国峰城(甘楽町国峰城)
徳川四天王の1人に井伊直政がいる。
直政の売りは「井伊の赤備え」である。
その「赤備え」のルーツの城がこの国峰城である。

肝心の城はかなりの山中にある。群馬県甘楽町小幡の市街から、県道193号線を1km西に走ると前慶寺原の交差点に城址の看板があるので、ここを下川に沿って大塩湖方面に1.5km南進。長善寺付近にまた城址案内板がある。
どうやらここまでが城域であったようで、当時は門があったのかもしれない。
城はここから右手に見える山である。
ここから山に登って行くと山間にある「城」集落に着く。

この集落こそ、国峰城の根小屋集落である。
ここの標高は250〜270m。この集落から城の御殿平という曲輪まで林道が通じているのだが、台風で道が崩れて車では行けなくなってしまった。
しょうがないので林道をとぼとぼ歩く。

30分ほどで御殿平に着く。
ここが城直下の居館跡であろう。

標高は320m程度である。ここまでの道もかなりのものであり、山深い場所である。
ここから城集落までは段々状に曲輪が展開しており、家臣団の屋敷が展開していたのであろう。
かつては桑畑として使われていたようだが、今は耕作が行われなくなり藪化しつつあるそうである。
ここからがいよいよ山城の部分である。

西に登る道を行くのであるが、この道自体が竪堀跡らしい。
道の途中で豪快な竪堀が合流している。山の中腹から延びている竪堀の末端である。
道を行くと堀切Xに出る。

ここから南の尾根に小曲輪群が展開している。
ここまでは林道であるが、途中から車が入れない山道に入る。
いよいよ山城の主要部分である。
すぐに竪堀と遭遇。さらに登っていくと帯曲輪があり、竪堀があり、どんどん登る。かなりの急坂である。
高度で25m登ると、尾根直下は岩が剥き出しである。
ようやく尾根に出る。

ここから西方向に主郭部の曲輪群が展開する。
山城の部分は典型的な尾根式城郭である。

まず、長さ40m、幅6mくらいの細長い曲輪Vがあり、その西端に土橋があり、両側が竪堀になっている。
その先に鳥居があり、南側に腰曲輪がある。この先に5段の曲輪Uが展開し、最後、一気に8m登ってやっと本郭である。

最高箇所、標高428mの城山頂上にある本郭Tは15m四方程度の小さい曲輪に過ぎない。
西側2m下に幅8mの曲輪があり、その10m下に堀切があるが、この切岸はほとんど崖である。
降りるのが恐いくらいである。

さらにこの西側に堀切や曲輪が70mにわたり次々と展開する。
西端に物見台のような岩がある。
典型的な山城であるが、山奥の地でもあることから根小屋も含めて、城の遺構はほぼ完存状態にある貴重な中世城郭遺跡と言えるだろう。

北側の麓から見た城址。 「城」集落の味のある民家。ここが根小屋だろう。 御殿平、最高地点にある居館の地だろうか。
御殿平から竪堀跡の道を上がっていくとXの
堀切に至る。
Xの堀切の西側に登り道があり、その道を登ると
直ぐに竪堀が上から下ってくるのが見える。
中腹の曲輪付近からは御殿平に向けて竪堀が豪快に
下っていく。
中腹にある帯曲輪。「馬出」となっていたが、
ちょっと違うんじゃないかな?
曲輪V(手前)と曲輪U間の堀切と土橋。
先に鳥居がある。
いよいよ本郭であるが、直径15m程度しかない。
本郭から西下を覗くと10m下に巨大な堀切が。 左の堀切の堀底。まるで蟻地獄の底だ。 西に延びる曲輪W内に堀切が連続する。

武蔵児玉党の一人、甘楽・富岡を支配する西上野の領主、小幡氏が築いた城である。
小幡氏は関東管領上杉氏の重臣として活躍。当時の城主、小幡憲重は箕輪城の長野業政とともに上杉氏を支えた。

しかし、上杉氏の勢力後退、北条氏や武田氏の侵略を受けるようになると一族内は動揺する。
永禄3年(1560)、一族の小幡景純が小幡憲重の留守を狙って城を奪う。
これに対して小幡憲重とその子、信実父子は武田信玄を頼り、武田信玄の援助で翌永禄4年景純から城を奪回、憲重を城主に復帰させる。
これを契機に小幡氏は武田氏に従属する。

小幡氏の軍勢の特色は、西牧・南牧の産馬によって編成された赤1色の騎馬隊であった(もう1隊、馬場美濃守信春の部隊も赤備えであった。)といい、武田軍の主力部隊として各地を転戦する。
長篠の戦いでは大きな打撃を受けるが、壊滅した訳ではない。
武田氏が滅亡後すると小幡氏は滝川一益に従い、本能寺の変、その後の神川の戦いで滝川一益が伊勢に去ると、今度は北条氏に従う。

天正18年(1590)、小田原の役が起こると小幡信実は小田原城に籠城し、国峰城は家臣の小幡帯刀らが守るが、北国方面軍の上杉景勝の武将藤田信吉に降伏、以後、国峰城は廃城となった。
その後、小幡氏の家臣団は上野に領地を得た井伊直政に従い、赤備えとして受け継がれ、関ヶ原の合戦に登場する。
大阪夏の陣で活躍する真田幸村の赤備えも、真田氏が同じ武田の武将であったことから小幡氏の赤備えにヒントを得たものであろう。

小幡陣屋(甘楽町小幡)
小幡陣屋というより楽山園といったほうが知名度が上だろうか?
その楽山園は群馬県甘楽町小幡にある織田氏の大名庭園。もともと大名屋敷(陣屋)の中の庭園として造られたものである。
ここを小幡城とか小幡陣屋というが、城という程度のものではない。

しかし、雄川の崖を西側背後し、東側に石垣で覆った武家屋敷を配置するなど、多少の防御性は考慮している。(ただし、陣屋が城下町よりも低い場所にあり、小諸城と似た穴城の形式である。)
ここに庭園を造ったのは織田信長の次男である織田信雄。
なんでこの群馬の山間の地に織田信雄?と思うが、彼は本能寺の変後、秀吉に味方するが、天下は秀吉に奪われてしまい徳川家康と組んでそれを奪還しようとする。
これが小牧・長久手の戦いであるが、秀吉の方が1枚も2枚も上手、秀吉の調略により単独講和に応じるが、結局だまされ、滅ぼされるまでにはならなかったが、領地を奪われ、左遷される。

この小幡には大坂夏の陣後に領地、五万石(大和国宇陀郡3万石、上州小幡2万石)を与えられるが、当初は北の福島に陣屋があったという。
小幡に移転したのは3代信昌の代、寛永6年(1629)という。
13年後の寛永19年(1642)に普請を完了して小幡陣屋に移転した。

陣屋屋敷に南面して楽山園と呼ばれる庭園が造営された。
楽山園の造営年代・造営主については不明な点が多いが、『楽山園由来記』では元和7年(1621)に織田信雄が造営したと伝えられている。
この由来記が正しいとすれば、最初に信雄によって作庭が行われ、お茶屋が営まれた後、藩邸として再構成された可能性がある。
庭園の構成から考えると、陣屋ができる前から、庭園とともに別荘的な建物が存在したと考えられるという。
また、藩邸造営時に庭園が造られた可能性も否定できない。

この場合、3代信昌の後見人である高長の存在が大きかったものと考えられ、その差配のもと、庭園が造られたと考えられるという。
織田信雄が果たしてこの地に居住していたのかはどうもはっきりしない。
出てくる名前は子や孫の名ばかりである。

以後、8代、8代目の信邦が明和事件で出羽高畠二万石に移封されるまで152年間この地を織田家が治めた。
明和事件とは、8代信邦の明和3年(1766)に藩政立て直しをめぐる重臣間の内紛であり、幕府の表沙汰となり、小幡藩主名代や『柳子新論』で幕政を批判した山県大弐など小幡藩と係りがあった多数の者が処罰された事件である。

翌明和4年(1767)に信邦は蟄居となり、信邦の弟信浮は養子として認められ、出羽高畠2万石を与えられ移封となった。
この庭園は、『論語』の「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」の一文から採ったもので、桂離宮を模した江戸時代初期の池泉回遊式庭園、広い昆明池の周りに48のいろは石を配し、熊倉山と紅葉山を借景として取り込んでいるという。
現在、江戸時代初期の築園時の姿に復元工事中である。
なお、併せて陣屋としての土塁、堀も復元中である。

国の名勝で群馬県では初の名勝指定庭園という。
庭園はこれがまた見事なものである。
武将としては落第の織田信雄であるが、文化人としてのセンスは一流であったようである。

この群馬の田舎(失礼)にこれほどまでの庭園があるのは驚きである。
ここを離れると近くには織田宗家七代の墓や武家屋敷の面影が残る町並みが残っている。

特に面白いものは、陣屋前の中小路に面して造られた「喰い違い郭」である。
戦いの時の防衛上のために造られたとも、下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れたともいわれているが、前者の性格が強いようにも思える。
小幡の町も道路に沿って南北に雄川堰が流れ、古くから住民の生活・農業用水、精米などの多目的に利用されてきたといい、日本名水100選にも選ばれているそうである。
(甘楽町のHP等参考)

復元中の陣屋の堀と土塁。 楽山園西の東屋 楽山園の池と築山
喰い違い郭、中は民家である。 小幡の町中を流れる雄川堰 雄川堰には懐かしい洗い場がある。

麻場城(甘楽町)

白倉城とも言う。
上信越自動車道甘楽パーキングエリアのある台地の北1.5qの台地縁部を利用して築かれた城である。

北側は鏑川が流れる富岡の市街がある低地である。
低地から城までの比高は約25mほどあり、結構勾配は急である。
東側、西側は侵食された谷津となっており、城のある場所は半島状になっている。

南側のみは平坦地に続く。
このため城は半島状台地の先端部に本郭を置き、平坦部側に二郭、三郭を配置する連郭式である。
この城は東側の谷津を隔ててある仁井屋城とペアを成す、いわゆる「別城一郭」の城であり、相互に協力して敵に当たる構造となっている。
どちらかと言うと麻場城が本城であり、仁井屋城が出城という感じであるが、性格は異なり、麻場城が防御専門の城であるのに対し、仁井屋城は虎口を四方に開けた攻撃的な性格の異なる城であるという。(群馬の古城)

現在、麻場城は本郭と二郭が、城址公園として整備され、堀等が復元されている。
本郭は40m四方の広さであり、周囲は全周にわたって堀が巡らされている。
復元された堀は深さが8m、幅15mほどもある見事なものである。
おそらく当時はこれ位の規模はあったものと思われる。

北側の台地縁部にも曲輪や犬走りがある。二郭には土塁が本郭側に設けられる。
しかし、二郭が占領されたらこの土塁の上から本郭内は狙い撃ちされてしまう。
本当にこの土塁は実在したのだろうか?
二郭とされている曲輪が本郭であったなら納得はできるが?
三郭は畑地であり、遺構は見られないが、非常に広く、城主や家臣団の屋敷があったと思われる。
大手口は本郭より400mほど南にあり、その外側に堀が存在したということである。
本郭北の復元された堀。 本郭南西隅の堀。排水口がある。 三郭から見た二郭。土塁が見える。 仁井屋城跡。堀跡か?

仁井屋城址は現在、宅地、畑、工場の敷地となってしまっており、明確な遺構はない。
何となく堀跡ではなかったかと思われる場所や土塁跡と思われる場所が見られる程度である。
また、現在、台地下に下りる道は、かつては出撃用の通路であったと言われる。

白倉氏は上州八家に数えられる名家でありながら、同じ上州八家の小幡氏の家臣でもあり、山内上杉家の家臣でもあったという。
立場が非常にややこしい土豪である。

川越夜戦に破れた上杉憲政は勢力回復を目論み、小田井原で武田氏と戦い大敗し、衰退に拍車をかける。
その戦いで白倉左衛門宗任は板垣信方の馬を弓で射倒して奮戦したと伝えられる。
その後、この地方の多くの土豪同様、上杉謙信が侵攻すると上杉氏に、そして武田氏の勢力が延びてきた後は武田氏に従い、武田氏滅亡後は織田氏、北条氏と主君を変えることになった。

天正18年(1590)の小田原征伐の時は、宗任の後を継いだ重家は小田原城に籠城。
白倉城は弟の重高が守ったが、豊臣方の上杉景勝に攻め落とされて、廃城となった。

新堀城(高崎市吉井町多比良字中城)
別名、多比良(たいら)城とも言う。

城は県道41号を吉井IC方向に走行し、平井城の北西2km、東に土合川が流れ、西は杉井戸川が流れ、この2つの川に囲まれた南から北に延びる半島状台地の先端部にある。
この岡の上部は平坦であるが、先端部の東、北、西の3方向はかなり急である。
土合川からの比高は40m位ある。

西を流れる杉井戸川支流の対岸の岡に「鬼ヶ原」という外郭があるという。
城は南北250m、東西200mの範囲にわたるが、南側の南郭は民家や畑になって湮滅している。
本郭は東西80m、南北90mの方形に近く、東側に土塁の残痕がある。

東に堀があったというが、現在、道路になっている。
その東が東郭であるが、ここは畑である。

南の堀は東側の除き、きれいに残っている。幅20m程度はある。
その南が南曲輪であるが、民家と畑である。東側に堀跡らしい窪みがある。
本郭の西側から北側に堀がまわり、その外側に腰曲輪があったようであるが、現在は堀は埋められ、西は畑に北は道路になっている。

本郭の北端に坂戸口が食い違いになって土合川に下りる道が有るらしいが、藪がひどい。
本郭の北西側が北に突き出ていて、ここに北郭があった。
しかし、ここは1歩も足を踏み込めない藪である。
平井城の支城であり、一郷山城と新堀城は1城別郭ともいう。
しかし、両城は離れており、どうみても別の城である。

平井城の上杉氏の城であったが、永禄6年(1563)2月15日武田信玄に攻められて落城。
城主多比良友定は、上杉家の宝物を焼き捨て切腹したという。
その後、多比良氏は武田氏、滝川氏、北条氏に従い、天正18年(1590)小田原の役で上杉景勝の武将、藤田信吉の攻撃を受け、降伏、その後に廃城となった。

本郭の入口。城址碑と解説板がある。 本郭内部。
東側(右)が盛り上がっており、土塁の跡らしい。
本郭南側の堀。左の民家の場所が南郭。
本郭西側の堀は埋められて畑になっている。 本郭東の堀は道路になっている。
右の畑が東郭。
本郭北の堀跡も道路になっている。

多胡館(高崎市吉井町大字多胡字元郷)
上信越自動車道吉井ICの北西400m(吉井中央中学校の南200m)にある木曽義仲の父、義堅が住んでいたという館である。
一辺約110mの正方形に近い形状の館であり、南から北の鏑川の平地に張り出す多胡丘陵の縁部に位置する。
訪れた日は強い雨の日、藪も酷く歩き回ることもできず、一部を見て退散、内部は民家があるが、土塁、堀は竹林、杉林の中に確認することができた。

現在は西側部分の土塁A、堀が残るが、東側はかなり湮滅してりおり、かろうじて土塁の残痕程度が確認できる程度である。
当時の虎口@がそのまま民家の出入り口となっている。

東側に薬師塚古墳Bがあるが、館からは若干離れている。
この古墳、古墳時代末期の7世紀末のもので石室も良く残っている。
古墳を城館に取り入ることもあるが、ここは館からは独立している。
しかし、櫓台程度には用いられていたのかもしれない。

古くから存在していた館であり、平成11年の発掘調査では堀底部分から天仁元年(1108)の浅間山大噴火の際に飛散した軽石層(火山活動に伴う排出・堆積物−浅間Bテフラ層−厚さ約20cm)が確認されたという。
このことにより館の築造年代は11世紀以前に遡る可能性もあり、義堅が住む以前より存在していたらしい。
@館北側の虎口 A北西側の土塁 B館東にある薬師塚古墳


木曽義仲の父義賢が、多胡館に住んでいたのは1140年代から50年代と推定されている。
多胡を選んだ理由はここが東山道経由での入口にあたる要衝であるからである。

彼は源為義の次男で、近衛天皇が皇太子だった頃(1139-41)、警護役である帯刀の長官だったということから帯刀先生(たてわきせんじょう)と呼称され、東国移住後には多胡先生(たごせんじょう)とも呼ばれたという。
その後、この多胡館に住んだらしい。

さらに秩父平氏の援助を受け武蔵大蔵館へと進出したが、久寿2年(1155)都の政争を背景とした源氏一族の反目(実際は南下する義堅の勢力範囲と義朝の勢力範囲が接し、軋轢を生んだものであろう。)が発生し、源義朝の嫡男悪源太義平(義賢の甥)により同館にて殺害されている。
この事件後、2歳になった義仲は母とともに佐久経由で木曽まで逃れる。
義仲は挙兵後、「上野国の多胡荘は亡父の遺跡」として、この地を訪れている。(現地説明板等を参照)

義賢の滅亡後、多胡氏の居館となったと考えられ、「吾妻鑑」によれば建久6年(1195)源頼朝の奈良東大寺供養した隋兵のなかに小林氏、小串氏とともに多胡宗太の名が、承久の乱(1221)では宇治川合戦に多胡宗内の名がそれぞれ記される。
戦国時代、永禄3年(1560)の長尾景虎の下に参集した軍勢の着到状である「関東幕注文」(文書作成時期には複数の異説あり)にも惣社衆の一人として多胡氏の名が記されており、子孫と思われる。(「吉井町誌」「吉井町の文化財」等より)