越久館(須賀川市越久舘)
越久、この字、読める人どれくらいいるか?
まず、読めないであろう。「おっきゅう」と読むのである。

東北道須賀川ICから県道67号線を北西方向に2.5km進み、西袋中学前の分岐を県道294号線に入り1.5km進むと岩根川を渡る。
その西側の比高20mほどの岡が館跡である。
↑の写真は南側から見た館跡である。
この岡、東西150mほどあり、東側に妙養寺と神明神社@がある。
この寺社の地がすでに城域である。


妙養寺にあるしだれ桜が、銘木、「越久の枝垂れ桜」別名「彌陀桜」である。

樹齢はおよそ350年、高さ14m、幹回り約3.8mという。

妙養寺を開基した慈覚大師が、極楽浄土の花園を姿で表す1つとして、又地域の農作業の種蒔きの目安と成る事を念じて植えられた桜の子孫とされる。
廃城になった跡地に寺が建立され、その時に植えられたのであろう。
神明神社は3段ほどになっており、2段目に本殿があり、その北側に土壇Aがある。
ここが櫓台Bである。
その西側を覗くと深い堀切Cがある。深さは5mほど。
南側は竪堀が下り、北側にかけて横堀が覆い、台地続きの北側を遮断する

堀を越え、主郭内に入るが、すさまじいほどの倒竹地獄。とても歩けるものではない。
曲輪内は南側に向って3段ほどになっており、北側は土塁、一部、櫓台跡と推定される土壇がある。
この館の西側は藪もなく、冬場は問題なく遺構が確認できる。

斜面は急でありよじ登るのが大変であるが、9m上に虎口のような、射撃陣地のような変わった遺構Eがある。
正面に土塁があり、両側が竪堀になっているのである。不思議な遺構である。

さらに5m上に南側の帯曲輪Fがあり、さらに5m上が主郭Dとなる。
主郭Dから北下を見ると5m下に北側を覆う横堀Gが見えるが、ここ付近では横堀というより通路状であり、幅は7mほど、底も平坦である。
西で竪堀になるかと思えば、そうではなく曲輪Hとなり、北側に通路として延びている。

@東の曲輪には神明神社が建つ。 A神社の北側には櫓台がある。 B Aの櫓台上には祠がある。その裏が・・
C Bの裏側は深い堀になっている。 D 主郭内は竹藪だが、西側は何とか歩ける。 E 西端にある射撃陣地のような不思議な遺構
F Eの東5m上にある帯曲輪。土塁を持つ。 F 主郭北側にはCから続く横堀がある。 G主郭から見下ろしたFの堀と北側の曲輪

この館の北側に居館があったといい、さらにその北側、東側の集落は「舘」という地名であり、根小屋地区であったようである。
なお、「須賀川市史」では神明神社の地が主郭としているが、やはり西側の部分が主郭であろう。
館主は越久豊前守義久という。なお、越久は地名を取ったものであり、本姓は矢部氏である。
伊達氏の勢力が拡大すると、伊達氏に寝返り、二階堂氏滅亡後、天正17年(1589)11月24日、伊達政宗から本領である越久村350貫文給分2貫文を安堵されている。

(余湖くんのホームページを参考にした。)

平館(須賀川市大字越久字南田)
越久館南を流れる川根川の西側上流1km。川と溜池の間の台地にあった。
アクセスしようとしたが、狭い農道に大型の車が止まっていて断念。
館跡はだたの畑だという。
航空写真を見ると、溜池(もともとくぼ地であったと思われる。)と川に挟まれた台地上の場所であり、居住性、防御性もそこそこ備わっている感じである。




小屋館(須賀川市大字松塚字小屋)
須賀川墓地公園の西側の最高箇所、下は東北新幹線のトンネルになっている。

その場所が館跡である。
しかし、残念ながら館は公園化で湮滅しており、ただの公園に過ぎない。
遺構の残骸も確認できない。

須賀川から長沼に向う街道(現国道118号)が館跡の北から西側を通っているので、須賀川城の西を守る城であるとともに街道を抑える役目があったのであろう。

館主は初代が古川式部大輔政之であり、最後の館主が古川讃岐守定政という。
古川氏は清和源氏世良田氏を称し、遠祖は摂津国に居住したという。

なお、世良田氏は新田氏の支流で、上野国新田荘世良田郷(群馬県新田郡尾島町世良田)が発祥であり、その流れに得川氏がいる。
これに徳川氏が目を付け、系図を捏造し、徳川氏が源氏ということにして征夷大将軍となり、幕府を開いたことになっている。

この古川式部大輔政之は畠山重忠に従い、この地に来て、居住したという。
天正17年(1589)十月、伊達氏の二階堂氏攻撃では古川讃岐守定政は伊達政宗に従わなかったため、武家の地位を失いこの松塚村で帰農したという。


中館(須賀川市大字稲字新城館)
須賀川市街から国道118号線を西の長沼方面に向かい、釈迦堂川を渡り、須賀川ICを過ぎると左手に墓地公園がある。
この墓地公園の入口部東側にある岡が中館跡である。

下右は南側から見た館跡の岡である。

墓地公園造成でかなり改変されてしまったのではないかと思ったが、岡周辺は改変を受けている可能性はあるものの、岡の上はまったく手つかずであった。
とは言え、岡の上50m×30mほどの平坦地@になっている。
岡の西下は帯曲輪になっているが、これは遺構なのか、それとも墓地公園に伴う工事によるものか?

@岡の内部は平坦であり、建物も十分建てられる。 A北に延びる尾根は削り出しの土塁となっている。

北方向には尾根状の削り残しと思われる土塁2が延びる。
谷津を挟んですぐ東の岡が稲村御所である。
その外を守る城であろうか?しかし、簡素なものである。