松森館(石川町松森)
石川町南部、山形小学校南西600mにある標高440mの館山にある。
山頂に浅間神社が建つ。
南に集落があるが、山の麓の台地状の場所にありおそらく居館の地であろう。
その集落の中の道を上がると、電波塔があり、その北側に館山登口の標識がある。
そこを比高で40m登って行けば城址なのだが、立派な山の割にその規模は「?」というようなものであった。

山頂が主郭なのだが、そのに行く途中、標高419m、426m地点に幅7mほどの曲輪がある。
山頂部の主郭は南北に長く、総延長60m、幅は5mほど。
内部は平坦ではなく、高低差が2mほどある。

最高箇所に浅間神社の石の祠がある。
この北下7mに曲輪があり、主郭から北に10m下ると鞍部のような場所があり、幅の広い尾根が二又に分かれて下る。
この山の北下は谷状の場所になっている。

段々があり、何らかの施設があったように思える。
ただし、北側の谷間であり、日当たりは良くなく、居館を置くのには良い場所ではない。
隠れ家としては良い場所かもしれない。

山が立派な割には質素な小規模な城であったが、主郭部に立つと、この城の位置付が良く分かる。
何しろ眺望が素晴らしいのである。

白河方面、矢吹方面、棚倉方面がバッチリ視界に収めることができるのである。

この山の西側、南側にこの山より高い山が存在しないのである。
当然役目は物見台である。
それだけの目的の城である。

石川氏家臣、向井氏の館であり、石川氏の本拠、三芦城の南の物見であり、南の板橋氏の三沢城とのつなぎの城であろう。

おそらくこの山から狼煙で三芦城に緊急を伝えたのであろう。

@浅間神社の建つ主郭は狭い! A北側から見上げた主郭部、途中に曲輪がある。 B山の北下の谷間にも何かあったような感じだが。

古館(石川町長久保)
古館という名前の館、良く聞くけど、やはり名前の通り、古い時期のものだろうか。
石川町にも古館という地名が残っている。でもこの館のある地の南側の地区が「古館」であり、この館のある場所と地名が一致していない。
「古館」という名前からして、この地の土豪、石川氏が最初に館を構えた場所かと思ったが・・。
結果として、ここはただの物見、狼煙台程度のものであった。
「古館」というより「小館」といった方が相応しいように思える。

場所は、石川町中心部から少し北にある警察署の前の山である。
しかし、場所が悪い!その山に赤いジャンパーを着た怪しげなオヤジが放浪していたら・・どうも、110蕃され、山狩りが始まりそうで・・・。
山には西の山麓にある長久保住宅団地の一番高い場所から入る。
尾根上に見える送電線の鉄塔をターゲットにすればよい。

一応、山に入る道はあるのだが、ここもほとんど整備もされていないようであり、途中でイバラが先を塞いでいる。
仕方なく、北側の日当たりの悪い斜面を登攀。
山の北斜面は日当たりが悪く、イバラは比較的少ないのである。

そんなこんなで尾根に出ると、そこにはちゃんと道があった。
いつもだいたいこんな調子である。

その山道を南に行き、館跡にあたるという山頂の三角点を探す。それは確かに存在した。
しかし、城郭遺構としてはささやかなものに過ぎない。

三角点のある山頂部は直径5mほどの平坦地@でしかなく、南側に埋もれた土橋と東西に下る埋もれた竪堀、その南に2段の曲輪がある程度である。
@山頂部、竪堀、土橋はあるのだが・・ A南西に延びる尾根の曲輪には祠が建つ。
しかし、どうやら道が通る鞍部も堀切跡のように思える。
南西に下る尾根に曲輪のような場所Aがあり、その先にちゃんとした堀切Bがあった。

だいたい山頂部はこの程度であり、尾根筋には他に堀切らしいものは確認できない。
しかし、西下を見ると、段々状の畑Cが重なっている。ここが館跡のような感じでもある。

結局、何だか分からない館であった。
戦国時代にも機能していたとすれば、石川氏の本拠三芦城の北の物見、狼煙台程度のものであろう。
B Aの曲輪の先に堀切がある。 C 西下には段々状の畑が重なる。曲輪跡か?

源兵衛山館(石川町新町)
石川氏の本城北東700m今出川の対岸の山にある。
この山は東の源平山から西に張り出した尾根末端が盛り上がった場所にある。
ここには秋葉神社があり、西下からコンクリートで固めた斜面に造られた階段で行ける。


↑ 麓から見た秋葉神社、麓からの比高は35mほど。
館の曲輪は左手の林部分。


標高は320m、麓からの比高は40mであるが、西側はほぼ絶壁状態。
神社への階段があるが、この階段恐ろしいことこの上ない。

神社付近には巨大な岩が沢山あるが、3.11でよく転落しなかったものである。
こんな岩が落ちたら家などこなごなである。

肝心の主郭部@は神社の上であるが、径20mほどであるが、内部はけっこう平坦である。
東側に1.5mの段差Aがあり、腰曲輪になっている。
腰曲輪は2段あり、その東が源平山との間の鞍部に下る。
鞍部までは曲輪部から比高7m程度である。
この程度のささやかな規模のものであり、石川氏本拠、三芦城の東を守る出城である。

@主郭部は平坦であるが、藪状態 A東側の鞍部側には腰曲輪が2つある。 秋葉神社から見た街部、ほぼ絶壁で恐ろしい。


渡里沢塁(石川町渡里沢)
石川氏の本拠、三芦城の西の山にある。
石川町総合運動公園(クリスタルパーク)の東の山である。
運動公園の駐車場の北東に見える岡である。


運動公園駐車場から見た城址の山

遺構は低い土塁がコ字形に存在し、腰曲輪がある程度

その山の遺構であるが、ささやかなものである。
土塁はあるが、80p程度の小さいものであり、主郭部も10〜15m四方程度。
周囲に腰曲輪と浅い堀(溝?)がある程度、その周囲はただの山である。

一応、城郭なのであるが、これでは満足な防衛もできない。
物見、狼煙台程度のものである。三芦城の西の監視施設であろう。

飯豊山砦(石川町猫啼)
石川氏の本拠の石川の谷間の南の玄関口にある。
場所は石川養護学校の南の山にあたり、その西の養護施設から山に延びる道があり、その途中から登れるが当然、道などない。

この山、南北に細長く、最高箇所の標高は379m、比高は100mほどである。

遺構は最高箇所に2段の曲輪があるのみであり、しかもそれぞれの曲輪の大きさが10m四方程度。
これでは遺構とは思わず、通り過ぎてしまうかもしれない。
そのレベルのものである。

北側10m下に直径20mほどの平場、南側は鞍部を介して長さ40m、幅15m程度の平場はあるが、ほとんど自然地形である。
この砦はほとんど防御機能はない。

物見程度のものである。
しかし、この山からの見通しは良くない。

そんな山に物見の砦があるということは、山の東側または西側を古道が通っていたためであろうか。
それとも社川沿いの侵攻を監視する砦であろうか。
それにしては社川から離れすぎている。
この山から三芦城までは直線で1.5kmほど、異常は鐘か太鼓で知らせたのであろうか。

ここへは、わざわざ行くほどの価値は感じない。
・・・疲れることと時間のロスで損である。
止めません。行きたい人はご自由に!

北東側の麓から見た砦跡の山 これが山頂部であるが、段々にはなっているが・・