前橋城(前橋市)

群馬県庁付近が本丸に当たるが、遺構は県警本部周辺にコの字形に高さ4mほどの土塁が総延長300mほど、また北の前橋公園内に150mほどにわたって見られるだけである。
この他、臨江閣南側の窪地が空堀の跡である等、遺構は部分的に存在するが、県警周辺だけに留まるといって好いだろう。
それ以外は全て市街地となり湮滅している。

今はここは群馬県の県庁所在地「前橋」であるが、戦国時代は「前橋」ではなく、この地を厩橋といっていた。
したがって、戦国時代の前橋城の名は「厩橋城」と言っていた。

あの上杉謙信が関東侵攻の基地にしていた城として歴史上、いくつかの資料にも名が残る有名な城である。
しかし、今部分的にしか遺構は残ってはいないが、この城は、戦国時代の城でも藩政時代の城でもない。

函館五稜郭、竜岡城や江戸湾の台場と同様、幕末の西洋の要塞の要素を取り入れた近代城郭というか近代要塞なのである。
特徴としては砲戦を考慮し、櫓台の位置が砲台なのである。
その砲台としての姿が前橋公園の護国神社付近の土塁上に残る。
近代要塞であるが石垣はない。石垣の石材の調達も経済的に難しかったが、土塁の方が着弾による被害を緩和できるためともいう。
仮想の敵が誰を想定していたのか分からないが、中仙道碓氷峠方面から侵攻してくる敵を江戸幕府がここで迎撃しようと考えたのであろうか。

この城の築城がいつであったのか分からないが、長野氏の箕輪城の支城である石倉城がその始まりであると言う。
戦国時代、利根川を挟んでこの石倉城と前橋城が対するように存在するが、もともとは1つの城であり、利根川が流れを変え城を真二つに分断したことにより2つの城が存在することとなったという。
当時、利根川は東の広瀬川付近を流れていたらしい。
この石倉城の分断が起きたのは、天文3年(1534)という。
この石倉城切断崩壊事故で、長野賢忠が残った石倉城の三郭の地を基に再築した城が、厩橋城である。

天文20年(1551)、北条氏の北上で上杉憲政は越後に亡命し、厩橋城は一時的に北条氏の手に落ちる。
そしていよいよ上杉謙信(当時は長尾景虎、以下、上杉謙信という。)の登場である。
上杉謙信の関東侵攻の基地としてこの厩橋城が使われることで、歴史に名を残す。

永禄3年(1560)、景虎の越後勢が厩橋城を奪回、再度、長野賢忠が城主に復活する。
永禄6年(1563)北条氏、武田氏の連合軍により攻め落とされるが、しばらくして上杉氏が奪回し、北条高広が城代となる。
謙信が死ぬと、上杉氏内で御館の乱が勃発、上杉景勝は上野領を武田勝頼に割譲し、同盟を結ぶ。
これにより北条高広も天正7年(1579)武田勝頼の傘下となり城主を続ける。

さらに、天正10年(1582)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされ、織田方の滝川一益が入ると城を引き渡す。
しかし、同6月の本能寺の変がおき、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上野国から撤退、厩橋城は北条氏のものになる。
天正18年(1590)小田原の役が起こると、厩橋城は浅野長政により攻め落とされ、城には徳川家康家臣、平岩親吉が入る。

慶長6年(1601)の関ヶ原の戦いの後、酒井重忠が厩橋藩3万3千石で入城。
酒井重忠により城は大改修が行われ、3層3階の天守も建てられ、酒井忠清、忠挙の代に、「厩橋」は「前橋」に改名され、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。
この改修による絵が残されているが、城は利根川の崖を背景に曲輪が展開する梯郭式の城郭であったようである。
ちょうど現在の県庁の西、川べりにある虎姫観音堂付近が本丸(半分は既に崩落しているようである。)であったようで、県庁付近が三の丸であった。
おそらくこの縄張は戦国時代の厩橋城の姿を残しているのではないかと思われる。
酒井氏の改修は主に城下町を総構えにすることに重点を置いたものであったのかもしれない。
しかし、相変わらず利根川の氾濫と侵食に悩まされ、本丸は崩落状態となる。
酒井氏は寛延2年(1749)姫路に移り、入れ替わりに姫路から松平朝矩が15万石で前橋城に入る。

慶長6年(1601)の関ヶ原の戦いの後、酒井重忠が厩橋藩3万3千石で入城。
酒井重忠により城は大改修が行われ、下のイラストのような3層3階の天守も建てられ、酒井忠清、忠挙の代に、「厩橋」は「前橋」に改名され、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。

この改修による絵が残されているが、城は利根川の崖を背景に曲輪が展開する梯郭式の城郭であったようである。それを元に描いてみたのが左の鳥瞰図である。

ちょうど現在の県庁の西、川べりにある虎姫観音堂付近が本丸(半分は既に崩落しているようである。)であったようで、県庁付近が三の丸であった。

おそらくこの縄張は戦国時代の厩橋城の姿を残しているのではないかと思われる。
酒井氏の改修は主に城下町を総構えにすることに重点を置いたものであったのかもしれない。
しかし、相変わらず利根川の氾濫と侵食に悩まされ、本丸は崩落状態となる。
酒井氏は寛延2年(1749)姫路に移り、入れ替わりに姫路から松平朝矩が15万石で前橋城に入る。
以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となる。
しかし、利根川の脅威は変わらず、明和4年(1767)の利根川の浸食で城の本丸は崩壊の危機に陥り、松平氏は前橋城を放棄を決定し、川越城に移ることを決定する。
このため、前橋城の主要な建物は解体され、明和6年(1769)一度、廃城となる。

この措置は町や領内の中心的なものがなくなりることで、大きな経済求心力が失われ、町と領内は寂れてしまう。
この領内の荒廃を懸念し、領民から前橋城の再建と領主の帰城が、再三松平家に請願される。

その一方で天保年間(1830 - 1843)の郡代奉行安井政章(安井与左衛門)らによる利根川の改修が行われ、洪水の危険性は低減する。
さらに開国による生糸の輸出による生糸の生産により、前橋の経済力が回復する。
これらを背景に、文久3年(1863)12月、松平直克は前橋城の再築を開始し、慶応3年(1867年)3月、城が完成し直克が入城する。

この城が今、遺構を残す城であるが、旧三の丸を本丸にし、旧本丸は捨て曲輪のような位置付けにしている。
旧城に比べると土塁・堀は直線的に改修され、単純化された印象を残す。
天守閣はなかった。

しかし、城完成から、わずか半年後、大政奉還が行われ、江戸幕府は滅亡、前橋城も位置付けを失ってしまう。
そして明治4年(1871年)の廃藩置県で前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれ、他の建屋は取り壊された。
さらに群馬県が成立し、前橋が県庁所在地となり、本丸御殿は昭和3年まで群馬県庁舎として使われる。

現在、本丸跡地には平成11年(1999)に竣工した高層33階建ての県庁本庁舎が建ち、二の丸の地には前橋市役所が、三の丸の地には前橋地方裁判所が建っている。
外郭等は前橋公園となった。
また、本丸と二の丸にはそれぞれ、赤レンガ造りの群馬県庁昭和庁舎と、群馬会館の2つの近代建築遺産がある。
なかなか、味があっていい建物である。

@本丸北西部の土塁。駐車場は堀跡。 A本丸北の「子の門」跡 B本丸北東部の土塁
C旧城の本丸にあった天守はこの付近 D旧本丸から見た利根川。
本丸の半分は崩落しているらしい。
E北郭下から北郭を見る。先に群馬県庁が。
撮影位置は利根川だったらしい。
F北郭の土塁。この付近に砲台があった。 G北郭北端部は旧城当時のまま。 H遊園地になっている北の空堀跡。

前橋公園の北に県の重要文化財、臨江閣本館・茶室と市の重要文化財の別館が建っている。
この建物群がけっこう、目を引く。
その南側の低地は庭園となり、低地北側は遊園地になっている。ここが堀の跡である。

この臨江閣本館と茶室は、明治17年に群馬県と前橋市の迎賓館として、また、別館が明治43年に共進会の貴賓館として建てられたものであり、いかにも明治の建築らしく、和風的な要素を持った(近代和風というそうである。)大型の建築物。
別館は明治43年に一府十四県連合共進会が前橋で開催された時の貴賓館として建てられ、書院風建築という。

茶室は、わびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって本館より2カ月遅れて明治17年11月に完成。
臨江閣の見学は無料で、現在も文化的行事の会場として、ご利用ができるという。

臨江閣本館と庭園、庭園は空堀跡。 臨江閣本館渋い!いかにも明治! 臨江閣別館。

蒼海城(前橋市元総社町)

前橋市の群馬県庁の西1.5q、利根川の対岸、元総社町の総社神社の北西部付近が本郭、総社神社も城域であったという。
しかし、すでに城を思わせるものはなく、城域はほとんど宅地化してしまっている。
もともとは500m四方の広さはあったと思われる。

築城年代や築城者については不明であるが、もとはこの地が上野国国府(関越自動車道を挟み西側に国分寺跡、北西に国分尼寺跡がある。)があり、その跡地を永享元年(1429)に上野国守護代長尾忠房が修築し、それ以後、総社長尾氏の本拠となったものと言われている。

総社長尾氏は戦国時代は、上杉家に従い、忠房、景棟と続くが、永禄9年(1566)武田信玄の侵攻で、蒼海城から逃れ、上杉謙信を頼る。

直江景綱の跡を継いだ直江信綱はこの総社長尾家から養子に入った人物である。
蒼海城は武田氏、ついで北条氏の支配を受けるが、天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、信州諏訪氏の末裔、諏訪頼水が城主となる。

しかし、慶長6年、諏訪氏は旧領諏訪高島へと移り、その後へ秋元長朝が1万石を領して入城する。
城は既に荒廃していたようで、北2qに総社城を築き、移り、蒼海城は廃城となる。
なお、城の一角に総社神社がある。

由緒伝承によると、崇神天皇の48年3月、皇子豊城入彦命が東国平定の為上野国へ、の時。神代の経津主命の御武勇を敬慕され軍神として奉祀し、武運の長久を祈られ、また、親神である盤筒男命・盤筒女命を合祀されたのにはじまると伝えられている。

大化の改新以来この地に上野国府庁が設置されていたが、鎌倉時代になり、国府が消滅し、その跡を千葉常胤が蒼海城とし、さらにて長尾忠房が拡張整備は国府跡を城郭化し、蒼海城としたものという。」

航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものに、城郭体系掲載図の堀を描き加えた。

城域に建つ総社神社 総社神社東を流れる外堀も兼ねる牛池川


総社城(前橋市総社町)

総社城の代わりに慶長6年(1601)に秋元長朝によって築かれた近世の城である。
秋元長朝の経歴が変わっている。

元は庁鼻和の上杉憲盛、氏憲に仕えていたが、小田原北条氏に従い、天正18年(1590)北条氏滅亡とともに浪人となるが、井伊直政の斡旋で徳川家康に仕え4000石をもらい、関ヶ原合戦後、1万石の大名となり蒼海城に入る。

その後、総社城を築城するが、寛永10年(1633)2代泰朝が加増され、甲斐谷村へと移り、わずか30年ほどで廃城となった。
城は利根川西岸の河岸段丘に築かれたが、利根川の浸食で本丸全てと、二の丸の東半分が崩落してしまった。

残った西側の三の丸などの曲輪群も調査もされることなく畑地や宅地になったため、城の遺構は殆ど残っていないが、堀跡と思われる場所も確認される。

城川公民館の南側に遠見山古墳があるが、総社城時代に物見に利用されたことから「遠見」の名が付いたという。(下の写真)
なお、利根川の対岸が前橋市総合運動公園である。

(この公園にあるプール、思い出の地である。ここで開催された大会で高校時代200m自由形で優勝したことがある。)

この秋元家、農業土木技術に長けていたようで、この地で天狗岩用水の開削事業を行っている。
この事業は利根川上流から取水する用水開削計画であり、領内新田開発と総社城の水堀への水の導入を目的にしたといい、3年間の免祖を条件に領民を集めて着工し、慶長7年から同9年まで3年間かけて用水を完成させたという。

その工事で取水口付近の巨石を取り除く難工事のエピソードから天狗来助の伝説を生み「天狗岩用水」と名付けられ、その後、用水は、総社から下流城まで伊奈忠次によって延長され、現在も利用されているという。
なお、総社城の西に秋元家の菩提寺、光巌寺がある。
この光巌寺は江月院秋元山を山号とし、初代長朝が建立した寺で長朝の母光巌院の法名をとって光巌寺と名付けたものという。

寺の南東に宝塔山古墳があるが、何とその墳上には秋元家歴代の墓がある。航空写真は国土地理院が昭和61年に撮影したものに、城郭体系掲載図の堀を描き加えた。
宝塔山古墳、ここも物見だろう。 宝塔山古墳から見た城址方向。 宝塔山古墳頂上の秋元家墓地 秋元の菩提寺 秋元山 光厳寺

石倉城(前橋市石倉町)

利根川を挟んで前橋城の対岸にある。石倉砦ともいう。
実は前橋城は利根川の氾濫で石倉城が分断され、その三郭の地を利用して築城された城である。
それ以後、前橋城(当時は厩橋城)がメインとなり、この石倉城は廃城状態になっていたのではないかと思われる。

永禄8年(1565)武田信玄が前橋城と箕輪城を分断するために、この石倉城を再興したようである。
しかし、もともと同じ城なので、前橋城とは300mの距離に過ぎない。

これは完全に嫌がられとしか思えない。
もの凄い心理戦である。

その石倉城、現在、利根川の浸蝕で主要部分が崩落し、残った部分も宅地化によって消滅、石倉城二の丸公園に名が残るだけである。

これじゃあ、上流にある総社城と同じである。
公園の解説板の図によれば、空堀などが一部残っているはずであるが、探してみるがそんなものはない。
過去の航空写真で確認したが、堀は40年ほど前にすでに埋められてしまったらしく写っていなかった。

ところで、公園の解説板の裏には右の想像鳥瞰図があった。
しかし、この図と縄張図が全く一致しない。
この絵はなにを元に描いたのだろうか。

以下、参考までに解説板の記述
「石倉城は文明17年(1485)上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。
応仁の乱が終わって(1477)八年後のことである。当時の利根川の本流は現在の広瀬川周辺より左岸側に巾広く流れていた。
橘山の麓より利根川の水を久留馬川という小流を利して城の掘に引き入れたという。

 山内・扇谷両上杉氏が相争い、その間隙を突いて北条早雲が関東進出を企て、いよいよ戦国時代の様相を帯びてきた。
一方、総社長尾氏と臼井長尾氏が対立し、箕輪の長野氏が台頭してきた。
長尾憲景は永正9年(1512)新井城の戦いで戦死、三男長景が城主となった。

その後、享録・天文・弘治年間(1528〜1557)にわたる数回の大洪水によって本流が久留馬川に移り、現在の利根川になった。
 永禄6年(1563)武田信玄の西上野への進攻に際し、長景は厩橋城の守りについたが、留守を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。
永禄8年(1565)越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還し、荒井甚六郎を城代として守らせた。

 石倉城は関東の要衝であるため、永禄9年(1566)七月、再度信玄に攻め取られ、信玄の武将で保渡田城主の内藤修理亮政豊及び外記親子が兼帯した。
その後内藤政豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条丹後守高広に降り、北条の臣である寺尾左馬助(石倉治部)が守った。

 この間八十有余年にわたり幾多の攻防と凄惨な流血の歴史をくりかえし、天正18年(1590)五月、徳川勢の進攻に対し寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。
攻めるは松平修理大夫康国であった。康国はこの戦いで戦死、弟の松平新六郎が一千有余騎で攻めまくった。

左馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、武運つたなく今はこれまでと城に火を放ち、左馬助を始め残る城兵ことごとく城炎と共に相い果て、ついに落城の運命となった。
 この様に幾万の将兵が死闘を尽くして戦った城池をも、戦国の世と共にまぼろしの彼方に消え去り、今はただ「石倉」という地名を残すのみとなった。
よって後の世にその名をとどめ伝えべく、石倉城の記とした。」

石倉城二の丸公園の城址碑 この付近が本郭の一部なのだが 利根川に面した崩壊した部分 対岸には群馬県庁、前橋城が