梁川城(伊達市梁川町)

2012年7月、5年振りに梁川城に行った。
5年前は子供たちで一杯だった本郭に建つ梁川小学校の校庭。
そこには誰もいなかった。
東日本大震災で校舎に亀裂が多数入り使えない状態になっていた。
そんな廃校状態のため、校内は荒れていた。しかし、校庭はいやにきれい。
ここ伊達市は福島原発事故で放出された放射性物質が流れ、そこら中にホットスポットができた。
あのころはここもパニック状態だったのだろう。
そのため、除染作業が行われている。この校庭もはつりがされたのだろうか。
大学館の枡形にはブルーシートに包まれた土嚢が積み上げられていた。
現実に引き戻される光景だった。

伊達氏がこの地で始めて置いた城と言われる。
伊達氏はもともと伊佐氏を称する常陸下館の武士だったが、源頼朝の奥州征伐で功を立て、その功で伊達郡を賜り、文治5年(1189)入植して地名を取って伊達氏を名乗るようになった。

梁川城は、伊達氏の入植とともに築城されたともいうが、文献上に登場するのは、室町時代、応永33年(1426)以降である。
しかし、発掘では伊達氏3代、伊達義広(1185年-1256年)または4代伊達政依(1227年-1301年)のころの遺物が出土しており、通説のように入植して間もなくには築城されていたと考えられる。

現在の梁川城址は、梁川町市街地の東側の高台にある梁川小学校の地が本郭で南側の梁川高校の地が二郭にあたる。
高台の下に三郭を配置した城であるが、こちらは市街化等で遺構が湮滅状態。
大学館の土塁などの遺構が市街地の中に紛れこんで存在する。
城の主郭部がある高台は平地からの比高15mあり、岡続きの北側に曲輪や堀が多重に築き、南側は断崖があって、広瀬川となる。

東は金沢堀と茶臼山に続く。
小学校の西側の鋭い切岸、校庭に残る土塁、小学校・高校間の登り口が城であったことを感じさせる。
小学校北東の石垣は本物という。
南側、梁川高校南の大土塁は良く残っている。高さ5mほどである。その東の沢堀は鉄道線路になっている。
本郭西下には水堀があったというが完全に埋められている。

大学館北の大土塁Dと堀E、大枡形Fはよく残っている。規模も大きく上杉氏時代に整備されたものであろう。

北の水堀が残り、見附、元陣内、右城町、大町、中町、内町、町裏など、城下町であったことを伝える地名が多く残っている。
この城は築城以降、豊臣秀吉によって16代目に当たる伊達政宗が岩出山城に移されるまで伊達氏の城であった。
@本郭内の石垣と復元庭園 A本郭の地、梁川小学校校庭 B本郭虎口は小学校の登校門の地である。
特に4代目、伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城に本拠を完全移転させるまでの300年弱の期間は、伊達氏の本城だったという。
なお、戦国時代以前の伊達氏の本拠がどこかは、論議があり、この梁川城説、稙宗以前から桑折西山城であったという説があり、はっきりしていない。
どちらという訳ではなく、1方が主、もう1方が副として2城とも並列に使っていたというのが現実かもしれない。

城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった。

昭和53年(1978)から昭和56年(1981)にかけて旧本郭跡の梁川小学校校庭の発掘調査が行なわれ、校庭の一角に中世庭園「心字の池」が復元された。
この庭園は、伊達氏が室町幕府と結びつきを強め、高い文化をこの地に導入していた証拠であり、奥州では唯一の中世庭園とも言われる。


←はC梁川高校南に残る大土塁。
D大学館北の巨大土塁 E大学館北の水堀 F大手枡形の土塁。ブルーシートは・・・

伊達氏が本拠を桑折西山城に完全移転したのは、来る戦国時代を予想し、梁川城の防御を懸念した結果ではないかと思われる。
伊達氏はさらには米沢城に移るが、それ以後も梁川城は伊達領内の拠点として機能し、一族や有力家臣が城主となっていたという。
相馬氏との戦いの前進基地としても使われた。

また、ここは伊達氏の故地であるため、伊達政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をし、政宗が田村郡の田村氏から愛姫を正室として迎えたときには、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川城であった。
伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が城主として入る。
縄張図で伝えられる梁川城の遺構は、上杉氏時代に完成したものと考えられる。
伊達氏時代の梁川城は、本郭と二郭程度の小さな城だったようであるが、拡張工事で三郭や馬出が作られ、石垣化、北側の多重の土塁、広い堀が構築され、防衛力は各段に向上した。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して、徳川方に付いた伊達政宗が上杉領に侵攻し、合戦が行なわれる。
6月、伊達軍は大枝城(伊達市梁川町)に陣を布いて阿武隈川対岸の梁川城を攻めるが、格段に防衛力が向上した梁川城には全く歯が立たなかったという。

おそらく、伊達氏は伊達氏が支配していたころの梁川城を想定して攻めたのではないだろうか。
次に10月、上杉軍を松川の合戦で破った伊達軍は福島城に殺到する。
これに対して、梁川城の須田長義が率いる上杉軍が梁川城を出撃、後方にいた伊達軍の後衛部隊、小荷駄部隊を壊滅させたため、伊達軍が大混乱となり、伊達軍は北目城に逃げ帰るという結果となる。
結局、皮肉にも伊達氏は自分の故地の城に、2度にわたり煮え湯を飲まされる訳である。

関が原後も伊達郡は引き続き上杉氏領となり、梁川城には上杉氏の家臣が置かれた。
しかし、寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、領地半減を条件に吉良上野介の長男・綱憲を養子を迎えることによって存続が認められるという騒動に際して、梁川城を含む伊達郡は没収され、天領となった。
この時、梁川城は廃城となったが、実際は縮小されただけであり、城の一部はその後も陣屋として使用されたという。
以後、松平氏、松前氏により2度にわたって梁川藩が作られたりしたて、幕末まで存続した。


大枝城
(伊達市梁川町大枝)
旧梁川町に市街から国道349号線を北上、阿武隈川に広瀬川が合流する地点に架かる梁川橋を渡ると、西側に北から半島状に突き出た目立つ丘が見える。
ちょうど南の先端部分が高く、ここが本郭。
北側に段々状に低くなる。北側以外の斜面は急傾斜である。
これが大枝城である。
右下の写真は阿武隈川の上流、西側から見た城址である。


本郭部に三角点があり、標高が74.3m、東の水田地帯の標高が43mであるので、比高は約30m。
先端部の最高箇所が本郭であり、北側に二郭、三郭が扇状に並ぶように広がる梯郭式の城である。

城域は果樹園と畑である。
ちなみに北側の集落名はズバリ「館」である。


曲輪は堀と土塁で囲まれていたというが、耕地化に伴って崩して埋められ、郭間の堀は痕跡程度しか残っておらず、段々状になっている状況が分かる程度であった。
しかし、北東の帯曲輪から横堀になって延びてくる部分だけは良く残っている。
本郭から見た南の阿武隈川と梁川城方面 本郭から見た阿武隈川上流、福島市方面

阿武隈川を挟んで対岸2kmが梁川城であり、阿武隈川北岸を守る出城のような役割があったと思われる。
この城は、室町時代初期9代政宗の弟、伊達宗行によって築かれた。
以後大枝氏を称し、伊達氏の一門として伊達氏と行動をともにする。
(伊達氏8代目、宗遠の三男、孫三郎宗行が応永元年(1394)頃、ここに移り大枝氏を称したという説もある。)
大枝氏は、宗行−宗景−宗澄−宗助−宗家と続き、天正18年(1590)、大枝宗直の代に、伊達政宗の岩出山城移封に従い、大倉城に入り、大枝城は廃城になったという。

@最南端最高箇所の本郭 A本郭南側は緩く傾斜する。 B北東側に残る横堀
大枝氏は、江戸時代には大條(大条)氏と改めたという。
その後、元和二年(1616)8代宗綱が2千石で亘理郡坂元要害に入り、代々相続して17代目、孫三郎の時に明治維新を迎えている。

なお、孫三郎は後に伊達姓に復し、伊達宗亮を称したという。

 大枝城が戦いに登場するのは、皮肉にも廃城後である。
この城で合戦があったことではないようであるが、時は、慶長五年(1600)、関ヶ原合戦の際、上杉領に侵攻した伊達軍が、梁川城を攻撃する。
この時、片倉景綱の軍勢が、ここ大枝城に陣を置いたという。
確かに対岸の梁川城を攻める陣を置くなら絶好の場所である。
なお、江戸時代に天領であった頃、ここに米蔵が置かれていたという。


←はCかろうじて痕跡が残る北端の堀跡。


住吉館(伊達市北町)
旧梁川町から阿武隈川にかかる梁川橋を渡った北岸を県道320号に入って桑折方面に走行すると、大枝小学校がありその東200mにある徳本寺が館跡。
80m四方程度の方形館であり、東と南に高さ2m程度の土塁と水堀が残り、北東端部が県道320号線で破壊されている。
室町初期の築館であり、伊達氏一族の大枝氏の居館だったという。
大枝氏が伊達氏とともにこの地を去り廃館となった後、菩提寺徳本寺が移される。

南側に残る水堀 東側に残る土塁。右側には水堀が残る。