大里城を取り巻く城砦群

小田原の役と同時並行で展開していたのが、伊達氏に滅ぼされた須賀川の二階堂氏の家臣が反旗を翻し大里城に籠城、
それに対して伊達氏のほぼ全軍がここに集結し戦闘となった「大里合戦」。
結局、城は落城せず、小田原の役終了を持ってこの籠城戦も終了する。
地元は今でもこの合戦を誇り、大里小学校の行事にもなっているという。
その主役は大里城であるが、その周囲には多くの城が存在する。
元々は大里城の支城、出城であろうが、大里合戦では伊達軍の陣城として使われた城もある。
そのいくつかを紹介。前山館、関場山館の遺構はかなり怪しいが、山崎城、羽黒山館はなかなかの遺構が残っていた。

航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものを利用。

羽黒山館(天栄村大里)
天正18年(1590)4月15日、伊達政宗が小田原へ向かうと、矢田野義正が二階堂残党を決起させ大里城に籠城する。
伊達氏の留守居役、伊達成実は石川昭光と白河義親に討伐を命じ、石川勢は6月23日攻撃を開始する。
その時、石川昭光が本陣を置いたのがこの羽黒山である。


北側の大里城の南麓、武隈神社前から見た羽黒山。
頂上部が3段になっているのが確認できる。

しかし、石川氏と二階堂氏はかつては同盟の仲、戦意はなく包囲しただけだったのであろう。
伊達成実、片倉景綱率いる伊達本隊が到着してから戦闘となるが、攻撃は撃退され、8月2日に伊達政宗が総引き上げを命じるまで落城することはなかった。
これが大里合戦である。

その石川昭光が陣を敷いた羽黒山、大里城の南東1qに位置する。
大里小学校の南側に見える標高360m、比高60mの丸い形をした独立峰である。山の直径は約400mである。
城へは西側の羽黒山磨崖仏のある墓地から登るが、道はない。
山頂に山の名前になった羽黒神社があるので参道はあったはずであるが、もうほとんど誰も行かないので道は分からなくなっている。
そのため直登である。

@一番下の帯曲輪。横堀らしいものが存在する。 A二番目の曲輪内部 B 神社の曲輪西下の曲輪にある虎口
C主郭には土塁が1周する。祠は倒壊している。 D二番目の曲輪から見下ろした一番下の曲輪 これが羽黒山磨崖仏、素朴である。

山頂近くは3段の曲輪が同心円状に取り巻く。南東側のみ欠損しているが、まるで階段状ピラミッド、典型的な輪郭式城郭である。
切岸は鋭く、高さは5〜7mほどある。
一番下の曲輪@、Dには北側に堀跡のようなものがある。
曲輪の幅も10〜15mほどある。

←羽黒山から見た大里城。
石川昭光もこの光景をここから見たのであろう。


西側に竪堀のような場所があり、朽ちて折れた石の鳥居がある。
ここから西下に下る土塁のような道がある。
これが本来の参道であったようである。

曲輪@の8m上に2段目の曲輪Aがあり、さらに8m上にもう1つの曲輪がある。
その曲輪には北に下りる虎口Bがあるが、これは参道でもあるのかもしれない。

山頂部の羽黒神社のある場所Cは直径10mほどの円形、高さ1mほどの土塁がまわる。
ここが当時の遺構か分からない。
神社に伴うものかもしれない。
ここの祠も3.11の影響か石の祠が崩壊してしまっている。
復旧しようにも重量があり諦めざるを得なかった。


ここは単なる陣城ではなく、館である。
大里合戦の陣とは館を利用したものである。
おそらく大里城の支城であったのであろう。

なお、羽黒山磨崖仏、自然石に十三体の仏像が横に並んで浮き彫りにされており、解説板によると、江戸時代、曹洞宗の高山寺と大方寺の壇家が、合同で先祖代々の追善供養を行い彫刻したもので、95人の壇家衆の名が刻まれている。
一緒に元禄11年(1698)銘記の珍しい五輪塔の磨崖が二基刻まれている。
この自然石には柄穴や溝跡が残され、以前は彫刻の磨滅を防ぐために覆いを取り付けて磨崖の保護を図っていたことがうかがえるという。

関場山館(天栄村大里)
天正18年(1590)の大里合戦で片倉景綱が陣を敷いた場所である。
大里城の南西1q、大方寺の裏山である。
標高は360mほど、低地からの比高は60mほどである。
大方寺に車を置き、山に突入するが、当然道などない。
山もほとんど自然の山に近い。

麓にある大方寺 ここが主郭部?ただの平坦地だが・・

山の上に平坦な場所があるが、ここが館なのだろうか。
また、寺の西側にも平坦地があるが、ここも遺構だろうか、それともただの畑跡だろうか?
まあ、戦闘時の陣を置く場所なら、城館を再利用したものでない限りこんなもんだろう。

↓ 大方寺から見た北東の大里城。

山崎城(天栄村大里)
大里城の南西側600mに位置し、前山館とは山続きである。
城のある部分が南から北に張り出しており、この部分はだいたい直径200mほどである。

本郭がある最高箇所に標高341mの三角点がありTV塔が建つ。
比高は45mほどである。


北東側、大里城前から見た城址。比高45mほどの山である。
山頂部にTV塔が見える。
写真左端部から道が延びる。

TV塔の保守用の道が東したから延びており、その道を行けば城址にたどり着く。
ただし、TV塔@の建設で多少、遺構の破壊は受けているようである。

山頂部の本郭はL型をしていたものと思われ、高さ1.5mの土塁Aで覆われる。
(南東側が低いが、これはTV塔部分が多少土盛りされているためではないかと思う。)
45m×30mの大きさである。

@本郭にはTV塔が建つ。
このため、遺構は一部破壊を受けている。
A本郭南西側には土塁の切れ目があり、横堀が下る。 B本郭の北側を除く周囲を横堀が覆う。
面白いのは南西側に虎口が空き、そこから土塁と堀が斜めに下る点である。
この堀(通路または塹壕)は北端で竪堀となる。
この遺構は尾根続きの南西方向からの敵を考慮したものである。

また、本郭の下3mに南側から西側にかけてさらに横堀Bが一周し、南西側が広くなっている。
その下にはお馴染みの堀切Cがあり、山続きの南西側を遮断している。
深さは4mである。
その先は平坦地が続くが堀切などの遺構は確認できない。
一方、北側から東側は山の勾配も急であり腰曲輪程度のものしかない。

この城は基本的には単郭の城であり、大里城の支城であろう。
大里合戦では一揆側は放棄し、伊達軍が使ったと思われる。
片倉景綱が陣を置いた場所は西側の関場山ではなく、ここではなかったのだろうか。
C城址南東端は堀切で尾根から遮断される。


前山館(天栄村大里)
大里城の南側600m、竜田川の対岸に位置する西から東に張り出す岡の先端部が館跡である。
この岡の標高は330m、大里小学校付近からの比高は35mである。
岡には先端部、国道294号線脇から石段があり、簡単に上がることができる。

この館のある岡、南側は土砂採りで湮滅してしまっている。
土砂取り前の航空写真を確認するとどうも「しゃもじ」型をしていたようである。

現在も北側は手が入っていないため、岡先端部が大きく広がっているのが確認できる。
内部は平坦であり、当時も平坦な場所であったものと思われる。

先端から登ると、途中に犬走りのような曲輪が見られるがこれが遺構であるか判断できない。
岡の上に上がり30mほど西に行くと、虎口のような場所Aがあり段差となっている。
南東側に通路状の堀Bが下っている。
さらに西に向かうと80mにわたり平坦部@が続く。
かつては畑だったのかもしれない。
土砂採りのためか、それとももともとこの幅だったのか分からないが、平坦部の幅は10mほどしかない。

なお、南下を覗き込むと犬走りのようなものが見える。
これが遺構なのか、土砂採りに伴うものかも判断できない。
西端には普通堀が存在し、山続きの西側と遮断するのが定番であるが、その堀は確認できない。存在した痕跡もない。
西側は一段高い場所があり、そこには何かの祠がある。その先は自然の山である。
さらに山中を進めば山崎城と連絡されるはずである。

平坦であるため居住性は高く、大里城に係る城であったものと推定される。
大里合戦においては伊達軍の軍勢がここにも駐屯していたのであろう。

@館主郭部は細長い平坦地 A東側の虎口と思われる段差 B南東に延びる堀は登城路か?


陣屋久保館(天栄村大里)
大里城、北東400m、国道294号線の反対側の山麓に「高山寺」がある。
ここが陣屋久保館の跡というが、同じ名の館が東の山にある。おそらく麓の居館と詰の城の関係だろう。
大里城に係る城館であろう。大里合戦では伊達成実が陣を置いたのはこの館の山の城であろう。
山の裾近くの平地から一段高い平場であり、山側には堀も何もない。
山側の城との一体であるからであろう。

南から見た館跡の高山寺 境内、ここに館があったのであろう。

松本館(天栄村大里)
大里城の北500mにある。
国道294号線沿いに「道の駅 天栄」があり、その北側に「ホンシュウ天栄工場」があるが、その北側の標高330m山である。
山の南側は工場の敷地となっているため削られて崖になっている。
この山には北側の尾根筋から登った。


↑北側から見た館跡の山、
道路は国道294号線、ここの先を行くと道の駅 天栄そして大里城の前。


ここからの比高は35mほどなのだが、山自体が急斜面であり、比高以上に登るのがきつい。
東側の谷を国道294号線が通り、西側も谷になっている。
しかし、登ってはみたががっかり。
ここはほとんど物見台にすぎないものであった。

北側の尾根筋に堀切が1本@ある。
そこから高度で10m登った山頂部には直径4m、高さ1.5mほどの土壇Aがあり、東側を除く3方に腰曲輪があるだけである。
山頂から12m南西下には鞍部Bがあり、さらにそこから西側に12mほど高くピークがある。

ここも物見のような気がするが、山頂から西下を見て足が震える。削られてオーバーハング状になっているのである。

@北の尾根筋の堀切 A山頂部の土壇と腰曲輪 B山頂西下の鞍部と西のピーク、左は崖である。

ここは北側の釈迦堂川方面を監視し、大里城に急を告げるための物見、狼煙台であろう。
果たして大里合戦では使われたかどうか?