小中城(須賀川市長沼大字小中)
須賀川から国道118号線を西に11q、長沼中学校から南に岩瀬広域農道を1q南下し、江花川を渡ると小中地区になる。
小中集落の西から北に比高30mの岡があるが、この岡が城址であり、南側の集落の地が居館跡、根小屋である。
北西3qに長沼城があり、その東の出城である。


↑は東側の岡の内館前からみた小中城である。

東3qには二階堂氏側の桙衝館、木之内館があり、葦名氏が新山氏を置いて支配した長沼城の前線の境目の城である。


↑の航空写真の左が小中城。谷間のような場所の民家が居館跡である。
中央部の赤い部分が岡の内館跡、右端が城之内館跡である。


天正年間の城主は内山元経という。
「白河風土記」所収の内山系譜によると、内山氏は三浦平三郎為道の後裔にして、文治年間(1185〜1190)元成の代に葦名氏の祖、佐原十郎義連に従って会津に来たという。

至徳元年(1384)葦名直盛が小田山城を築いて移った時に郭内を山ノ内と郭外を黒川といったが、元成より九代の後裔為義が山ノ内に居住したので内山氏と称したという。
その子孫が城主らしい。

なお、二階堂氏家臣にも内山氏がおり、二階堂為氏の須賀川下向に従った侍に内山宮内少輔(藤)、内山右馬丞(白)の名が見え、伊達政宗の須賀川城攻撃の時、須賀川城に籠城した武将に内山右馬丞(藤)の名が見える。

両内山氏の関係は分からないが、この地方には内山姓が多いが、桓武平氏三浦氏族を称する系図が多いというので、葦名氏系の内山氏の経歴と一致する。
その子孫ではないかと思われる。

城は東西3つの部分からなり、おそらく中央部の曲輪Tが本郭であろう。
東端の曲輪Vは東端に小さな曲輪があるが、現地n解説では櫓台になっている。
でもそんなものがあったとは思えない。

@曲輪T(左)、V間の堀 A主郭、曲輪Tの南側に展開する曲輪内部 B曲輪Tの最高部は風避け土塁状になっている。

西側に登ると北側と西側が土塁に覆われた曲輪があり、その西側に堀切@があり、その西側に堀底からの高さ4mの曲輪Tの櫓台がある。
この西側が本郭と推定される曲輪であるが、東西70mほど。
南側に段々に曲輪Aが重なる。頂上部は土塁状になっているBがこれは風避けのように思える。
西端に櫓台Cがあり、堀切Dがある。

その西側に曲輪Vがあるが、西側の櫓台までの間が途中はだらだらしている。
その櫓台は、堀切Dから100m西にあたる。櫓台の前の曲輪には祠がある。
西端の櫓台の西側には当然、堀切があると思いきや、ない。
西側には細野根が続くだけだが、小竹の密集が凄く先が分からない。この先に西端の櫓台のような場所があるらしい。

C曲輪T西端の櫓台 D曲輪T、U間の堀切 E曲輪U西端の櫓台

なお、この山の北側は急斜面であり、明確な遺構はない。
居館部は岡の南下の谷間のような場所にあったというが、民家になっている。
岡の南斜面は段々になっており、畑や宅地に利用っされているが、改変も受けているであろう。
いずれにせよ、ここは日当たり良好で北風が防げる生活するのは最適の場所である。


岡の内館(須賀川市長沼大字桙衝字岡の内)
小中城の東250m、岩瀬広域農道沿いにある消防分署東が館跡である。
館跡は集落となっており、遺構は明確に確認できない。
小中城の城主の家臣の居館であろう。安藤蔵人の居館という。
この安藤氏、二階堂氏の家臣である。一方の西側の小中城は葦名氏系の城郭である。
二階堂氏と葦名氏、いつも良好な関係だったわけではない。
この至近距離で緊張関係はあったのであろうか?



城之内館(須賀川市長沼大字桙衝字城之内)

小中城の東500m、岡の内館の北東250mの城之内集落が地名通り館跡である。
民家の中に土塁が確認できる。もっと近づいてみたいのだが、誰も外にいない。
そのまま入って行く訳にもいかず・・・・。
ここは小中城の城主の家臣の居館であろうか。
それとも二階堂氏系か?