須賀川市仁井田地区の城館

片岸館(須賀川市大字仁井田字片峰)
仁井田集落の北の岡に仁井田小学校があり、その西に墓地があり、さらに道路を隔てて山林がある。
片岸館はこの山林の中にある。
↓は南側、仁井田集落から見た館跡である。

道路から山林に入って行く道があるが、堀底道@になっている。
「須賀川市史」ではこれが牛越街道ではないかとしている。

この道を行くと、途中で堀底道が分岐し、その先は墓地になっている。
西側の墓地のさらに西側に土塁があり、土塁間に虎口が開く。
この先が主郭であるが、凄い藪で歩くのに難儀する。
一方、堀底道を北に行くと、土壇Aがあり、堀Bと土塁が存在する。

この堀は東側に回り込み主郭内に入る構造になっている。
この構造、白河市旧大信村の八幡館と天栄村の山崎城にも見られる。
いずれも二階堂氏の城郭であることが共通点である。同一の設計者によるものであろうか?


航空写真は国土地理院昭和50年撮影のもの。

さらに西側には堀Cがあり、南側で腰曲輪に合流する。
藪で規模が分かりにくいが、主郭部は40m×30m程度のものであろうか。
その周囲の部分を含めても70m×50m程度の規模のものである。
土塁はどこもわずか1m程度の高さしかない。
鳥瞰図を描いてみたが、余りに藪が酷過ぎ内部は十分に歩ける状態ではなかった。
したがって実際と異なる部分もあるかもしれない。

@館に南東から登る堀底道は牛越街道か? A館主郭北にある土壇
B 主郭北側の堀、かなり埋没している。 C館西側を巡る横堀

二階堂氏の領土、安積境を守る城であり、想定する敵は田村氏であろう。
浜尾氏、明石田氏が守備したというが、仁井田地区を守る北の出城でもあろうとは思うが、土塁は低くとても防衛用の城とは思えない。
精々、街道筋の関所に過ぎない規模と構造である。

新田館(須賀川市大字仁井田字舘内 )
仁井田集落内にある願成寺の西側一帯が館跡。
字名もズバリ「館内」。
北側の水田地帯に面して土塁の痕跡のようなものがあるが、明確な遺構は確認できない。

館東に位置する願成寺、右の道路が堀跡? 集落北側には土塁と堀の残痕が伺われる。

館主は浜尾右衛門大夫行泰入道善斎、その後遠藤対馬守という。
浜尾氏は、伊豆国懐島の浜の尾に居住したので浜尾氏を称したという。
宝徳三年(1451)浜尾民部大夫氏泰の時に当地に来たという。
当時は北沢村と言ったが、浜尾氏に因んで村名も浜尾村になったという。
地名を姓にした例がほとんどであるが、姓から地名になった例は、相馬などの例はあるが少ない。

↑は航空写真は国土地理院昭和50年撮影のもの。上の塗りつぶし部が新田館、左が西館。

浜尾氏は二階堂氏の家臣であったが、伊達氏の勢力が拡大すると、天正17年(1589)浜尾右衛門大夫行泰入道善斎とその嫡男駿河守盛泰、善斎の弟豊前守宗泰は伊達氏に寝返り、須賀川城攻めの先陣をつとめる。
天正17年11月20日、伊達政宗が浜尾駿河守盛泰に発給した知行宛行状によれば、本領の半分が安堵され、残り半分の替地として新田、明石田が新たに宛行われている。
一族の浜尾豊前守宗泰は安積郡守屋が安堵されている。

伊達氏が岩出山に移されると浜尾氏もこの地を去り、宗泰の子孫は川嶋氏に改姓し、仙台藩士となる。着座の家格であり、黒川郡大松沢村(大郷町大松沢)で1773石を知行したが、安永2年(1773)行信の代に安永の疑獄によって断絶した。
行泰の子孫は中間番士で宮城郡高城村(松島町高城)で167石余を知行する家と黒川郡大松沢村で131石余を知行する家として続いた。


西館(須賀川市大字仁井田字西館)
仁井田集落の西側の字名がずばり「西館」であるが、遺構は確認できない。
新田館の分館であろう。

明石田館(須賀川市大字仁井田字明石田)
仁井田中学校東側一帯が館跡であるが、ここも微高地であり、遺構は確認できない。
しかし、昭和50年撮影の航空写真を見ると円形の微高地が確認できる。
ここに館があったことが分かる。
すぐ南が猿池館であり、両者は元々一体のものか、分館、または分家の関係であったと推定される。

館主は明石田左馬助という。
源三位入道頼政の孫広綱の三男太田兵部が文治5年(1189)の頼朝の奥州藤原氏攻撃時に負傷し、その功でこの地をもらい、地名から明石田氏を称したという。
二階堂家臣として活躍し、伊達氏の須賀川城攻撃にも内応せず、明石田館を失うが、須賀川城落城後は大里城に籠城した。
左馬助の長男太田治郎兵衛(太郎左衛門)は岩瀬郡畑田村(須賀川市大字畑田)で土着帰農し、子孫は後に小針に改姓したという。

航空写真は国土地理院昭和50年撮影のものを使用。

猿池館(須賀川市大字仁井田字明石田)

県道109号バイパスと旧道は仁井田集落の東側、仁井田中学校の南側で合流する。
この付近が館であったというが、宅地と畑になっており遺構らしいものは確認できない。
ここは水田地帯中の微高地である。

昭和50年撮影の航空写真を見ると、堀跡が確認できる。
方形館であったようであるが、さらに外側にも曲輪が存在していたようであり、二重方形館であった可能性がある。

↑は西側から見た館跡の微高地。
航空写真は国土地理院昭和50年撮影のものを使用。

一夜館(須賀川市大字仁井田字一夜館)
越久館前からさらに県道294号線を1km北西に進むと仁井田地区手前で滑川を渡るが、その手前に県道西側に「一夜館公園」という標識がある。
この標識に従って進むと主郭まで車で行ける。

そこはグランドになっている。
そこが主郭であろうが広い。70m×50m程度の規模はある。
北西側に石碑があり土壇ぽいものがあるが、櫓台跡であろうか?
その西側が藪になっているが、北下に下りる虎口があったと思われる。
館の北側は滑川の低地であるが、南側、東側は段々になり、畑や宅地になっているが、腰曲輪であろう。
明確な堀は確認できなかった。

↑は北側から見た館跡である。

主郭部はグランドになっており広い 主郭南側は帯曲輪になっている。

城域としては120m×100mほどであろうか。
城主等は分からないという。
ここの主郭の大きさからして、ここは居館だったと思われる。
構造的には防御性は低い。
かなり古い時代の館のように思える。
戦国時代は仁井田地区の新田館を守る南の出城として使われたのではないだろうか。
航空写真は国土地理院昭和50年撮影のものを使用。

本郷館(須賀川市大字館ヶ岡字本郷)
仁井田地区から西に県道109号線を2.5kmの「舘ヶ岡」地区にあった。
ここは県道55号線と県道109号線が交差する交通の要所である。
館は来迎寺の北側地区にあったらしいが遺構は確認できない。

この集落内の道路は複雑であり、集落自体も水田地帯の中にある。
湿地に囲まれた微高地上にあった館だったのであろう。

永禄2年(1559)今泉城が田村氏の攻撃を受け、矢部周防らが敗戦、今泉城は軍勢が出払っている間に田村勢に占領され、田村月斎が城主となる。
この時、今泉城に戻れなくなった矢部周防がやむなく入った館がこの本郷館であったという。


本郷集落の北側、この付近が堀だったようである。

来迎寺の北側が館らしい。→