相馬氏の城(福島県南相馬市)

奥州で伊達氏と真っ向勝負し、明治維新まで生き残ったしぶとい大名が相馬氏である。
江戸時代の本拠は相馬市の中村城であるが、中世の相馬市の本拠はより南の旧小高町周辺である。
この地域には、中世相馬氏に係る「別所館」、「小高城」、「村上城」、「牛越城」がある。
ここではこれらの城郭について紹介する。
この4つの城館、共通点がある。いづれも独立丘や独立した山を城にし、丘の周囲には水堀を巡らすパターンである。
特に「別所館」、「小高城」、「村上城」の3城館は規模が違うだけの相似形である。
これが相馬氏の城の特徴なのだろうか?

さて、はじめに

相馬氏とは
相馬氏は鎌倉時代末期に相馬地方に根を下ろし、その地で戦国大名、近世大名として明治時代まで続いた珍しい武家一族である。
このような一族は、全国でも島津氏、南部氏や那須一族の大田原氏、大関氏等、極わずかしかない。
相馬氏は平将門の子孫であり、将門の子将国の子孫が興した家と伝えられる。
しかし、これは伝承にすぎないらしく、どうも千葉氏の出らしい。
本来、相馬氏の本拠は下総であり、その地の相馬氏本家も戦国時代末まで存続し、最後は小田原の役で北条氏に付いたため滅亡するが、この奥州相馬氏は下総相馬氏一族から分かれた家である。
相馬地方に移った経緯は、奥州に根を張った多くの豪族同様、源頼朝の奥州征伐の功によるものである。
この功で陸奥国行方郡を与えられ、相馬胤村が嫡子胤氏に下総国相馬郡を、師胤に陸奥国行方郡を分け与え、師胤の子重胤が行方郡に居住したのが奥州相馬氏の初代である。
この時始めて居館を置いた場所が、現在の相馬太田神社の地、「別所館」である。
ほどなく、相馬氏は小高城を築き、本拠を移す。鎌倉幕府が滅亡し建武の新政では奥州相馬氏は新政府に協力するが、南北朝の騒乱が始まると、始めは南朝方に付くが、すぐに北朝、足利尊氏側となる。
このため、奥州南朝側である北畠氏、伊達氏と激突し、一族は滅亡寸前という壊滅的被害を蒙り、建武4年(1337)には本拠の小高城に相馬光胤ら一族が集結し、南朝勢を迎え撃つが落城、一族のほとんどが戦死し、相馬胤頼のみが生き残る。
その後、奥州南朝勢の勢力が衰えると、北朝に付いた相馬氏は復権し、領土と地位を回復する。
戦国時代を迎えると相馬氏も、周囲の豪族と抗争を繰り返すようになる。
この時期においても相馬氏の領土は数万石程度であったと推定され、戦国期最大でも10万石程度のものであったと思われる。
相馬氏の最初の抗争相手は南に隣接する標葉氏であり、長期の抗争の末、明応元年(1492)末、標葉氏を滅ぼし標葉郡を領土に加える。
これにより相馬盛胤は南奥羽の有力大名の1人となり、文亀年間(1501〜03)に上洛した盛胤は従四位下を与えられる。
当然この官位を得るには金山を支配していたものと思われる。
大永元年(1521)の盛胤が死去後には顕胤が跡を継ぐ。
ここで伊達稙宗の子晴宗の室に岩城重隆の娘を仲介することを巡って岩城氏と抗争となる。
これは岩城重隆が約束を違え、顕胤の顔をつぶしたことが原因である。
私怨が原因のようであるが、実はこれは口実に過ぎなく真相は違うところにあるのであろう。この程度のことで戦いが起こる訳がない。
結果として顕胤は岩城氏を攻撃し、岩城領のうちの富岡、木戸を奪いとる。この講和条件として当初の予定どおり、伊達氏と岩城氏の縁組を実現させた。
天文11年(1542)、「伊達氏天文の乱」が勃発。天文の乱の最中、顕胤は黒木城主の黒木大膳が背いたのをきっかけに滅ぼし、宇多郡を手に入れる。
天文の乱は、天文17年に終熄し、翌18年に顕胤は死去して嫡子盛胤が家督を相続する。
このどさくさにまぎれて勢力を拡大した。
この頃、南奥州は葦名、白河結城、二本松の畠山、三春の田村、岩城と豪族が乱立し、乱を切り抜けた伊達氏が復興の勢いを示し、さらに佐竹氏の奥州進出が始まった。
相馬氏と伊達氏は境界を接しているため、抗争は絶えず、伊具郡、宇多郡の領有を巡って対立、永禄7年(1564)、盛胤は座流川で伊達氏を破り、永禄9年には金津・小佐井・金山城、続いて元亀元年(1570)には丸森城も攻略する。
このころが相馬氏の領土が最大になった時期である。
盛胤は天正6年(1578)家督を義胤に譲り、小高城に義胤が、盛胤は中村城に入った。
伊達氏との抗争は天正年間になると激化し、金山・丸森方面での攻防が続いた。
天正13年、伊達輝宗が殺され政宗が跡を継ぐと相馬義胤は一時的に加勢する。
しかし、田村清顕が死去し、跡継ぎを巡って田村氏内が伊達派と相馬派とに分裂して抗争が起きると、相馬氏と伊達氏とはふたたび戦闘状態となり、政宗に攻められ駒ケ峯城、新地城を失う。
政宗の勢いは留まることを知らず、摺上原で葦名氏を破ると相馬氏との勢いの差は歴然の状態となる。
それでも相馬氏は最後まで伊達氏と戦い続け、ついには滅亡か降伏かの瀬戸際まで追い詰められる。
しかし、この危機は小田原の役で回避される。相馬義胤は小田原に参陣することにより所領である宇多・行方・標葉三郡48700石を安堵される。
この時、下総の相馬本家の方は北条氏に味方したため改易されてしまう。
危機を脱した相馬氏にとっては、小城の小高城では領地支配に心もとなく、義胤はより堅固な場所に本拠を移そうとする。
まず、小高城の東、太平洋に面した独立丘に目をつけ、慶長元年(1596)村上城を築くが、火災で資材を焼失し、不吉として移転を断念。
翌慶長2年、牛越城を拡張整備し、本拠を移すが、慶長6年(1601)義胤の弟である田中城主・相馬郷胤が死去、利胤夫人である江戸崎御前が17歳で死去、続いて、義胤の父盛胤が死去し、凶城として忌まれ、翌8年再び小高城へ居城を移す。
この間、豊臣秀吉が死に、関ヶ原の合戦が起こると、相馬氏は伊達氏への対抗上、西軍である上杉氏、佐竹氏に与する。
この結果、所領を没収され改易されてしまう。しかし、その後、伊達政宗のとりなしもあって、慶長9年、義胤の子利胤の代に大名復帰に成功する。
宿敵であった伊達政宗のとりなしというのも奇妙な話であるが、秀吉の死後、領地に帰る政宗は上杉領が通れなく、相馬領を通るが相馬義胤は礼を以って政宗を無事、領国まで通したという。
この時は政宗に何かあった場合に備え、伊達領との境には伊達の大軍が集結していたという。
この判断には色々な憶測があるが、東軍が勝った場合に伊達氏に恩を売っておくことの利点を計算していたということもあったのであろう。
また、相馬氏改易後の復帰へのとりなしについても政宗には恩義というだけではなく、何らかの打算があったのであろう。
大名復帰後、中村城が慶長16年(1625)、利胤に新築(改築?)され、以後、ここが本拠となった。
そして6万石を継承し明治維新まで続く。
鎌倉期から明治維新まで同じ地に君臨した大名と言えば、この相馬氏と島津氏、分家まで枠を広げて、大田原氏、大関氏程度ではないだろうか?
まさに奇跡に近いことである。
相馬氏がこの地で粘り強く戦い続けられた要因として、農民を含めた国民皆兵制があったと言われる。
この点は島津氏、長曽我部氏や真田氏と同じである。
相馬野馬追いは神事に重ねた軍事演習の名残という。

別所館(南相馬市太田)
元亨3年(1323)、相馬重胤が下総相馬から移って、居館としたのが別所館という。
水田地帯の中にある直径50m、比高10mほどの独立丘である。
別所館にはそれ以前、鎌倉幕府の御家人である三浦義澄の末裔といわれる三浦左近国清という人物が住んでおり、相馬重胤に館を明け渡したといわれる。おそらく周囲は湿地帯であったであろう。
しかし、小さな館であり、手狭のため、3年後の嘉暦元年(1326)には堀内館に移る。
後には、相馬氏の氏神として下総から持ってきた太田神社が祀られ現在に至る。
相馬氏発祥の地であり、相馬野馬追いは、この神社から出陣する。
社殿のある場所は削平されているが、その西側は平坦ではなく、西の端に物見台のような土壇がある。これは何なのだろう。

神社入り口に建つ相馬太田神社の碑 参道から見た本殿、8m位高い場所
にある。
本殿のある丘の西側に物見台のよう
なものが・・。

小高城(南相馬市小高)

室町時代初期から江戸時代初期まで、ほぼ、一貫して相馬氏の本拠であった城である。
紅梅山浮舟城ともいう。
相馬氏の築城ではなく、相馬氏以前にこの地の地頭、行方氏が居たともいう。
相馬重胤は鎌倉末期、元享3年(1323)4月、別所館に入るが手狭であったため、嘉暦元年(1326)、別所館の南5kmに位置する堀内館(小高城の西側の低地部にあった)に移る。
小高城は、建武3年(1336)北朝に与した相馬重胤が南朝方と戦うための拠点として築いたとされる。
建武3年3月、広橋経泰が小高城を攻めるが、落城しなかったが、5月、北畠顕家の攻撃で落城する。
翌年、相馬胤頼が奪還する。これが、小高城で起こった唯一の合戦であり、以後、慶長16年(1597)、相馬利胤が中村城に移るまで、小高城が戦闘の舞台になったことはない。
想像以上に小さい。小高神社がある丘部分のみが主郭部である。
小高市街北、小高川の北岸の比高20mの丘にある。
この丘、独立丘のようになっているが、そうではなく北東から延びる台地を強引に巨大な堀切で分断したものという。
本郭は東西約160m×南北約130mの広さを持ち、直角三角形をしている。
車道が大手口らしい。

途中の平場が二郭というが、小さすぎる。
南から登る参道の石段は本来はなかったものらしい。
南側に腰曲輪があり、石段を登った東側に櫓台のような土塁がある。南側縁部には土塁の痕跡がある。
神社社殿の裏に回ると、本物の城郭遺構が残っている。
土塁がグルッと巡り、社殿西側に搦手口が完存していて思わずうれしくなる。
丘の下には南曲輪があったといい、馬場もあったらしい。その周囲は水堀であったという。
別所館といい、村上城といい、独立丘(小高城は人工的な独立丘であるが)を城にすることが共通している。これが相馬氏の城の定番なのだろうか?
しかし、この丘のみでは城の防衛には不十分である。
このため、北側の丘には西館という出城が、北東側の丘には東館という出城があった。
相馬氏の本拠としては小ぶりで、居館、政庁としての機能を持った城と思われる。
防衛上、弱いことは承知の上であったと思われるが、本拠を移転させる余裕は戦闘に明け暮れる相馬氏にはなかったのであろうか。
この規模では政庁としても手狭である。
小田原の役が終了し、一時の平和が訪れると一気に相馬氏は移転を模索し始める。
村上城を築城し、断念。牛越城に移るが6年で廃棄。結局、また、この小高城に舞い戻るというドタバタである。
なお、小高神社はやはり、馬の絵が奉納されている。今でも馬追いはここから出陣しているそうである。

本郭の地に建つ小高神社。 南からの参道脇の土塁は櫓台か? 南の参道から見た小高川。この参道は後付けという。 本郭内部は結構広い。相馬氏の居館がたったのであろう。
北側には搦手の虎口が明瞭に残る。 社殿背後には土塁が残る。 西側から見た城址。水田は水堀の跡という。 北側の尾根末端には出城の西館があったという。

村上城(南相馬市小高村上)

小高城の東4kmの村上海岸近くにある相馬氏の未完の城である。
小高市街から東南の太平洋方向を見ると、やたら目立つ独立丘がある。
この丘の比高27mあり、丘の東西は270m、南北が158mある。
上部は真平なテーブル状をしており、西側におたまじゃくしの尾のように尾根が突き出す変わった形をしている。
この城の相馬氏に係わる歴史は前述したとおりであるが、それ以前の伝説がある。
この村上には、建武新政の頃、北畠顕家と共に奥州に下向した後の後村上天皇(義良親王)の座所があったというものである。
結構、名が知られた城であるが、付近の道路には城への案内板も何もない。
丘の直下でも丘上への登り道の案内もない。
間違いなくここが村上城であることを確認したのは、貴布根神社前の解説板によってである。
この丘には北側のやや西よりのゲートボール場脇から登る道、貴布根神社参道、海側から登る道がある。
海側から登る道沿いには平坦地があり、これは、曲輪かもしれない。
丘上に至る手前は虎口状になっている。
本郭跡と伝えられる貴布根神社の地には土塁らしいものも見られるがはっきりしない。
神社の南側は一面の畑である。
150m四方はあるだろうか。
遺構は一切ない。神社の解説板に「当時の築城様式を後世に伝える重要な史跡である。」と書いてあるのだが、その肝心の城郭遺構が見当たらない。城郭遺構が見られたのは、西に突き出た尾根部分である。付け根部に幅10mほどの堀切があり、竪堀が北側に下っている。
その西側には30m四方の曲輪があり、1m下にも曲輪がある。西側に行くと幅が広がり、若干、高い部分がある。これだけである。
西側の張り出し部付け根にある堀切。 本郭の地という貴布根神社。背後に
土塁らしいものがあるだけ。
丘の上は完全な畑。平坦であり、何もない。 丘の東側は太平洋。断崖になっており、侵食されているという。
ゲートボール場に下る道沿いにも曲輪跡らしい平坦地がある。
おそらく、ゲートボール場も曲輪跡であろう。
丘の東側は太平洋に面しており、崖になっている。海岸の浸食により、丘の一部は海に崩れ落ちてしまったという。
丘の周囲は東側が太平洋、残る3面は湿地帯であったらしい。
現在は水田地帯であるが、丘の南側には沼があり、当時の姿を想像させる。
この城が完成していたら海に浮かぶ空母のような感じだったのだろう。とても攻められるものではない。
なお、丘上の平坦地の畑表土を詳細に観察してみたが、土器片等の生活遺物は全く見られなかった。この丘には居住の形跡は伺えず、義良親王の座所伝説も所詮、伝説に過ぎないのではないだろうか。
本郭跡の丘上から見た北側の村上
海岸。
丘の南側には沼があるが、かつては
丘の周囲は沼が取り巻いていたので
あろう。

牛越城(南相馬市原ノ町牛越)

相馬氏が6年間にわたり本拠としていた城である。
しかし、それ以前、牛越上総介定綱の居城であり、牛越氏は文安2年(1445)相馬高胤によって滅ぼされ、城代が置かれていたという。
これに改修を施して慶長2年(1597)相馬代義胤によって居城とした。
旧原ノ町市街の西、東に突き出た標高73mの山の先端部の盛り上がった部分に築かれる。山の比高は60m程度である。南に水無川が流れ、北には洞川が流れ、両河川は東で新田川に合流する。また、この山、東西2qの独立した山であり、城はその東半分を利用している。
城域は東西350m、南北300mほどである。
中央部に本郭を置き、大堀切を隔てて東側に三郭に相当する東館を置き、本郭の西側には二郭に相当する西館を置く。
主郭部の3つの郭は東西に連郭式に並ぶが、その周囲の斜面には帯曲輪があるので輪郭式とも言える。
南側の山ろくに南館があった。ここが本来の居館であったのではないかと思われる。
本郭までは西側から車で行けるが、これがとんでもない道であり、行くならオフロード用四輪駆動車が良いであろう。
ところがせっかく行っても、本郭は配水場になっており、形を失っている上に入れない。もともとは東西90m、南北60mほどあったらしい。
西館は東西70m、南北30mの細長い曲輪であるが、中は藪である。
その西側に「千人沢」という巨大な堀切がある。
幅は30mほど、主郭側には土塁があり、竪土塁、竪堀となって斜面を下る。
この堀切の少し西が鞍部になる。この場所の標高は50m位であり、本郭より25mほど低い。おかしいのはなぜ鞍部に堀切を置かず、少し高い山側に置くかである。
なお、鞍部の西は再度盛り上がり、山頂に妙見館という出城がある。
本郭の南側5m下には突き出し20mほどの帯曲輪が完存する。
一方、本郭の東側の東館に行こうとするが、その間にある幅30m、深さ7mほどもある堀切が藪状態で行けなかった。
東館には東の麓(山の先端部)から道が延びており、これが本来の大手道であり、現在は東館の東下の腰曲輪にある手長明神の参道である。
この道も藪状態で行かなかった。この道は東館の南を回り、堀切、本郭の南下の帯曲輪を経て本郭に至ったらしい。
一方、南の帯曲輪経由で南館に下る道があり、これが搦手道という。

山ろくには水堀が巡っていたという。
しかし、この城の管理状況は酷く、藪の中に埋もれてしまっている。
上の写真は、南東の水無川にかかる水道橋から見た城址。この山は東西に長いほぼ独立した山で、城はこの山の東側に築かれる。

本郭はご覧のとおり配水場になっており、湮滅状態。 本郭南側の帯曲輪は健在。 西側にある大堀切「千人沢」写真は南に下る竪堀。竪土塁を伴う。 「千人沢」の堀切であるが藪が酷い。幅は30mはある巨大さである。