青山城(喜多方市上三宮)
奥州藤原氏を滅ぼした恩賞として頼朝から、佐原十郎左衛門尉義連に会津の地が与えられ、義連の六男、左衛門尉時連がこの地に入り、建暦2年(1212)に築城し、新宮氏を称したが、五男の盛時がこの地に入り、この青山城を築いたという。
盛時は加納氏を名乗るが、青山氏とも称する。
しかし、葦名一族の内紛により、応永9年(1402)に、同じ蘆名一族の新宮氏に滅ぼされて、廃城になったと思われる。

城は喜多方市街から県道335号線を4km北上すると、上三宮地区に入る。
そこに山王神社のある山林の丘が見える。これが青山城である。
城は東城と西城からなり、西城が通常、青山城のことである。

一方の東城は谷津を挟んで東にある願成寺の地であるというが、寺となって遺構は分からなくなっているという。
こっちは居館であり、西城である青山城が、戦闘用の城であったと言われる。

しかし、この青山城、多少の戦闘はできるが、規模も小さく、物見台程度のものである。
これでは新宮氏に攻められても持つとは思えない。
南端に城址解説板があり、そこから参道が延び、石段を登り、鬱蒼とした杉林の中を歩く、そこが二郭である。
周囲を土塁がまわるが、草が凄く分からない。

山王神社のある部分が高さ6mほどの土壇のようにそびえ、その社殿がある場所が城内の最高所となっている。
しかし、土壇頂上部、ここが本郭なのだろが直径10mほどしかなく、井楼櫓程度のものがあったのではないかと思われる。
この土壇から北と西に竪土塁が下る。

@南側の神社入り口、左側の堀は湮滅している。 A本郭から見下ろした二郭

土壇の北側が北郭であるが、完全な藪、何が何だか分からない。
城の西と北に堀が回るが、堀幅もせいぜい3〜4m程度と狭い。とても防御用とは思えない。
まるで居館程度のものである。確かに居館があったのかもしれない。
戦闘用の城のように見えるが結局は居館だったのだろう。

航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものである。

新宮城(喜多方市慶徳町新宮)
会津盆地北部喜多方市市街地から南西4km、西の高館山東の山ろくの濁川に下る扇状地にある。
そこは慶徳小学校方面から県道336号線を1km南下した畑作地帯であり、県道東側に堀と曲輪が現れる。
これが新宮城の本郭である。
なお、県道は城址を南北に貫くように貫通しているが、外郭部はほとんど湮滅しており、南側の駐車場脇に外郭部の土塁が残る程度である。
また、その南が沢になっているが、この沢が外郭の堀を兼ねていたという。
巨大な2重方形館であり、本郭部がほぼ完全な形で残る。

扇状地にあるため、地勢は西が高く、東が低く、標高は210〜190mにかけて城が立地する様相となる。
本郭は東西約100m、南北約120mの方形で、所々、失われているが周囲を土塁が巡っていたと思われ、四隅には櫓台が置かれたと考えられている。
北西部には櫓台が良く残る。
その周囲には幅20mの堀跡が水田として残る。内部はアスパラやねぎ、とうもろこし畑になっている。
さらに本郭の南側に二郭、西側に三郭が存在していたという。二郭の南東に「おんまやしき」と呼ばれる郭がある。
なお、北東部の新宮新田集落は字が「小館」、北には「北城」の地名が残り、ここも城域であったものと考えられている。
残念ながら外郭の堀は湮滅してしまっているが、城の範囲としては、東西300m、南北400mという巨大な面積を持った城であったようである。

この城は、耶麻郡西部に勢力を拡大した新宮氏の居城であった。
この新宮氏であるが、奥州藤原氏を滅ぼした恩賞として頼朝から、佐原十郎左衛門尉義連に会津の地が与えられ、義連の六男、左衛門尉時連がこの地に入り、建暦2年(1212)に築城し、新宮氏を称したという。
なお、それよりはるか昔、天平15年(743)、吉田中将藤原頼房の子吉田外記光房が一盃館を築き、建暦2年に盛連がその古館を修築して新宮城としたともいうが、この辺は伝説の域を出ない。しかし、新宮氏が佐原氏の末裔、蘆名氏とは別の流れという説もあり、新宮氏の出自は疑問な点が多い。
佐原一族は会津盆地に分家を多く作るが、時代を経るに従い、同族意識は薄くなり、独立性を強める。
その結果、佐原一族内で勢力争いが繰り広げられる。

新宮氏の場合も宗家である蘆名氏ばかりでなく佐原(加納)氏、北田氏らと抗争する。応永9年(1402)新宮次郎盛俊は青山城主佐原(加納)新左衛門実詮を攻め滅ぼし、次いで大庭政泰と結んで蘆名盛政と戦うが、翌年正月、盛政に新宮城を攻められ降伏、和睦し一時的に勢力を減じるが勢力を回復。

応永20年(1413)、盛俊は新宮城西方約1kmの高館山に詰めの城、高館城を築き、蘆名盛政と戦う。

@本郭北側と堀跡 A本郭西側と堀跡
戦いは長期化するが、ついに応永27年(1420)、高館城が落城、新宮氏は越後国五十公野で再起を図り、永享5年(1433)津川城を攻めるが、城将金上兵庫介盛勝によって撃退され、滅亡する。

新宮城の廃城の時期は明確ではないが、新宮氏が会津から駆逐された1413年ころではないかと思われる。 廃城から600年の月日が経つが、畑になっているものの本郭がほぼ完全な形で残るのは驚きである。

平成18年の発掘調査で、は、本郭の南東角で地下室と推定される地下木組遺構が深さ5mの地点より発見された。
また、天目茶碗などの中世陶器や小型銅仏、13-14世紀に中国・景徳鎮で作られたと推定される象型青白磁が出土している。
B二郭南の土塁 C 二郭南の沢を利用した堀 航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものである。

慶徳館(喜多方市慶徳町)
蘆名氏家臣、慶徳氏の城である。
喜多方市街地から県道16号線を西会津方面に南西4km行った地点にある慶徳小学校の地付近が城址にあたる。
この慶徳氏の出身は分からないが、戦国時代たけなわの天正年間には慶徳善五郎が城主であり、黒川城下にも屋敷を構えるほどの蘆名氏重臣であったようである。
この慶徳館の南1q が新宮城であるので、蘆名氏が新宮氏を滅ぼした後、慶徳氏がこの地に入って築城したようである。
慶徳氏は永禄3年(1560)2月、蘆名盛氏が石川郡松山での佐竹義昭と田村隆顕連合軍との戦いに善五郎盛勝が蘆名軍として参戦している。
また元亀2年7月、蘆名盛氏が白河で佐竹義重と戦った際、慶徳次郎左衛門が討ち死にしている。
しかし、天正17年の摺上原合戦で蘆名氏が滅亡すると、慶徳氏も会津を去り、廃城となったという。
城は新宮城と似た地勢であり、西から東に下る緩斜面にあり、本郭が一番高い場所にある。
(本郭の西側にも曲輪がないと防衛上、おかしいんじゃないか?)
慶徳小学校のある地が本郭といわれるが、遺構らしいものはない。(校庭の南側に土盛りがあるが、これは遊具じゃないかと思う。)
周囲の道路が堀跡であろう。

小学校の東側が切岸状になり、東に二郭があったようである。
その南、三郭との間の堀らしいくぼみが残っている。
さらに東側にも曲輪があったようであるが、畑となっており遺構は分からない。
南1kmにあるより古い新宮城が畑地のため、比較的形が良く残っているのに対し、より新しいこの館はこんな状態である。
集落になってしまったのが致命的だったようだ。

上の写真は二郭と三郭の間の堀跡。
右の建物が本郭の地に建つ慶徳小学校の校舎。

航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものである。

陣ヶ峰城(会津坂下町宇内)
会津盆地を東に見下ろす盆地西側の比高20mの岡の縁部にある謎の城である。
県道336号線沿い宇内地区にある川西公民館がある地である。
県道脇東側が城址であり、県道から巨大な堀が見え、奥に公民館が見える。
堀には土橋(かつてからのものかは分からないが、本来の遺構と思われる。)があり「国指定史跡 陣ヶ峰城跡」という標柱が立っている。
台地の縁部を二重の堀で区画した極めて単純構造の単郭の城であるが、この堀の巨大さが見ものである。

西側の入り口部の堀はそれほどでもないが、低地部に向かうに従い巨大化して行き、幅15mほどの大きさになる。
虎口と思われる西側の土橋近くの堀の規模は小さく、この程度の防御施設では心細い。
ここが最も防御は弱く、ここを突破されたら単郭なら落城につながる。
公民館のある郭内は110m×170mほどの広さがある。
内部は南に公民館が建ち、それ以外は畑になっている。

かつての発掘調査では、主殿、台所、馬場などの4棟の掘立柱建物跡、1基の鍛冶炉跡のほか、多数の土坑や溝跡が検出された。
白磁などの多くの貿易陶磁器や青銅製品、鉄製品が出土したが、それらのほとんどは被熱しており、また、多量の炭化物とともに鉄鏃がランダムに出土したことから、城は戦いによって焼失したと推定されているとのことである。
遺物からは、平安時代末期の役所ではなかったかと想定される。

城の西には高寺伝承で有名な高寺山の丘陵が連なり、その麓には鎌倉時代造立の千手観音像(国重文)を本尊とする恵隆寺、平安時代初期造立といわれている薬師如来像(国重文)を本尊とする上宇内薬師堂(会津五薬師の一つ)がある。
鎌倉時代初期、佐原義連一族が入部するまでは陣ヶ峰城一帯が古代から中世初頭における会津の中心であったのであろう。

この一帯は平安時代末期は摂関家領の会津蜷河荘であったことが確認されており、永久2年(1114年)に藤原忠実の領土となっている。
これらから蜷河荘の管理に携わっていた人物であると思われる。

一方、忠実の孫にあたる九条兼実の日記『玉葉』に登場する「藍津之城(あいづのしろ)」は陣が峯城である可能性がある。
なお、伝承では越後の城助職(長茂)によって築城されたともいわれている。
当時、会津は城氏が支配しており、慧日寺衆徒頭・乗丹坊とも結びつき、共に木曽義仲と横田河原で戦い、乗丹坊が戦死し、城氏も衰退し、会津は混乱状態になったらしい。
なお、『恵隆寺縁起』によれば、陣が峯城は城助職(長茂)と乗丹坊によって攻められたという。
陣が峯城が焼けた形跡があることから、戦火に巻き込まれたと推定されるがこのいずれかの時のものであろうか。
二重の堀を巡らせた平安時代末期の城館としては、奥州藤原氏の柳之御所遺跡などもあるという。

@豪快な堀だけど・・藪でさっぱり・・ A郭内西側の土塁 B郭内はやや東に傾斜している。建物は川西公民館

単純広大なこと及び遺物からも城は平安時代の城ということになっている。
しかし、それにしては堀は風化埋没が少ない。戦国時代に整備して再利用したのではないだろうか。
この城の東2qにある亀ヶ森古墳も戦国時代に砦として改変を受けていることから、この陣ヶ峰城も利用されていることは十分に考えられる。
陣ヶ峰城を利用するなら、亀ヶ森古墳が最高の物見台なのである。
平安時代の役所跡なら「陣」という名称も引っかかる。陣城として利用された証ではないだろうか。
(余湖君のHP,Wikipediaを参考にした。)


亀ヶ森古墳(会津坂下町大字青津)
会津地方を代表する有名な国指定史跡である巨大古墳である。
その規模、東北第二の大きさ、形式は前方後円墳。全長127m、前方部長60m、後円部直径67m程の規模である。
前方部は墓地となり、後円部には稲荷神社・観音堂が建てられている。
試堀調査によって段築・葺石・埴輪などが認められ、4世紀末の年代が考えられるという。

・・・・ここまでは古代史の話。
しかし、この古墳、当然建造当初の姿ではない。
戦国時代は砦として利用していたようである。まず、後円部。
上部が平坦化され、直径30mほどの平場になっている。
本来は半球上の岡だったはずである。

中央部に土壇があるが、これは櫓台であろう。
この平場、下からは8mほど、その切岸、かなり急勾配である。
これは砦用に加工されたものであろう。さらに前方部との間に堀があるのである。
本来は後円部からは緩やかなスロープで前方部まで行けるはずである。
また、周囲には堀が存在していた。
砦としては立派なものである。
中世、砦に加工した者が誰なのか、いつなのか、何の記録もない。
ここは平地の中の岡といった感じであり、物見として使ったのであろう。
西には陣ヶ峰城があるが、その物見台とも思える。
@東から見た亀ヶ森古墳後円部 A後円部中央の土壇、櫓台だろうか。
B土壇上から見た後円部内平端部、土塁がある。 C後円部と前方部の間は堀切がある。
亀ヶ森古墳の南西50mに亀ヶ森古墳とほぼ同方向に並んで鎮守森古墳がある。
こちらも前方後方墳で、後方部に八幡神社が建つ。
全長56m、前方部長30m、後方部長26mと亀ヶ森古墳の1/2スケールである。
築造時期は亀ヶ森古墳より若干下るものと考えられている。

なお、平成元年、古墳の西の男壇(おだん)遺跡・中西遺跡・宮東遺跡が発掘調査され、男壇・宮東遺跡からは前方後円形・前方後方形・方形・円形などの周溝墓が発見され、中西遺跡からは当時の集落跡が出土している。
遺跡から出土した土器は非常に北陸色の強いものであって、亀ヶ森・鎮守森両古墳が北陸系ではないかと言われている。
(会津坂下町教育委員会の解説板参考)


浜崎城(湯川村浜崎)
会津若松から県道336号線を北上し、湯川村と喜多方の塩川地区の境を流れる日橋川の南側が城域である。城は西を磐越西線、東を国道121号線、北を日橋川に囲まれ、さらに中央部を121号線の旧道、米沢街道が分断、おまけに周辺は宅地化しており、遺構はズタズタ状態となっている。
さらに悪いことに訪れた日は河原でお祭りの真っ最中。人が大勢いて、車が路上駐車状態、さらに警察が交通整理をしている状況。
とてもじっくり見るどころではなく、旧道脇の城址標柱と案内板、周囲の堀と土塁を確認した程度である。

遺構図によれば、2つの曲輪が並び、東に馬出のような小曲輪が存在する。
道路で分断されている本郭は東西60m×南北90mの大きさ。
西側の二郭は東西40m×南北90mほどの規模であったという。
城の性格としては北に向かう街道筋を抑える城であったようである。

当然、城の周辺に宿場があった。
それが県道336号沿いの集落であろう。

もう1つの性格としては、日橋川水運の物資集積基地でもあった。
会津若松の北を守る要衝であるのかもしれないが、この程度の城では戦闘には耐えられないのではないかと思われる。

 城址解説板によると、『会津古塁記』に「浜崎城は藤森城とも呼ばれ、浜崎主馬が至徳年間(1384〜86)に築く」と記述されているが、『真壁文書』には観応3年(1352)に、三浦若狭守(蘆名直盛か)が、「河沼郡の合川、浜崎城、蜷川庄政所館」を攻めたとあるので、南北朝時代にはすでに浜崎城は機能していたらしい。

これによると、城は葦名直盛と推定される三浦若狭守が、真壁政幹と共に浜崎城を陥したということになっている。
しかし、真壁政幹は常陸真壁の領主である。
なぜ、そこの領主の彼がわざわざ会津まで来ているのだろうか。
さらに、宝徳3年(1451)8月、猪苗代盛光が浜崎城を攻め陥し、城主であった浜崎政頼や松本通輔は討ち死、白川小峰城主結城義季が仲裁で兵を引き、葦名氏は主馬某を城代として置き、城の改修を行ったと言う。

天正の頃は上野甚五郎が城代として住んだが、同17年、葦名氏滅亡後は片倉小十郎の給地となり、翌18年には蒲生氏郷の支城となり、その子秀行の時家臣の蒲生主計郷貞が城代となって改修工事を行った。

@本郭南側の堀 A本郭の残存土塁

元和元年(1615)の一国一城令により城は取り壊される運命にあったが、蒲生氏は茶屋と名付これを残したと伝えられる。
現存遺構はこの時のものであろう。(福島県中世城館跡分布調査報告書より)
蒲生氏が整備した城が今の遺構であり、このため、比較的新しい縄張りとなっている。
しかし、以前の城はたびたび洪水の被害に遭っていたので、場所を替えて新たに築城を行ったというので、この地ではない可能性がある。
江戸時代、本来なら一国一城令により、浜崎城も廃城となる運命にあったが、これを「茶屋」と呼んで、そのままにしておいたというが、河川水運基地として存続していたようである。
しかし、河川水運の衰退、磐越西線の敷設や道路整備、架橋、宅地化により大部分が破壊されてしまった。
城館にとっては過酷であるが、これも交通の要衝に位置していた証拠であろう。

笈川館(湯川村笈川)
会津若松から喜多方方面に県道326号線を進むと笈川小学校がある。
笈川小学校の敷地及び県道をはさんで東側の八幡神社付近一帯が館跡だったという。

地区の西から南にかけて川が流れており、これが堀跡だったようである。
この付近の集落一帯が館の範囲であったようであるが、宅地化や笈川小学校の建設などで、遺構のほとんどは失われてしまっているようである。

八幡神社付近もくぼ地が見られ、怪しいのであるが遺構かどうか分からない。
しかし、神社の北側の宅地には高さ1.5m程度の土塁がL型に残っていた。
これが確認できた遺構のすべてである。
館は須賀川(旧長沼町)の長沼城の新国上総守貞通の一族であった新国頼盛が天文年間に築いたという。
その後、新国氏は栗村氏を名乗り蘆名氏に仕えた。天正年間は栗村下総守盛胤が館主であった。
彼は天正12年(1584)6月葦名盛隆が東光寺に参詣に出かけた隙を狙い、船岡館主の松本太郎行輔とともに挙兵し、黒川城を占拠するが、盛隆の反撃を受けて松本行助、栗村盛胤は討ち取られ、栗村氏は滅亡し、笈川館も廃城となった。
航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものである。