曲木城(石川町曲木小和清水)

石川町の北部、玉川村との境付近、曲木地区にある。
JR水郡線「野木沢」駅から県道139号線を東の母畑温泉方面に約2km行くと、県道284号線と分岐する曲木の三叉路がある。
途中で国道118号線下をくぐり、「野木沢小学校」前を通過する。
城はこの南側の山である。

この山は東から西方向に張り出しており、東にある光国寺から西一帯が城址である。
東側以外は水田となっている低地に囲まれる。
当時は湿地帯であり、天然の水堀の役目を果たしていたのではないかと思われる。

光国寺の東に切通があるが、これは堀切の跡ではないかと思われる。
駐車場の南側にも堀と思われる部分が残っている。

光国寺付近の標高は350m、主郭部はここから西側にある。
なお、この光国寺は「和泉式部」ゆかりの寺といい、式部の祖父安田国光が父の菩提を弔うために建立したものという。

安田兵衛国康の一子・玉世姫としてこの地で生まれた彼女は13歳で上京するが、晩年、ここに帰り、没後、その徳をたたえて里人が建てたのがこの寺の「和泉式部堂」という。
しかし、実際はこの寺も南に堀があることなどから、曲木城の外郭として位置つけられていたのであろう。
ただし、光国寺付近にはこれ以上明確な遺構はなく、自然地形に近い。

寺の西側に位置する主郭部付近は、光国寺の地より徐々に高度が低くなり335m程度である。
その周囲の水田地帯の標高が300m程度であるため、比高は35m程度である。
光国寺を含めれば城域は東西500m、南北250m程度と思われる。


光国寺から西に向う道を下ると途中から堀底道Hとなり、北側に段々と扇状に曲輪が重なるような場所Dに出てくる。

ここは明確な城郭遺構であり、曲輪間の切岸Cが素晴らしい。
しかし、光国寺との間に堀切らしいものも、その痕跡もないのも不思議である。
曲輪が重なった場所の最上部に土橋があり、その南側に堀Eが延びる。
幅は10m、深さは6mほどある。


この西側に曲輪V Fがあるが、ここが本郭ではない。
この曲輪は40m四方ほどの大きさであるが、東側の堀切に面して土塁があり、北側に一段低く腰曲輪を持ち、その先が堀Gとなっている。
堀の北側にも曲輪があり、東側を竪堀が下る。一方、南側は人家に下る。

この曲輪の西側にも堀切Bがある。
深さは8mほどあり、堀底にも曲輪が段々ある。
堀底道になっていたようであり、北側の本郭直下には道脇の両側に大きな岩がある。
門があった場所と推定される。

@本郭には祠が建つ。藪が酷く調査は無理。 A本郭南下の腰曲輪は畑になっている。 B本郭、曲輪V間の堀底は道になっている。
C北側県道139号沿いから見える見事な切岸 D北側県道139号沿いから見た曲輪V方向。 E曲輪V東の堀
F曲輪V内部、東側に土塁がある。 G 曲輪V北下の堀 H東側光国寺から曲輪V方向に続く堀底道。
I西側から見た南西側にある櫓台 J南西側金子館から見た西の館地区 光国寺にある泉式部堂、城はこのお堂の西。

この堀の西側は一段高く、畑となっている腰曲輪Aがあり、その西側が曲輪T、本郭である。
本郭には東端に祠@がある。
本郭はかつては畑であったようであるが、現在は耕作が放棄され、藪化している。
かつての航空写真を確認すると50m×30mの楕円形をしていたようである。
突入を試みたが、葛の密集でどうにもならず。

また、本郭の北下にも曲輪が展開しているが、かつては畑だったその場所も藪状態であった。
本郭の北側に堀があり、曲輪U、二郭が存在することが目視では確認できるが、藪化しており近づけない状態であった。

一方、本郭部南側の腰曲輪は畑として利用されている場所もあるが、この方面も藪化しつつある。
岡西端の先端部下に城址の解説板があり、その後ろは櫓台状Iになっているが、ここから本郭方面へは藪化していていけない状況であった。

西側の裾野Jはずばり「館」という字名であり、おそらく城主の居館があった場所と推定される。
現在は宅地と畑であるが、形は旧状を良く伝えている。

やや東側の斜面部も宅地となっているが、日当たりの良い南斜面であり、家臣などの住居があったものと思われる。
基本的には段郭主体の居住用の城であり、防御性は低い。
そのため、周囲に金子館、新地館等の出城が築かれている。

石川氏21代尚光の弟、舎光がここに築城し、曲木氏を名乗り、石川氏の家臣として5代続いたが、小田原の役で石川氏の改易に伴いこの地を去り、城は廃城となった。
石川氏の本城、三芦城の北を守る城であったらしい。
(日本城郭体系を参照。航空写真は国土地理院の昭和50年度撮影の航空写真の一部を切り抜いたものを使用。)

金子館(石川町曲木)
曲木城の出城の1つであり、谷津を挟んで南西の岡先端部にある。
谷津部からの比高は30mほどである。
この付近の丘陵は浸食で複雑に開析されており、凹凸が激しい。


↑北東側曲木城前から谷津越しに見た西側館跡
@主郭部には東屋がある。 A主郭下の帯曲輪 B南西側の山続き部は堀切になっている。
この館は2か所が比定されており、南の禿山に向かう谷津の両側が城域とされているが、東側の尾根状の岡先端部Cは墓地になっている。
岡の付け根には堀切が存在していたのではないかと思われる。

西側の岡先端部の館跡とされる場所は、東屋があり、そこが主郭@と推定される。
25m×20mほどの大きさである。
その下5mに幅5mの帯曲輪Aが1周している。
南西側が山に続くがそこは堀切Bになっている。

館の南側は山が崩され農地にされたようであるが、すでに耕作も放棄され、荒地になっている。
この館は台地続きの南側から攻撃されると一たまりもない。
あくまで曲木城を西側の谷津沿いから攻撃する敵を牽制することが役目であろう。
C西側から見た東の館部分、上は墓地。
岡の向こう側の岡が曲木城


新地館(石川町曲木)
曲木城の出城であり、東に続く山が館跡である。曲木城、この方面以外は湿地帯であり、堀の役目を果していたと思われるが、この山続きの東方向が弱点であったと思われる。
その弱点を補完する出城である。
光国寺の東側の堀跡と推定される切通状の道路を介して東側の山であるが、曲木集会所から行くことができる。
・・で、山に延びる道を行った。
すると道は堀切となっていた。
そこには猟銃を持ったおっさんが・・・で、それ以上は断念。
山には平場は確認できるが不明確。
自然の山に近い感じであった。まあ、出城ならこんなもんだろう。

曲木集会所南側の山が館跡である。 山の東側の切通は堀切跡だろう。


殿内前館(石川町曲木)
曲木城の出城の1つであり、新地館の南側の谷津を隔てた岡にある。
民家があり、未確認。外観のみ掲載。明確な遺構はないという。