須賀川市旧岩瀬村の城

今泉城(須賀川市大字今泉)
須賀川から北西に県道67号を9q進み、県道55号と交差する滝原の交差点から県道55号を1.5q北上、
本郷地区で交差する県道109号を西に2.5km進むと今泉地区になる。
この地区の北側の山が城址であるが、麓の町内地区自体が根小屋地区である。
かつては県道に沿って土塁(町内土塁)が存在していたという。


↑主郭部から見下ろした城下「町内」地区。
ここは根小屋であり、城主の居館もあったのであろう。

←麓の集会所(ここに駐車可)から見た北の城址の山。
ここからの比高は40m。
山の南側斜面は急勾配である。

この地区に集会所があり、そこに車が置け、ここから城址までの道が延びている。
麓の町内地区の標高は300m、城のある部分は比高が40〜55m高い山にある。

城のある部分は比較的平坦であるが、周囲は急であり、西側から登る道は七曲りと呼ばれるが、当時からの登城路であったらしい。

この道を登った先が内枡形の虎口@になっており、広い主郭部Aが広がる。
北側に向けて3段ほどになっており、周囲のかなりの部分を土塁が覆う。

この主郭部南北160mほど、東西40mほどもある広大なものであり、かなりの人数が収納できる。
北端は櫓台3があり、そこの標高が354mである。

そこから北西に細尾根が延びるが藪が酷い。
土橋状部分、竪堀、小曲輪はあるが、明確な堀切は確認できなかったが、より先に存在しているのかもしれない。

櫓台の北下10mには腰曲輪が存在し、主郭の東下には堀切C、または枡形がある。
ここから東の尾根に90mほどにわたり曲輪が延びるがかなり凸凹し、南側には段々状になっている。
東端は櫓台Dになり深さ10mほどある堀切Eで終わる。
この堀切はこの曲輪の北側は横堀状の竪堀となってカーブしながら下って行く。
@主郭虎口 A主郭内部はかなり広い。 B主郭は3段ほどになっており、北端に櫓台がある。
C主郭東の堀切兼虎口 D東に展開する曲輪の東端は櫓台状になっている。 E東端の土塁の東には深い堀切になっている。

この城は須賀川を本拠とする戦国大名二階堂氏の北西方向の敵に備える防御拠点である。
当然ながら想定する敵は山向うの会津の蘆名氏である。

築城は「岩瀬郡誌」によれば、文安年間(1444〜49)という。
永禄年間には、内城に矢部周防、外城に娶川(すがわ)左衛門を置いて城を守らせていたと記載されているが、どこが内城なのか、外城なのか分からない。
なお、矢部氏は二階堂四天王の一人で、木舟城を本拠にするが、その一族が矢部周防か?

想定通り、文明16年(1484)8月〜9月、会津の蘆名盛高が岩瀬郡に侵攻し、この今泉付近で二階堂勢と衝突するが、(「塔寺八幡宮長帳」「須田氏系図秘伝巻」)当然、今泉城が関係するであろう。
永禄2年(1559)には田村氏の攻撃を受け、矢部周防らが敗戦、今泉城は軍勢が出払っている間に田村勢に占領され、田村月斎が城主となった。(「老人覚書」)
山麓の永禄寺は永禄7年(1564)田村月斎が建立したという。
その後、天正10年(1582)4月、伊達輝宗の調停で田村氏と二階堂氏間に和議が結ばれ、今泉城は二階堂氏に返還され、新田(仁井田)城主の浜尾駿河守が城代となった。(「奥陽仙道表鏡」)

天正13年(1585)の人取橋の合戦時には、反伊達連合軍が今泉城に終結し、ここから郡山に向けて出陣し、今泉城の軍勢も同行したと思われる。
天正17年(1589)の伊達政宗による二階堂氏に攻撃では、須賀川城攻撃に先立ち政宗は今泉城の調略を図った。
これは今泉城から側面を突かれる危険性があったためである。

当時の今泉城主は、浜尾駿河守盛泰は伊達氏に降っていた一族の浜尾豊前守宗泰の説得を受け入れ、伊達氏に帰属。
側面の憂いを絶った伊達政宗は、須賀川城を攻撃、二階堂氏は滅亡する。

伊達氏に降伏した浜尾氏は今泉領は安堵されたようであるが、小田原の役後の奥州仕置きで、浜尾氏は伊達政宗に従ってこの地を去り、これにより廃城となったと思われる。
(現地の解説板参照)
(余湖くんのホームページを参考にした。)

川田館(須賀川市大字今泉字旧館)
今泉交差点から県道109号を西に500m、道路の南側に五輪塔と館跡の解説がある。ここが川田館跡である。
五輪塔には川田太郎左衛門尉、河田修理、川田山城守の名が刻まれているという。
館はすでに耕地整理で湮滅してしまっているが、昭和50年の航空写真には方形館が写っている。


「岩瀬郡誌」などによれば、川田氏が館主であり、子孫の川田家には二階堂為氏発給の書状が3通残されていて、その宛所は川田修理と川田山城守であるという。

またその書状には今泉城臣とあり、川田氏は今泉城主の有力家臣であったと考えられる。

航空写真は国土地理院昭和50年撮影のものを使用。