福貴作館(浅川町福貴作関田)
浅川町最北部石川町境の福貴作(ふきさく)地区にある。
別名、「白熊城」ともいう。
館は里白石小学校の北東500mに位置し、すぐ南東を水郡線が通る。
里白石小学校付近から細い道を通って行けることは行けるが、道も狭く、くねくね、アップダウンが多く行きにくく迷う。
ここは国道118号線を800mほど北上し、右折し北側の谷津沿いに進むのがよい。


↑ 北側から見た館跡の山、山頂部は物見の砦か?下の平坦地も曲輪であろう。

右折し800mほど東に行った関田地区の水郡線寄りの標高341.7mの三角点のある山が館跡である。
北側の低地からの比高は35mほどである。

しかし、この山のみが館跡ではなく、この山の西に広がる関田集落全てが館跡であり、ここは城砦集落なのである。
この三角点のある山は物見の場所だったようである。

とは言え、集落には家があり、人が住んでいるので集落内をうろつく訳にも行かない。
ここはまずは、人は住んでいない三角点のある山に行く。
北側斜面は急坂であり、南西側がフラットな山である。

その山頂部は北東端であるが、そこの遺構、これがまた何なのか分からないのである。
高さ4mの土壇があり、西側から北側を土塁が覆い、南側に虎口が開く。
不思議なのは土壇の東側、そこが弁天池のようになっている。
しかも岩だらけである。
ここは石切場だったようにも思えるし、ここにあった石材を持って行ってしまったため、このような形になったようにも思える。
この光景、長野市の吉窪城にも似ている。

@物見の山の土壇上から見た南に開く虎口 A物見の山内部は弁天池のような盛り上がりがある。 B物見の山の土塁には石が含まれる。
しかし、この場所の東と南側にある腰曲輪は本物の城郭遺構である。

南側の虎口を下りると平坦地が40mほど南西に続き、配水池がある。

また一段低く、東側に緩斜面が南に向けて延びる。平坦地の南端に大日如来が祀られる社があり、その後ろに高さ3mの土壇があるがこれは遺構なのだろうか。

さらに西側に30m平坦地が延び、南側にも平坦地が続く。
配水池から集落に下る道があり、10m下に民家が展開するが、段々になっている。

ここは居館跡という。
C南西側、大日如来後ろにある土壇。 DCの西側に平坦地が延びる。ここも曲輪だろう。

また、山頂から25m下の三叉路の北側の宅地も段々状であり、ここも曲輪であったという。
土塁がある家もある。
おそらくここは家臣団を含めた武家住宅団地のような場所だったのであろう。
ここは石川氏に係る城館である。石川晴光の隠居城とも言われるが、この館と比定するのには疑問が残るという。

E物見の山山麓の宅地は居館跡だろう。 F北側の宅地にも土塁がある。城郭遺構だろう。

もう1つの木和田塚館(浅川町山白石木和田塚)
木和田塚館、浅川町史の示す場所と「まほろん」の文化財データベースが示す場所が異なるのである。
HPに以前から掲載していた記事は浅川町史の示す場所であり、「まほろん」が示す場所は、西側500mの山白石小学校の北側の山なのである。
ともかく、確認のため突入。

しかし、ここが館なのかどうか、今1つ確信は持てず。
館と言えば、館なのかもしれず、違うと言えば違うかもしれず・・・。

館とされている場所には、根拠物件が存在した。
「木和田塚五輪塔」の存在である。
この五輪塔イコール館跡と捉えているのかもしれない。
しかし、それが物的証拠になるかどうかはい違いに言えない。

この五輪塔は石川氏一族の板橋氏が室町初期、応安元年(1368)に建立したものという。
ちなみに板橋氏はここから少し東の石川町の三沢城、沢古屋城を本拠にしており、この木和田塚も領地だったようである。

この五輪塔は山の中腹に建てられているが、この山自体、城館という感じではない。
五輪塔は山の斜面にあり、山自体も自然のままの山であり、頂上にも何もなかった。

五輪塔の南下の15m四方ほどの広さの畑とその周辺の畑と民家の場所がどことなく居館ぽい感じではある。

なお畑の南側には切通しがあるが、堀切を利用したものかもしれない。
小学校側に延びる尾根先端も曲輪っぽい感じがしないでもない。
一方、五輪塔のある岡の後ろ、そこは何と水田である。
@館の比定地とすればこの平坦地の畑だろう。 A@の畑(右)の南側の切通しは堀切跡だろう。 B600年以上も前の五輪塔、頭部は割れている。
C西側の水田は遺構か?
正面の林の裏に五輪塔がある。
D裏の山山頂部の巨石。
これは信仰の対象だろうが、館と関係はあるのだろうか?
E山頂東側には段々の曲輪状のものがある。
これは遺構か?

山の中腹を崩し平坦化して水田を造成しているが、これはとんでもない工事量である。
もしかしたら、これも曲輪の再利用じゃないのか?
とも思うが、果たして真実は如何に?

さらにその上側の山に行ってみたが、標高400mの山頂には大きな岩と石仏があった。
石川氏の城、ほとんどに巨石がある。
元々岩が多い地方であるが、城址の巨石には城の守護のような位置付けがあるのだろうか。

この山頂部、下の道から比高約60mであった。
山頂部は自然の山であったが、その下側東側には曲輪っぽい切岸があったが?これはなんだ?
遺構か。結局、ここは館なのかどうなのか分からないというのが結論である。