仙石館(古殿町仙石字松ヶ平)
石川町中心部から県道14号線(御斎所街道)を古殿方面に約6q、県道西側、古殿町境の古殿町側の谷西側、須々受宮(すずめのみや)神社Hの南側の山が館跡であり、別名「雀が城」ともいう。
城は東に開いた「コ」字形をしている。

開口部が谷のようになっており、その出口部が居館跡@Aである。
コの字形の尾根の北側の尾根に主要部が展開する。
東麓から南麓部の地名が館跡田(たてあとだ)という。

現在は耕地整理されて水田や畑となり遺構が失なわれたが、畑は段々状になっており、ここが仙石氏の居館跡というが、その雰囲気を伝える。


↑ 東側県道14号線(御斎所街道)から見た主郭部の尾根。
右に須々受宮神社の鳥居が見える。左が居館部である。



城には神社の南側の山斜面を直登しても良いし、先端部から登っても、南側から登っても良い。
先端部から一気に15mほど登ると一番下の幅5mほどの帯曲輪となる。

そこは墓地になっており、さらに高さ4mおきに2つの曲輪があり、さらに上に長さ30mほどの曲輪がある。
その曲輪には南に下る虎口Bがあり、岩が門のようになっている。
そこを下ると3枚ほどの腰曲輪があり、南下の館跡の地@に至る。

ここが登城路であったと思われる。
尾根上の曲輪を西に行くと鞍部となり、北に竪堀が下る。
ここから西に高さ4mおきに4段ほどの曲輪Cが展開し、上端に20m四方ほどの曲輪があり、その西に堀切Dがある。
その西に高さ6mほどの急な切岸があり、そこを登ると主郭部が展開する。

2段の曲輪を経ると本郭である。本郭はL型をしており1辺40mほど。幅は30mほど。
その北西端に高さ4m、径8mほどの櫓台Fのようなものがある。
この櫓台部分の標高は420m、麓からの比高は100mである。

この櫓台の北西が深さ10mほどの堀切Eがある。
この堀切は自然の谷津を掘りこんだものであろう。

本郭は南側に続き、長さがそれぞれ20mの2枚の曲輪がある。
さらに西側の斜面には帯曲輪が2枚確認できる。
南側に続く尾根は東に曲がり、その尾根沿いにも小曲輪があり、堀切Gを持つ曲輪もある。
@居館跡、右の山が城址 A 居館跡の段差 B 先端近くの曲輪の虎口
C Bを尾根沿いに西に行くと鞍部がある。
その先に曲輪が重なる。
D 主郭直下の堀切 E 本郭(左)北東側の深さ10mの堀切
F本郭部、北西端に櫓台がある。 G 南側の尾根の堀切 H須々受宮神社の鳥居。左の山が城址。
右の山にも遺構が。

なお、神社北側の尾根にも城郭遺構があり、館の外側を覆う外郭部と考えられる。
腰曲輪が確認でき、ピークのような場所周囲には堀切が確認できる。
さらに上、標高450m地点には40m×15mほどの平坦地がある。
ここは物見台であろうか。
ここから南東に下ると深さ10mの大堀切となる。

I 須々受宮神社北側の尾根の曲輪 J Iの先のピーク背後の堀切。分からん? K最高地点の平坦地は物見か?

この城は、石川氏一族、千石(仙石)氏の本拠という。

千石(仙石)氏の名が出るのは南北朝になってからで、『白河古事考所収文書二』観応3年(1352)の吉良貞家吹挙状案によると「干石大和権守時光」の名があるが、鎌倉期にはここに土着したのであろう。
南北朝時代、当時石川氏の嫡流は駿河権守光義で、南朝方につき、庶流である蒲田兼光・板橋高光らは北朝側に組して互に攻めあっていた。
板橋高光の兄である千石六郎時光は宗家の光義と共に北畠顕家に組し、一族兄弟が南北両朝に分れて争っていた。

『陸奥国石川風土記』に「一、仙石雀か城仙石光俊居永禄年中落城此所雀縄手竹貫石川の大境なり此村之内和久と云屋敷高七十石化被免として附送りし所迚今に石川に属したるなり」との記録がある。
「角田浅川文書」に「仙石雀ケ城仙石光俊居、永禄年中落城」とあるが、その後、仙石氏の消息を示す資料がない。

城は県道14号線(御斎所街道)が通じる街道筋を抑える拠点城郭である。
周囲の羽黒館、太鼓館、矢沢砦はその支城であろう。