の曲輪Bがあり、さらに尾根に沿って3つの堀切Cを置く。

F榛名神社、ここも城域であろう。
周囲に平坦地が存在する。
G主郭部西下、潜龍院までの間には数段の平坦地がある。

最後の堀切Dから南に比較的平坦で細長い曲輪Eがあるが、そこから榛名神社Fまでの間には尾根に所々、平坦地がある。
榛名神社がある場所にも何等かの建物があったように思える。その周囲にも平坦地があり、ここも曲輪であった可能性がある。

なお、主郭から潜龍院までの間の谷筋にも段々の平坦地Gが見られる。
これが植林に伴うものかもしれないが、南斜面で居住性も有する場所であるため、城に関係したものの可能性もある。

稲荷城(東吾妻町原町)
吾妻地方の中心、中之条から国道145号を西進し吾妻川を渡ると、国道234号が分岐する。
国道234号を四万方面に向かうと東吾妻中学校がある。
その北西300mにある岡先端が城址である。


↑ 東吾妻中学校前から城址の岡を見る。
 道路は国道234号線。

ここは吾妻川と四万川の合流点に位置する岡であり、城址の標高は392m。
東吾妻市街地である原町が360mなので比高は30mほど。
吾妻川合流点が324mなので、合流点からは比高70mほどある。

城のある岡の南下に道があり、先端部近くから岡に上がるとそこは宅地と畑であるが、城の標識はない。
岡の途中は段々状になっており、帯曲輪Jであろう。
岡の上が畑Iであるがそこが二郭であろう。
その北側が本郭であるが、そこが見事である。

@本郭東側の虎口と土橋、堀。 A本郭東虎口の土橋から南側の堀を見る。 B本郭東虎口北側の堀。
C本郭内部、周囲を土塁が一周し見事である。 D本郭の土塁北端部、下は帯曲輪になっている。 E本郭西側の堀は深い。
F本郭西側の土塁列の東側の土塁 G土塁列西側の道が堀跡。 H土塁列南側、ここで途切れている。

本郭Cはほぼ5角形をしており、径60m位の広さを持ち、周囲を高さ土塁4mの土塁Dが覆う。
西側の土塁が少し高い。
斜面になる北側以外を堀A、B、Eが覆い、特に西側の堀Eは土塁上から深さ6mほどある。
虎口は東@と西にある。

本郭の西側の堀の25m西に20mの間隔で2本の土塁列F、Hが南北に延びる。
その西側に堀跡Gが道となって残る。
ここの遺構がどうも良く分からない。
その西は民家の敷地になっているが、そこも城域であり、西側が土檀のように高くなっている。

I本郭の南側、東側の畑が二郭だろう。 J岡の南斜面の段々は帯曲輪だろう。

建久年間(1190年〜1199年)に吾妻氏が築いたというが、どこまで真実かは分からない。
今の姿は戦国時代の城であり改変されながら使われたのであろう。
戦国時代には大野氏の城で、岩櫃城の斎藤氏と婚姻を結び、斎藤氏の重臣となるが、同じ重臣仲間の岩下城主の斎藤憲次と抗争となり滅ぼされたという。

内出城(東吾妻町大字川戸)
岩櫃城から吾妻川を挟んで東の対岸、吾妻川右岸、県道28号線が吾妻川を渡る南西側、川戸神社と原町保育所の間にある内出の集落が城址である。
城址は集落と畑になっており、堀の一部は道路になったりしてかなり湮滅してしまっているが、櫓台や堀が比較的良く残る。
しかし、県道側からはごく普通の集落にしか見えず、一見、城址とは分からない。

城の範囲は東西350m、南北最大150mほどであり、集落自体が南側で比高3m、北側で5mほどの台地になっている。
標高は西側の本郭部が382m、東端部が379mと内部はほぼ平坦である。


@南端の曲輪に残る櫓台。

A南端の曲輪西側にきれいに残る堀。

吾妻川からの比高は約40mあり、川面は崖になっている。
西側の川戸神社側が主郭であり、特に、西端の櫓台@、堀Aがきれいに残っている。

B曲輪T側から見た曲輪Uとその間の堀 C曲輪T北側の櫓台
D曲輪Y西側の切岸。 E曲輪W東側の切岸。

また、主郭東側の堀と櫓台Cもよく残っている。
北の吾妻川側は城域より5mほど低く平地になっている。
ここは城域ではないようである。
北側の集落は曲輪の上にあり、切岸DEが明瞭である。

県道28号線の南側は山であり、ここから城内が丸見えであり、何らかの防御施設があったかもしれない。
総じて戦うための城というより、居住用の城館と言える。

「吾妻記」によると、築城は南北朝のころまで遡ると言われ秋間氏によるとされる。
秋間氏は吾妻三家の1つであるが、文明年間(1469−87)に大野義衡に滅ぼされたという。
それ以降の歴史は明確ではないが、吾妻川を挟んだ西側の山が岩櫃城であるため、その支城として家臣が居住していたものと思われる。
(日本城郭大系を参考)

植栗城(東吾妻町大字植栗)
中之条市街地から県道232号線を南に向かい、吾妻川にかかる「竜ヶ鼻橋」を渡った正面の標高343mの岡の東側が城址である。
吾妻川からの比高は約40mである。
当時、竜ヶ鼻橋の少し下流、吾妻川と名久田川合流点付近には渡しがあり、そこから古道が一直線に岡に延びていたという。
その道がちょうど城内を通る構造になっていたようであり、その点で渡しを管理する城である。

遺構は台地縁部にあり、岡に続く西側と南側を堀で区画しただけの小規模なものである。
岡が続く南側の太田小学校側から攻められればどうにもならない。
この方面にも遺構があると思われる。
ところどころに切岸を持つ住宅などがあるが、これが遺構なのだろうか。

@主郭西側の堀跡。 A主郭南側の切岸、水田が堀跡という。
植栗城は吾妻氏一族、植栗氏代々の居城で、応仁二年(1468)、植栗安芸守の伯母婿である柳沢城の柳沢直安が岩櫃城主の斎藤行弘に襲われてここに逃れた。
吾妻三家のひとつである稲荷城の大野氏が実権を握り岩櫃城の城主となった時、斉藤氏、植栗氏も一時これに従う。
しかしその後、抗争が起き、大野氏は岩下城の斎藤憲次に植栗河内守(大系では安房守)元吉を討つように命じるが、斉藤氏と植栗氏は親族の関係であったため、憲次は逆に元吉と手を組んで大野氏を滅ぼし、岩櫃城主となった。
その後永禄7年(1564)植栗氏は斉藤氏に従い真田勢とも戦ったが、岩櫃落城後は真田氏の家臣になり、長篠合戦に参陣し負傷したという。

(日本城郭大系を参考)

三島根古屋城 麓部遺構(東吾妻町大字三島)
JR吾妻線岩島駅の吾妻川を挟んだ南東の「根古屋」地区に西側は張り出した尾根が城址である。
地区の名前のとおり、根古屋地区に居館等があったと思われる。
尾根末端に諏訪神社があり、その上が城址にあたる。


@先端部の曲輪。内部は平坦ではない。
南下から見た城址先端部。右下に諏訪神社がある。 背後の山に山城部がある。

城は先端部分の平坦地と標高675mのピーク、斥候山または城山がが最高点となる山城の2つの部分からなり、総延長は東西700mほどある。
先端の平坦部は標高488m、根古屋地区からの比高は約50m、吾妻川からは約90mある。
この部分は東西約200m、南北約40mほどであり、西側が若干低く3段ほどになっている。


A先端部の曲輪西には櫓台があったというが、土盛り程度。

内部は必ずしも平坦ではなく、傾斜している。
斜面部には腰曲輪がある。
中央部には「鉄塚」という古墳?があったようだが、古墳であったのかどうか分らない。
現状は土盛り程度のものに過ぎない。

この部分はかつては竹林であったようであるが、竹は切られ、東斜面には重機で道が付けられている。
バイパス工事でこの麓部遺構はいずれ破壊されてしまうらしい。

B山城部に続く曲輪間との切岸 C先端の曲輪南下の腰曲輪、集落は「根古屋」地区。
その先は吾妻川下流方面、左に岩櫃山が見える。

山城部には行かなかったが、典型的な直線連郭式の尾根城という。
ここから吾妻川下流、東に約6qが岩櫃城である。
眼下の街道筋の監視と岩櫃城の西側を守るための支城である。

「吾妻郡略記」によると、永禄初期(1560頃)、江見山城守が築城したが、岩櫃城の斉藤憲広に城を奪われ、その後に浦野下野守が入ったという。
斉藤氏没落後は真田氏の城となり岩櫃城の西を守る出城として使われたのであろう。
(日本城郭大系を参考)

柏原城(東吾妻町箱島柏原)
根小屋城ともいう。城址が根小屋温泉となっている。
東吾妻町最東端にあり、東の沼尾川を渡ると渋川市である。
吾妻川を挟んだ東側には道の駅「おのこ」がある。
城は吾妻川と沼尾川が合流する標高300mの岡にあり、両川の断崖を利用した崖端城、吾妻川からの比高は60mである。

この岡、南から北に伸び、南を県道35号線が通り、根小屋温泉入口の標識に従って入って行くと、温泉に着く。
この道路が古道であったという。温泉付近が二郭というが特段何の遺構もない。
その南が三郭らしいが、ただの畑である。
三郭の方が地勢が高いので「穴城」と言える。
西側が窪んでおり堀跡らしい。
肝心の本郭がよく分らない。

二郭間には堀があったはずであるがない。
埋められてしまったのか、それとも崩落しているのか?
南に墓地があり、その付近東側と西側に堀跡のようなものも確認できる。
結局、遺構が良く分らないのである。

南以外からの攻撃には万全であるが、南に回りこまれたら弱そうである。
南側に巨大な堀等の防御施設があってもよさそうであるが、存在したような形跡がないのである。

主郭部は根古屋温泉になっているが、遺構は・・? 西側の畑の中に残る堀跡。

しかし、遺構はともかく、かなりの戦乱を経験した歴戦の城のようである。
築城は大永年間(1521〜28)、白井の長尾景春という。

戦国時代は武田氏の配下、真田昌幸の支配下に置かれたが、天正元年(1573)年、武田信玄が死去すると、混乱に乗じ上杉方の白井城の長尾憲景が一時的に奪取する。
その後、上杉謙信の死去で長尾憲景は北条方に付き、これに対抗して天正3年(1575) 真田昌幸に命じられて柏原城に荒牧斉藤宮内右衛門隆房、植栗河内守元信、湯本左京進を入れる。
天正10年(1582)本能寺の変が発生、北条氏邦が岩櫃城を攻撃しようとするが、植栗元信、伊能(いおく)氏等大田郷(川戸)の郷士等が柏原城に籠ったという。
天正17年(1589)の城主は湯本九右衛門のみである。
その後、天正17(1589)年には再び北条方の白井氏の手に落ちたが、天正18年(1590)の小田原の役で真田氏の城となり、その後、廃城になったものと思われる。

国土地理院が昭和49年に撮影した航空写真を使用。

箱島城(東吾妻町箱島寄居)
寄居城とも言う。安易な名前の城である。
渋川市のJR吾妻線小野上駅の吾妻川を挟んで南の対岸、東中の付近が城址である。

標高は312m、吾妻川からの比高は60mほどである。
西に千沢川の渓谷があり、そこを県道35号線が通る。
東中の地が主郭部らしいがほとんど湮滅状態である。
南側の体育館南に櫓台のような場所が残る。
千沢川に沿って土塁が存在する。

中学校の西側に残る遺構は曲輪か。 中学校の南側の櫓台跡

『中世城館調査報告書集成』では、寄居勘解由を城主としている。
『日本城郭大系』には白井城の支城と記載される。
西1qほどの斎藤氏方の白狐城と対峙するの城であった可能性がある。

国土地理院が昭和49年に撮影した航空写真を使用。

白狐城(東吾妻町五町田金原)

金原城とも言う。
箱島城から県道35号を西に進むと旧東村役場がある。

奥田川を挟んだ東の標高330m、県道35号線から比高40mの岡が城址であるが、岡の上は比較的平坦。
西端が主郭であるが、それ以外は段郭が認められるのみで、山側には堀らしいものも確認できない。
斎藤氏方の城という。
国土地理院が昭和49年に撮影した航空写真を使用。