矢造館(石川町中田字下矢造)
瀬谷館前からさらに県道140号線を平田村方面に東に進むと中谷第二小学校がある。
その前を過ぎると道は三森川が流れる谷に降りる。
ここ矢造で県道140号線は県道63号線と交差する。


矢造館は若宮八幡神社前から県道63号線に入り母畑方面に500mほど進んだ場所にある。
しかし、この県道63号線、とても県道とは思えないくらいである。
まるで田舎の村道である。

館のある山は東から西の谷に張り出した尾根状の山であり、山の下で東のグリーンアカデミーCC方面から流れて来る今出川と三森川に合流する。

この合流点の標高が401m、尾根状の山の先端部が館跡であるが、ここには先端部から登った。
上の写真は北側から見た館跡である。右下付近から登った。
しかし、山の勾配は急であり息があがる。
ここからは登るものではない。

もし、この館に行きたいという殊勝な人がいるなら、今出川の少し上側に山に入る道があり、そこを行けば、館の背後部から比較的容易にアクセスできそうである。
さて到着した山の上の先端の平坦部は標高が460m、ここまででも比高60mもある。
しかし、その曲輪@は長さ35mのバナナ型、幅は5mほどしかない。
内部はほど自然地形に近い。ここは先端の物見であろう。
平場以外、特段遺構はない。

この東側が主郭部であるが、先端部との間は4m低く鞍部になっており、その鞍部から南北に竪堀が下る。
特に北側に下る竪堀は自然の谷を拡張したものであるが見事なものである。
鞍部から7mあがった東側に長さ40mほどの湾曲した曲輪があり、東側に2重堀切がある。
その2重目の東側の掘切Aは深い。斜面は竪堀Bとなって豪快に下る。

その東側が本郭と考えられる曲輪であり、西側が2段になっており、長さ30m、幅10mほど。東端に高さ3mほどの土壇Cがある。
ここの標高が473m、土壇の東には武者溜まりのような直径10mほどの土塁に囲まれたスペースがあり、この曲輪の土塁が南に延び、土塁付の帯曲輪になっている。
武者溜まりの東には堀切があり、段々に低くなりながら長さ40mにわたり曲輪が続く。
曲輪内部には小さな堀があり、区画している。
この曲輪部分の標高が466m、土壇からは7m低い。
東端に堀切があり、ここからは登りとなる。

@先端部の曲輪はただの平坦地にすぎない。 A主郭部付近になると堀切が出現 B堀切は豪快な竪堀になって斜面を下る。
さらに登った場所にも曲輪と推定される平場があり、土塁Dがある。ここの標高は480m。
主郭部よりも高い。

この先はだらだらした感じであり、もはや城外であろう。
この場所が城の搦め手だろうか。

この城はあえて細尾根末端の低くなった部分を利用している。
東方面からは見下ろされる位置関係になるが、両側が急坂で細尾根であるという防衛上の利点を優先考慮した立地である。

この付近にある瀬谷館、三森館、田子館に比べると一番、防衛を考慮した城館らしい館である。
しかし、館の来歴は不明とのことである。
C主郭部には土壇があり、ここが最高点。 D東端の山続きは標高が高くなり土塁と曲輪がある。


田子館(石川町中田字三森)
矢造の交差点から県道63号線を三森川上流方向に古殿方面に500mほど南下すると三森川が地形の関係で大きく南側に迂回する場所がある。
その川を南に迂回させる飛び出た山にあるのが田子館である。

この山、先端部近くに墓地があり、県道63号線から墓地まで登る道がある。
この墓地のさらに上、県道からの比高60mの山が館跡である。

そこに行く道は妙見神社の参道にもなっており、その参道を行けばよいのである。
しかし、その館跡といわれる場所、ただの若干傾斜を持つ平坦地@に過ぎないのである。
北側が一段低くなっているが、後世の改変のようにも見え、ここが館跡とは気がついたのは後のことである。


北側の一段低い平坦の部分A、藪がひどく広さが把握できない。
広さは70m四方ほどあるようである。
東側に横堀のような溝Bがあるが、これは遺構だろうか・・・
ここは居館があってもおかしくない広さであるが、暮らすには不便そうな場所である。

それにそれほど削平度がよい感じでもない。
住民の避難場所のようにも思えるのだが。
@主郭部はやや傾斜した平坦地。 A@の北側に2mほど低く平坦地が存在する。 B@の平坦地南側に堀跡のような溝があるが・・

しかし、その場所、館跡とは思えなかったので参道をどんどん先に進み、最後は比高130m、標高668mの妙見神社まで来てしまったのである。
しかし、この参道、急傾斜の斜面を一直線に登るようになっているのである。
普通は斜面をジグザグに登るのであるが、このきつさは尋常ではない。
比高以上の疲労を覚えた。
その妙見神社D、この境内の方がはるかに城っぽい感じであった。

C神社境内は細長い平坦地となっている。 D社殿の周囲は高さ2mの土塁が覆う。

山頂部はかなりの加工度で削平Cしており、幅20m、一辺50、60mのY字をしているのである。
しかも周囲は急坂、避難するのなら、この場所の方が、高い場所であり、要害性が高いのである。
もしかしたら、下の田子館が一次避難場所、ここが二次避難場所のような関係であったのかもしれない。



三森館(石川町中田字三森)
田子館前からさらに500m、県道63号を古殿方面に行った場所にある。
館前で北に道が分岐している。館の比高は40m程度。


↑ 北西側三森川下流から見た館跡

しかし、定番の半島状の山であるが、ここも過疎化が進んでおり藪である。しかも遺構もどこまでが遺構なのか不明確。
城館と知らないで来たら、ただの山である。
先端部に土塁@を持つ平坦地があり、背後に段々の腰曲輪を重ねる感じである。

腰曲輪Aは南斜面に造られるので日当たり良好で、北風が防げる。
居館を置けばよい環境である。

@先端部には高さ2mの土塁を持つ曲輪がある。 A北東側の山側には腰曲輪が展開する。

尾根付け根部には堀切が存在すると推定されるが、竹が密集し藪のため到達できず確認できていない。
石川氏一族、三森氏の居館という。
古殿、さらにいわき方面と中通りを結ぶ主要街道は御斉所街道であろうが、ここはその裏街道である。
その街道筋を抑える目的もあったのであろう。


羽貫田館(石川町羽貫田)
石川町の母畑から県道63号を東に2q行くと羽貫田地区になる。
この地区で県道は90度南に折れる。
その角(羽貫田四辻)の岡が館跡である。

館のある岡の比高は20mほど。
全体の丸っぽい山であり、防御性は良くない。
東に羽貫田霊園と幸左衛門桜がある。
館主体部があった岡の上は畑と津島神社に向かう道路になっており湮滅状態である。
かろうじて土壇らしいものがある。
堀らしい部分もあるが、道跡かもしれない。
南斜面が段々状になっているが、これが植林に伴うものかどうか分からない。
街道筋を監視する城であり、居館であったのであろう。

東側の墓地の先の岡が館跡 岡の頂上部は畑とほとんど自然地形の山。