白河市旧大信村地区の城郭

東堂山館(白河市大信下小屋西宿)
矢吹ICから県道58号線を7q西進、新城館、古館を過ぎ、国道294号線を越え、さらに3qで大屋小学校がある。
その少し手前に長慶寺@がある。
この寺の裏山が城址である。

標高は410m、比高は90mである。
なお、長慶寺自体が居館跡のようであり、東西を尾根で囲まれ、東側の尾根から寺背後にかけて上が削平されて曲輪のようになっている。
城にはどこか寺から登る道があったようであるが、それは分からず直登。
しかし結構急である。

右下の航空写真の左下が大屋小、道路が県道58号線。
中央下の山に少し入った場所にあるのが長慶寺。
その背後の山が城址である。

登った場所に30m四方で北側に高さ2mほどの土塁と南側に帯曲輪を持つ城郭遺構Aが存在した。
ここが館跡かと思ったが、ここは街道筋を監視するための物見のような場所にすぎなかった。
肝心の主郭部はそこから尾根を80mほど行った北側にあった。

この尾根、物見の土塁の6m下Bから高さ1mの土塁が続き、その両側が幅5mほどの帯曲輪Cが続く。
この先が主郭部である。入口の両側に岩があり門だったのだろうか。
主郭部は2段になっており、主郭Dは一辺60mの三角形。
周囲に高さ2m下に幅5mの帯曲輪が回る。
北側に岩があるがこれは何だろうか?
なお、ここは公園だったようであり、朽ちた木製のベンチがあった。
でも、ここに来る道が見つからない。
自然に帰ってしまったのだろうか。

@麓の長慶寺は館跡か?背後の山がAの部分 A 長慶寺背後の山の曲輪と土塁 B Aの曲輪の土塁を北側から見上げる。
C Aの曲輪から本郭までの尾根に延びる土塁 D ここが本郭だろう。西側に岩があるが・・ E本郭西の堀切は深さ10mほどある。
F二郭内部 G 二郭西側の幅20m、深さ7mほどある巨大さ。 H東堂山遺跡とはこの段差か?ここは館跡?

帯曲輪は西に30mほど突き出ており、その先は深さ10mほどの巨大な堀切Eになっている。
この西に二郭が続く、長さ60m、幅25mほどの曲輪Fの西側に2段の腰曲輪があり、深さ7m、幅20mほどの巨大な堀切Gがある。
さらに西側にも尾根が続くが、日没がせまりこの先は見ていないが、遺構が存在している可能性もある。

ここまで曲輪の高さは標高410mでほぼ同じであり、城の形は東西200m、南北200mのL型である。
この堀から南側に下りて行くと、段々状の場所Hがある。
植林に伴うものの可能性もある。

「まほろん」の地図によるとこの付近を「東堂山遺跡」としている。
このため、ここも館跡であったのかもしれない。城主は分からないが二階堂氏系の館であろう。
想像以上の大型城郭であり、地域の拠点城郭である。
重臣級の者の館であろう。

航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものを利用。

古館(白河市大信町屋古館)
新城館から県道58号線を1q西進し、隈戸川を渡ると正面に土塁が見える。
山田屋旅館の南側にある土塁である。


ここから南西側の胡四王神社にかけてが館跡であるが、範囲はよく分からない。
はっきり確認できる遺構は山田屋旅館の南側にある土塁と神社入口の土塁のような部分のみ。

東側は隈戸川が水堀兼用だったと思われるが西側は良く分からない。
堀が存在していたのかもしれないが、その痕跡も水田となって伺えない。

                          上が山田屋旅館さん、下が胡四王神社→

↑胡四王神社南側に残る土塁。水田は堀跡か?

西側は地勢が高くなっているのである。
西側から見れば館内が丸見えになってしまうのであるが・・不思議な立地である。
河川水運用の館という可能性もあるかもしれない。
今は隈戸川の水量は少ないが、戦国時代は一般に河川の水量は現在より多かったらしい。

航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを利用。
右上が山田屋旅館であり、上の写真の土塁がある。
左下が胡四王神社、ここの入口にも土塁がある。

新城館(白河市大信中新城内屋敷)
矢吹ICから県道58号線を2.5q西進すると東北新幹線の高架が見えてくる。
その手前、隈戸川の北岸、新城地区が館跡である。

遺構は民家になってほとんど湮滅状態であるが、北側の鹿島神社から明眼院付近にかけて遺構が存在する。
この付近の字名が内屋敷である。

鹿島神社@が馬出のような感じで北に突き出ており、社殿の地が櫓台のように一段高くなっている。

その北側が高さ3mほどの切岸Aのようになっており、下の水田が堀跡のようである。

ここから西に土塁跡のような畑Bが70mほど延びる。
その北側Cも切岸状である。

また、鹿島神社の南東側に長さ30mほど、高さ2mほどの土塁Dが残る。
明眼院の北側にも古墳のような土壇Eが残る。

館の形は方形だったようであるが、鹿島神社付近は欠けがあったようであり、完全な方形ではなかったようである。

永禄年間、この地は二階堂氏が白河氏から奪ったという。
館主は新城備後守、その後須田近江守定綱になったという。
@鹿島神社の社殿の建つ場所は一段高く櫓台跡か A鹿島神社社殿背後の切岸 B鹿島神社から西に延びる畑は土塁跡か?
C Bの畑の北側、水田は堀跡だろう。 D 鹿島神社南東に残る土塁 E 明眼院北にある土壇

航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを利用。


大山館(白河市大信上小屋大山)
大屋小学校前から県道58号線を2.5q西進すると、大栄方面に向かう広域農道が分岐する。
この三叉路の北西の山が館跡である。

館のある山は北西から南東に張り出した尾根状の山で先端部が盛り上がっており、そこが主郭である。
主郭部の標高は400m、比高は50mほどである。

先端部近くに愛宕神社があり、急な石段があるのだが、入口部が藪化しつつあり分からない状態。
神社境内Cは比高20mほど自体も曲輪だったと思われる。
長さ30m、幅5mほど。

社殿の裏を登って行くと主郭部になるのだが、その間に帯曲輪Bが5段ほど存在する。
主郭@は40m×15mほど。
その北西側6m下に曲輪A、土塁がある。
末端に土橋があり、そこが城の末端であり北西方向に尾根が続く。

典型的な尾根式城郭であるが、規模は小さいものである街道を監視する城であり、東堂山館の支城であり、緊急時はここから狼煙を上げたのであろうか。


@主郭部は削平され平坦 A主郭北西側から主郭を見る。 B 南東に延びる尾根に展開する帯曲輪
C愛宕神社がある曲輪 D先端部から見た城址。左手に参道がある。

航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものを利用。

八幡館(白河市(旧大信村)増見)
白河市役所大信支所(旧役場)前から国道294号線を白河方面に700m進むと、途中、隈戸川を渡り、八幡神社がある。
さらに西に福正寺がある。この裏山が城址である。

↓は北から見た館跡。右が大信聖虹の郷、左端が添田建設さん、ここの西側付近から登れる。


山の標高は350m、比高は50mほどである。
しかし、館跡に行くまでが大変である。福正寺からは南斜面であるため藪で登れない。
東下の八幡神社からは倒れた竹が密集した帯曲輪を突破しなくてはならない。
北側にある福祉施設「大信聖虹の郷」からは斜面に藪はないが、急斜面であり登攀が大変である。
しかも、ここから斜面に取りつくと大勢の人の目線が痛い。

一番、登りやすいのは北下にある添田建設さん西側付近から斜めに登る道である。
このルート、途中から道が現れ、主郭部北下の帯曲輪に出る事ができる。
館は最高箇所の30m×40mほどの広さの曲輪が本郭@であるが、内部は南方向に傾斜している。
南端に枡形虎口Aがあり、東下の帯曲輪につながる。
この帯曲輪、東から北に回り、本郭西下の曲輪Bにつながる。
ここが二郭と言えるだろう。

なお、枡形虎口付近から直接二郭に下りる道もある。
二郭からは枡形虎口下付近から福正寺付近に下る道がある。

この枡形虎口であるが、福正寺からの道を上がってくる敵を迎え撃つ遮蔽塹壕かもしれない。
この本郭から周囲をらせん状に回りながら下の曲輪に下りる構造、天栄村の山崎城にも見られる。
同じ設計者によるものであろうか。

二郭は本郭から5m下に位置し、この曲輪も南に傾斜している。
西側に延びる長さ35mほどの土塁があり、西端に深さ5mの堀切Cがあり、南北の山下に竪堀が下る。
二郭の南下に腰曲輪がある。
反対側、北側5m下に帯曲輪があり、本郭から降りる虎口Dがある。
さらに東下2番目の曲輪につながる。
さらに8m下にももう1つの帯曲輪がある。
この曲輪が東下の添田建設さん付近に通じる。

一方、本郭の東下には八幡神社方向に幅8mの帯曲輪が4mの高さで4段展開する。
城の性格は隈戸川に沿う下小屋地区の谷の入口を抑える城であろう。
おそらく本城は規模からして東堂山館であろう。

@本郭、北西端が高く、東と南に傾斜している。 A本郭南の枡形虎口は帯曲輪yにつながる。 B本郭(右)西下に二郭が展開する。
C西側の堀切、ここが城域末端 D二郭から北下の帯曲輪に下りる虎口 南下の福正寺は居館跡か?右上の林が館跡。