二本松城(福島県二本松市)

二本松城と言えば、菊人形で有名な山麓の遺構部分がその会場となっており、この会場部分が有名である。
この会場となる山麓には、立派な石垣と復元された白壁の二層櫓、平櫓、城壁、表門である箕輪門があり、写真で良く紹介されている。
そして、この菊人形とともに戊辰戦争の時の二本松藩の二本松少年隊の悲劇が会津の白虎隊の悲劇とともに有名である。
この2つが二本松城の代表的な話題とエピソードであるが、二本松少年隊の悲劇も山麓の城郭遺構も近世のものである。

山麓の遺構は藩政時代、居館や政庁として利用された部分である。
ところが、この城は中世から存在しており、長い歴史がある。
しかし、中世時代のこの城の話はどうしてもこれらの影に隠れてしまう。その中世時代の城郭遺構は背後の山にある。

車で山頂までは行けるが道も狭く、行きにくいため、復元された本丸の石垣以外は写真で余り目にする機会は少ない。
このうち、石垣造りの本丸部分のみが、近世の遺構である。
その周囲は完全に中世の姿である。
本丸のみ整備したのは、領主の威光を示すため領内に見せることを目的にした政治的配慮に基づくものであろう。
さすがに本丸の石垣、天守台は立派である。
この部分は、二本松城が会津若松の城主であった加藤嘉明の時代に支城として加藤明利が城主の時に築かれたものという。
本丸としては50m四方ほどの広さしかなく、中世の本郭の切岸を石垣で覆ったものと思われる。

山頂部分は、本丸を除けば中世二本松城の姿であるという。
城域は広く、本丸を中心とした尾根や谷間に曲輪群が展開し、中世の山城の定番である堀切などがところどころに見られる。

二本松城は、応永年間に畠山満泰によって白旗ヶ峰に築城されたものという。
畠山氏は清和源氏で、室町幕府を開いた足利氏の一族であり、足利氏が室町幕府を開くと全国各地に所領を得る。
二本松の畠山氏は貞和二年(1346)、畠山高国が奥州深題に補任されて東下して、二本松に本拠を置いたものである。
畠山氏はここで南朝方の伊達、田村氏らと戦う。
しかし、この地の畠山氏は数々の戦乱に巻き込まれ、最後の滅亡の時まで大きく勢力を延ばすことはできなかった。
まず、観応元年(1350)、足利尊氏と弟直義との対立から引起された「観応の擾乱」に巻き込まれ、尊氏方に加担した畠山氏は壊滅的打撃を受け、高国他が戦死する。かろうじて逃れた国氏の子大石丸(平石丸)が逃れて、再興を図り、二本松付近の領地を確保し、二本松支配体制を強化する。

このころ二本松城の整備が行われたと推定される。将軍家との繋がりもあり、奥州の地で一定の地位は維持した。
戦国時代に突入すると畠山氏はいやおうなく周囲の大名間の抗争に巻き込まれる。
最大勢力の伊達氏とは事を構えることはなく、比較的友好的であったが、伊達氏に「天文の大乱」が勃発すると、畠山一族も真っ二つに割れ内乱状態となる。
乱の終結で畠山氏内の抗争も終了し、葦名、田村、白河、伊達氏等が並立し、複雑な婚姻関係で結ばれ、微妙なバランスが保たれる。

しかし、伊達輝宗が伊達氏を継ぐと、畠山氏と伊達氏の間の良好な関係は崩れ、畠山氏は葦名氏に接近していく。
伊達氏は政宗が相続し、領土拡張に動き始める。

天正十二年(1584)大内定綱が政宗の攻撃を受け、定綱が二本松に身を寄せたことから、二本松城も政宗の攻撃を受ける。
当主義継は伊達氏に降伏し、領土の大半を奪われてしまう。
義継はその窮状を隠居している政宗の父輝宗に訴えたものの、拒絶され、義継は輝宗を拉致して逃亡する。
しかし、高田原で伊達家臣団に追い付かれ輝宗と共に死ぬ。
怒った政宗は、ただちに二本松城を攻撃するが、義継の遺児国王丸(のち義綱)を中心に一族が団結して籠城し抵抗する。
一方、反伊達連合軍が結成され、二本松城を救援に北上を開始する。
佐竹義重を中心とする葦名・磐城・石川・白河の連合軍は三万の大軍と伊達勢が激突する。
この合戦は「人取橋の合戦」として名高い。この戦いは連合軍が優勢であったが、夜に佐竹義政が暗殺され、主力の佐竹氏が兵を引き揚げたことで、伊達氏の不戦勝というかたちで終わる。
敗戦後、畠山氏は絶望的状況に追い込まれ、相馬義胤の仲介で畠山氏は二本松城を無血開城し、会津へ落ちる。
さらに葦名氏が摺上原の合戦で敗れると常陸の佐竹氏をたよった。
しかし、天正17年(1589)、義綱は謎の死を遂げ畠山氏は断絶してしまう。
なお、一族の本宮氏は伊達氏に仕え、子孫は仙台藩士として続いた。
二本松城は畠山氏退去後、城は伊達氏の支城になったが、天正18年(1590)小田原征伐ののち豊臣秀吉は会津に蒲生氏郷を封じ、二本松城は蒲生氏の支城となった。
その後、上杉氏の城となり、上杉氏が米沢に去ると、再び蒲生氏、次いで松下重綱が五万石、加藤明利が三万石で入封したが、寛永20年白河から丹羽光重が10万石で入る。
この時代になると山城はすたれる。光重は山城部分には象徴とするため石垣造りの本丸は整備するが、他は廃し、山麓に城館を築いてそこを統治の中心とする。
以後、丹羽氏は、12代続き、長裕のとき明治を迎えた。

本丸虎口の枡形。 本丸東櫓の石垣。 本丸東櫓台
天守台。 本丸から見た「おと森」。中世の二郭にあたり居館があったという。 本丸から西下を見る。左下の曲輪は権現丸。
本丸南下の二の丸。 二の丸下の石垣は蒲生氏時代のものという。 本丸西側尾根筋の曲輪。堀切がある。

二本松城は、近世大名の城ではあるが、一応は山城である。(山城としての機能は喪失しているが)
標高354m、山麓大手門からの比高114mの山上の本丸は石垣造りであり、三層の天守があったという。
四方の石垣は8mほどの高さを持つ。
中世もこの本丸の地が本郭であり、当時は「甲森」と呼ばれていた。これに対して、東側の駐車場になっている場所を「乙(おと)森」といい、ここが居館の地であったという。
当時、本郭には櫓程度しかなく、戦闘指揮所の機能を持たしていたらしい。
中世の大手は西側の権現丸から西に下る道であったという。近世は大手口は南側に付け替えられ、本丸から山麓の大手門までは950mほどあり、この道の両側に重臣屋敷があったという。
本郭の周囲の尾根筋には多くの曲輪と堀切があり、斜面には帯曲輪が取り巻いていた。
また、尾根の末端の盛り上がり部には、新城館、松森館という出丸があり、少し離れて本宮館、箕輪館、猪子館、栗ヶ柵の4館が出城として存在していた。
戦闘時には後詰めの役目を持つ出城であり、伊達氏の攻撃を受けた時はこれらの出城が有効に機能し、攻撃を撃退したという。
しかし、天正14年には伊達氏へ付いた家臣が立て篭もり本城が危機に瀕したという。
どこまでが中世のものであるかは分からないところが多いが、尾根筋の曲輪や堀切は完全に中世のものといってよいと思われる。
戊辰戦争のとき二本松藩は奥州同盟に加わったため、官軍の攻撃を受け、山麓の建物は焼失し、本丸の天守も明治5年(1872)に解体されたという。