田口城(古殿町田口字青柳)
駒が城のある岡から西に約1q、古殿小学校南側の標高350m、比高40m山が城址である。
鮫川に面し、南側の山から北に延びた尾根先端を利用している。


↑ 昭和50年の航空写真。当時は城址は畑だったようだ。

城に行くには、古殿小学校から国道349号を横断し、鮫川にかかる橋を渡り、城のある山の東側を通る道を行き、城のある山の尾根が南側の山地に続く鞍部に行く。

↑ 西から見た城址、山の麓を鮫川が流れ、天然の水堀になっている。

ここまでは道は狭いが車で行ける。
後は、尾根に沿って先端部に向かうだけである。

この山、かつての航空写真を見れば畑に利用されていたようであるが、現在は耕作も放棄され、藪化しつつある。
車で行ける鞍部@は堀切跡のようであるが、道路を通すため破壊されているかもしれない。
その北側には80mくらいの長さの尾根が続くが、尾根上は自然地形であり、曲輪ではないと思う。
この尾根の北に通路兼用の巨大な堀切Aがある。

@農道が通る尾根の付け根は堀切か? A 本郭(右)直下の大堀切 B 本郭北下の曲輪、東側の土塁

西下に民家があるが、居館跡だろうか。
主郭が堀切の北側に聳えるが切岸の高さは8mほど、急勾配で迫ってくる。
東西に道があるが、帯曲輪である。
西側の帯曲輪を行くと、北下に数段の曲輪Eが展開する。
かつては畑であったようであるが、今は杉林である。

主郭Dは長さ100mほどあるが、勾玉状に湾曲した楕円形である。
内部は藪状態である。幅は30mほどか。
北端部が一段盛り上がっており、北端部に石碑があるのだが、文字も一切ない。
風化した感じでも削った感じもない。
ただの石柱なのである。
いったいあれは何だったんだろう。

C 本郭北下の曲輪、正面に本郭の切岸が聳える。 D本郭内部、耕作が放棄され、ほとんど藪状態。 E本郭西下の腰曲輪、ここも畑だったのだろう。

東側、北側8m下に腰曲輪Cがある。
北側の曲輪は40m四方ほどの広さがあり、東側には高さ1mほどの土塁Bがあるが、石で土留されている。
さらに北下に2枚の腰曲輪があり、民家となるが、民家の地や畑も曲輪なのであろう。
竹貫城の西を守る城であり、重臣の居館であったのではないかと思う。


駒ヶ城(古殿町竹貫)
岩城氏重臣竹貫氏の本拠が竹貫城であるが、城は二つある。
本郭に稲荷神社が建つ駒ヶ城と、背後の山の城である。
こちらは牛ヶ城ともいわれているが、TV塔のある城とその北側の城、2つがあるが、本来、この2つの城は一体のものであり、その総称が牛が城というべきであろう。
また、この牛が城と亀が城を総称して竹貫城という。竹貫城砦群というべきか?
このうち、牛ヶ城は戦国時代たけなわ天正四年に駒ヶ城の要害を懸念して築城したものという。
しかし、それ以前から詰めの城として存在していたのであろう。

竹貫城の廃城は、戦国末期竹貫氏が富岡に転封された天正18年といわれる。

今回訪れたのは駒ヶ城である。
この城は古殿市街地の北、商工会館裏の稲荷神社のある独立した直径150m、比高25mほどの山にある。

市街地を御斉所街道(国道349号)が通る。
この道はいわゆる塩の道であり、今は山間の国道に過ぎないが、岩城方面の塩を石川、白河、須賀川方面に送る重要な街道であった。
小さな山ではあるが結構勾配はきつく、山全体が城である。

↓は西側から見た駒が城である。段々に重なった曲輪が確認できる。

商工会館から神社参道の石段を登ればすぐに本郭である。
本郭は55m×35mの大きさであり内部は平坦、神社社殿が建つ。
周囲が盛り上がっており本来は土塁が1周していたようである。
北側の裏は一気に20mほどの絶壁状態である。
南側から北側にかけて4m下に幅15mほどの帯曲輪がまわる。

この曲輪で蛇が何匹か秋の陽を浴びて日なたぼっこをしていた。
余り気持ちよさそうなのでちょっかいを出さず、思わず写真を撮ってしまった。おかげで牛ヶ城まで行く気が失せた。

2段目の帯曲輪の西下8mにさらに1段曲輪がある。
小さい城ではあるが館とすれば立派なものであろう。
しかし、この程度であれば何が起こるか分からない戦国時代には心もとない。
背後の山に詰めの城として牛ヶ城を築いたのも納得できる。

古殿の地は平安時代、清和源氏石川氏が前九年の役の功労で石川を与えられた石川氏の領地となり、その一族が居住した。
一族はそれぞれこの谷の支配地ごとに竹貫、蒲田、仙石氏を名乗り拠点城郭を築いた。

このうち、竹貫氏がもっとも有名であるが、元々は福田氏を称していたといい、竹貫郷に住んだので竹貫を称し、さらに石川氏18代義光の弟光宗が入って竹貫家を嗣いだで石川一族に連なったらしい。
すなわち元々はどの流れを組む氏族かは分からないようである。
鎌倉時代は石川氏に従い北条氏とも関係があったという。

この戦国時代、石川氏は田村氏、白河結城氏等に挟まれて振るわず、古殿地方の石川一族の土豪は石川氏の支配を離れ鮫川の赤坂氏、蒲田氏が白河結城氏に属し、竹貫氏は岩城氏に属するようになる。

これは石川領が周辺の大名に侵食されたことを示している。
そして各一族は戦国時代の荒波にもまれる。

戦国末期、須賀川城主二階堂盛義が没して、伊達政宗が須賀川城領を狙い合戦となる。
この戦いで当主竹貫三河守重光は政宗に誘われるが断り、竹貫重光の子 尚忠(家光)が須賀川に出陣して戦死する。
この時は須賀川二階堂の遺臣や佐竹、竹貫の兵士が牛ケ城に籠ったこという。

 天正18年(1590)小田原の役が起こり、石川氏や白川結城氏は改易される。
竹貫氏は岩城常隆とともに小田原に参陣し領土は安堵されるが、関ケ原の戦いで岩城氏が佐竹氏と行動をともにしたため改易され、その余波を受け、所領を没収されてしまう。
しかし、没収されたのではないとの説もある。

那須七家千本氏の「千本氏系譜」では、千本義定が慶長6年(1601)6月20日、奥州岩城富岡の竹貫三河守追討に岩城におもむき、その功によって1,500石を加恩されたことが見える。
佐竹氏が秋田に移され、岩城氏が改易された後、竹貫氏が反乱を起こしたものであろう。
しかし、竹貫重光は殺されたのではなく、後に故郷竹貫に帰りこの地で没したという。
この地に流鏑馬で有名な八幡神社があるが、竹貫氏は代々神主を務め、現在も神主は竹貫氏である。

山上広覚寺の竹貫十二代の墓地に「祥山吉公大禅定門 八月二十九日」と刻した五輪塔が重光の墓所といわれる。
竹貫氏没落後、古殿地方の新領主は岩城大和守隆宗であったという。
彼は主家岩城氏没落後、上洛して家康にあい成瀬隼人正政成のとりなしで竹貫3000石を新たに賜り、しばらく伏見城在番の上、慶長9年改めて竹貫へ入部したという。
隆宗が慶長15年に死去すると、領地は没収され相馬家の家臣となった.。

なお、竹貫氏からは大竹氏が出ており、家臣には矢吹、矢内、小野、岡部、佐川、窪木、水野氏がいる。
このうち、水野氏は一族であり、子孫は出羽国酒田(山形県)酒井家の家臣となり、岡部氏は、土着し、子孫は国会議員まで輩出している。
そういえは古殿町の町長も岡部さんであり、竹貫氏の血はこの地に今も流れている訳である。
岩城志は、赤水龍子山記が「岡部氏記」を引用して書いたものという。
矢内氏はこの地に土着し、その子孫が残る。箭内とも書く。(古殿町史参照)

本郭に建つ稲荷神社。内部は平坦である。 本郭北側は絶壁状になっている。
下まで20m位ある。
神社参道の石段から見た本郭下の曲輪群。 本郭下の曲輪から見下ろした曲輪群。
西端にある曲輪。公園になっている。 本郭南の曲輪から見上げた本郭。 西下を覆う曲輪。 本郭下の曲輪で日なたぼっこをするシマヘビ。
いいかげんに冬眠しろ!


竹貫城(古殿町 竹貫字竹貫)
駒が城の北東の標高410m、比高100mの山が竹貫城である。
新館のある館山の北西側に位置する。

↑は亀が城の西側から見た城址のある山。なお、右端に見える民家上方に新館がある。

ここも牛が城ともいわれるが、館山山頂の城、新館と混同されているようである。
城へは駒が城から登る道などいくつかあるが、北側からTV塔のある新館まで登る道路から行く方法もある。
この道を少し山に入った西側に本郭にある神社まで延びる参道があり、その道を行けば本郭まで到達できる。
この城の東部にはTV塔がある新館に通じる車道が通るが、その道路は竹貫城の東部を通り、腰曲輪@と堀切Aが確認できる。
そのため、道路沿いに車を止めて突入。
しかし、城内は藪だらけで歩くのも難渋。
曲輪は目では確認できるのであるが、写真を撮れば、ただの藪しか写っていない。
東の部分の主郭に相当する曲輪Bは40m×30mほどの広さであるが、曖昧な感じである。
標高は西側の本郭とほぼ同じ410m。

右は昭和50年の航空写真である。
新館はTV塔建設工事で加工されている。北から道路が延びるがTV塔まで行く道路である。この道路沿いに遺構が展開する。

ここから西に少しずつ50mほど下っていくと堀切Cとなるが、その間に曲輪のような場所はない。
そこが、本郭の東を分断する大堀切である。

本郭の櫓台上までは高さで20mほどあり、途中に腰曲輪がある。
この腰曲輪は本郭にある神社の参道にもなっている。
本郭にはこの帯曲輪を南側に回り込んで入ったようであり、虎口が確認できる。
本郭EはL型をしており、東西100m、南北50mほど。
東側が高さ5mほどの土壇になっている。
おそらくここには井楼櫓が建っていたのではないだろうか。
その北下に神社の小さな社Dがある。

@TV塔に行く道の脇に確認できる腰曲輪 A TV塔に行く道は堀切を横切る。 B東側の主郭内は酷い藪である。
C 本郭東下の大堀切 D 本郭北側の腰曲輪に建つ祠 E 本郭内部はかなり広い。

曲輪は北に延びる尾根や南に延びる尾根にも段々状に展開しているが、冬場の午後、すでに日没が迫り、ここで撤退を余儀なくされた。
戦国末期時代、駒が城では防衛上、心もとないので新たに築城したのがこの城という。
しかし、館山にある新館かこの城は戦国末期以前に駒が城の詰めの城として存在していたと思われ、戦国末期にさらに拡張整備されたのであろう。


新館(古殿町 山上字新宿)
駒が城の東、標高430mの館山山頂にはテレビ塔がある。
ここが城址であり、東館とも牛ヶ城ともいう。
山の比高は120mほどである。
なお、竹貫城も牛が城というのでかなり混同がある。
新館は牛が城東館また柏城ともいうべきであろうか。

城址までは車で来れるのはありがたい。この道はTV塔の保守用の道路であるが、林道並みに細く、対向車が来ると大変である。
その終点が新館であるが、この道路、竹貫城の東部分を通っているのである。

『棚倉沿革私考』によると天正4年(1576)の築城であるという。
同書の「竹貫古城」の説明に「牛ヶ城と云は、初築城の時地堅めに城山の麓四方に生牛を竹の簀(すのこ)詰にして埋めたるより此名ありと云」と記述されている。
遺構はテレビ塔建設でほとんど破壊されてしまっている。
北西にある竹貫城の出城であろう。


古殿館(古殿町 山上字五輪平)
国道349号線を古殿町中心部東の横川地区からいわき市の三和町上三坂方面に1.5qほど北上すると古殿八幡宮があり、少し北に広覚寺がある。
この両者の間にある比高30mほどの岡が館跡である。↓は西側から見た館跡である。林と畑の間に大平川が流れる。

もちろん、岡の西下を流れる大平川は天然の水堀である。

広覚寺に面する北側に土塁が存在する。曲輪は畑になっている。
さらに岡下に向かって平坦地が広がっているが藪状態である。
東側は山地であるが、山との間に堀等は確認できない。

土塁(右)上から見た館跡推定値 左の土塁を下から見る。

なお、広覚寺は妙心寺派の臨済宗の寺院。
寺伝によると、開創由緒は後光厳天皇文和年間、竹貫三河守広光公建立、相州円覚寺大覚寺禅師の法嗣無隠元晦の法孫、雲山智越禅師(円覚寺塔頭禪昌庵開基延文三年寂)の開山であるという。
ここの地名は五輪平といい、この寺は竹貫氏の菩提寺でもある。
境内には竹貫氏累代の五輪塔などがある。
この石造五輪塔は、鎌倉末期から室町初期頃のものである。竹貫氏の初期の居館か?