白井城(渋川市(旧子持村)白井)
築城時期は不明。山内上杉氏に属する長尾景仲の築城といわれる。
この城もこの地方の他の城郭同様、上杉、北条、武田各氏の抗争の波に揉まれた歴史を有する。
山内上杉が川越夜戦で敗退し、北条氏に圧される頃になると本城が拠点となった。 その後、上杉氏の名跡を上杉謙信が継ぐと、上杉謙信の関東出陣の拠点となり、さらに武田氏の上州へ侵攻後は、真田幸隆が奪ったり、北条氏が奪回したりが繰り返された。 城主の長尾氏も、このため上杉氏−武田氏-上杉氏-北条氏−滝川氏−北条氏ところころ主を変えた。 天正18年(1590)の小田原の役では北条方の北関東防衛の拠点に位置付けられたが、松井田城を攻略した前田・上杉氏らの北国方面軍の攻撃で、長尾政景が降伏して開城した。 北条氏に心底服従していない長尾氏であれば余り戦意はなく、開城降伏は当然の成り行きであろう。 家康の関東移封後は、徳川氏家臣の本多氏が入城するが、元和9年(1623)に廃城となる。 渋川の市街北の利根川と吾妻川の合流点西側吾妻川の崖に面した丘に城が築かれている。 城の東は白井宿であり、城のある丘は白井宿より比高が15m程度高くなっている。 形状は南側に頂点がある3角形状であり、本郭は最南端部に位置する。 本郭の北側虎口には石垣が見られる。その北側に連郭式に二郭以下が並び、郭間は掘で仕切られる。 本郭、二郭の東側は深い堀(水堀?)が存在し、その東側にはさらに土塁がある。 その東にも郭があるが、これは本多氏の時代に築かれたと言われる。 主郭部のほとんどは農地と一部住宅になっているが、本郭周辺の土塁や堀、虎口の石垣などは完存しており、二郭、三郭間、三郭、四郭間の堀も浅くなっているものの良く残っている。 |
本郭虎口の石垣。 | 本郭と二郭間の三日月堀。 | 本郭虎口の土橋と土塁と堀。 | 本郭内の土塁。 |
本郭東側の堀と土塁を 本郭の土塁上から見る。 |
二郭と三郭間の箱堀(西側)と土橋。 | 二郭と三郭間の箱堀(東側) | 三郭内 |
勝保沢城(渋川市赤城町)36.5220、139.0453
赤城山の西山麓、利根川を眼下に見る旧赤城村の赤城歴史資料館、現渋川市赤城歴史資料館の地が城址である。
北約1.5qには関越自動車道赤城ICがある。
ここの標高は383m、利根川からは約90mの比高である。
赤城山の山麓末端に近いいわゆる崖端城に近いが崖部はもっと西側である。
北に諏訪沢川の谷があり、天然の水堀となっているが、東側、南側の防御は台地続きのためやや弱い。
資料館の駐車場に入るとすぐ北側に堀と曲輪が見える。
@西側の堀は北を流れる諏訪沢川の谷に向けて下る。 左の建物は赤城歴史資料館。 |
完全に残っているのは50×30mのほぼ長方形(楕円形?)をした曲輪の外周に幅8mの堀を回した遺構と南側に延びる堀程度である。
堀と曲輪はきれいに残っているが、堀はかなり埋没している感じである。
A南側の堀 | B北側の堀、@の堀と合流する。 |
残存している曲輪の南東側の、岡の方が標高が高いので、この岡が上位の曲輪かと思い入ってみるが一面のヤブ、段々状になっているのは確認できるが、これ以上は分からん。
この岡の南東に「宗玄寺」という寺があり、岡の東側は墓地になっている。
また、寺の敷地と駐車場の南側の「ひばり保育園」の地も城域だったらしい。
居館の崩御力を強化したタイプの城館といった感じである。
C写真左側が残存遺構部。写真右側の岡の方が高い位置に ある。こちらが主郭だろう。中央部が堀跡らしい。 |
D主郭と思われる岡(左)の西側に堀が残り、南に続く。 |
築城年代は不明であるが、宗玄寺の開基の斉藤加賀守真氏(安清)が、天正18年(1590)落城後、自分の居館跡の方一町を寄進し寺を建立したと古記録がある。
この斉藤加賀守は北条氏の家臣であったようであり、居城であったようである。
この斎藤氏、地元出身の土豪が織田氏勢力撤退後、北条氏の配下になったと思われ、加沢記によれば、天正8年(1580)に真田氏の攻撃を受けたという。
天正18年(1590)小田原の役では上州の北条方の城は前田利家、上杉景勝の軍に攻略され、この城も他と共に落城し廃城になったというが、斎藤氏が寺を建立したというので戦闘は起こらず、降伏し帰農したのであろう。
宮田寄居(渋川市赤城町)36.5240、139.0279
白井城の北東約2q、国道17号線から県道158号線を東に向かい、利根川にかかる宮田橋を渡った利根川東岸の宮田地区にある。
標高は208m、利根川からの比高は約10mである。
この宮田地区は利根川が大きく蛇行する地点であり、東側から西に半島状に突き出した地形である。
半島の周囲を利根川が流れている感じである。
寄居は先端部ではなく付け根部、県道の南側にある。
寄居中心部は宅地と畑で城郭遺構は見られない。
しかし、北東側、小川に沿って土塁の一部が残存する。
↑の写真は県道158号線から見た城址北西端部の土塁である。
宮田地区の西端、利根川に突き出した場所に「河岸」という地名がある。
河川水運を管理する施設ではないだろうか。