高倉城(福島県広野町)
いわき市の北、広野町の中心街南西に1qにある西側から太平洋まで張り出すように延びる尾根状の山全体が高倉城である。 したがって国道6号線や常磐線は城域を横断していることになる。 資料では、城主は磐城地方を支配した岩城氏重臣猪狩氏であったということは確認できるが、築城されたのはそれより以前であったらしい。 しかし、戦国時代には岩城領の北の守りの中心であったのは間違いない。 猪狩氏は佐竹氏等との戦いには ほどんど登場しないが、それは岩城氏の対相馬方面軍司令官であったからである。 この付近が猪狩氏の領土になったのは、岩城親隆が文明6年(1474)、楢葉氏を制圧し、猪狩筑後守隆清を楢葉に置いた時である。 相馬氏は同じ平氏の流れを組む岩城氏とは余り仲は良くなく、何度も抗争を繰り返す。 天文3年(1534)には岩城重隆の娘・久保姫の婚約を巡って岩城と相馬は激突し、相馬顕胤が岩城氏の本領である四倉まで侵攻する。 その後、和議がなり広野から四倉にかけての土地は岩城氏に返還されるが、富岡・楢葉は相馬領となってしまう。 楢葉城主であった猪狩氏は、この後、この高倉城を築き(改修?)、相馬氏に対したという。 元亀元年(1570)には、岩城氏が相馬氏から富岡城、楢葉城を奪回し、猪狩氏は再度楢葉城主に復帰する。 |
しかし、関が原合戦後、岩城氏は改易され、猪狩も運命を共にし、高倉城も廃城となったという。 この高倉城は山城であるが普通の山城とはかなり違う。 通常、山城といえば山頂部の最高箇所に主郭を置き、その周囲に二郭、三郭を配置。居館を麓に置くという形式であるのが一般的である。 このことから、主郭部は最高部の標高122.7mの山頂部にあるものと想定し、東側から山頂を目指す。 山の登り口に当たる民家の周囲が土塁に囲まれているのでここが居館と思えた。ここから西側の山に向かうと途中に段々状の曲輪が確認できる。 これは期待できると思い山に向かうが、行けども行けども堀切等の城郭遺構は何も現れない。 |
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南東側から見た高倉城 | 東山麓の台地上にある民家には土塁がある。 (正面の盛り上がり)居館跡だろうか? |
頂上の南側15m下に土塁のようなものがあっただけである。頂上部は直径8mほどの広さしかなく、ここに展望台が建っている。
北西側10m下に長さ20mほどの曲輪がある(その下にもう1つ)だけである。
さすがにここからの眺めは良く、東に太平洋が望まれ、海に面した平野部が良く見える。
南から常磐自動車道が延び、この山の西側が大きな切通になっている。
東の太平洋までは山がうねうねと延びている。
しかし、この山頂部は物見台に過ぎない規模である。
この城は山麓の居館と推定した場所が主郭部であったようであり、山頂部には物見台を配置する形式であったようである。
北に延びる尾根筋にも曲輪群があり、東に続く山にも延々と曲輪があったようであり、陸前浜街道を遮断するような城であったようである。
堀切や竪堀、土塁や石垣もあるとのことであるが確認はできなかった。
城址への登り口。この東に張り出した台地上が主郭であったようである。ここが大手か? | 山頂直下の堀切のような遺構。 | 山頂に建つ展望台。直径10mほどの広さに過ぎない。物見台があったのであろう。周囲に曲輪がある |
(一部の写真提供:余湖浩一氏)
天神山城(福島県楢葉町北田)
太平洋の断崖に面する楢葉町の天神山スポーツ公園の西側、北田天満宮のある場所が本郭にあたり、東に二郭、三郭を配し、北側に外郭を配する梯郭式の城郭。 |
この城については文書等、記録は一切なく、伝承等もないという。
城主の名前さえ分らず、築城年代などもすべて不明である。
しかも、楢葉町が昭和55年7月、地形測量と二郭の試掘調査を実施したが、遺物さえも検出されなかったというので城を使用したことはなかったようである。
未完成の城であるが、戦国末期の築城であることは確からしい。
戦国末期、この付近は岩城氏の支配下にあり、北の相馬領と境を接する場所であった。
「楢葉町史」は、この城の築城時期を関が原前夜の頃と推定している。
この頃、岩城氏は当主、常隆が天正18年(1590)年、小田原の役に参陣中に急死し、佐竹義重の三男、能化丸(後の貞隆)を養子に迎える。
実質的にこの養子縁組は、岩城氏が佐竹氏の支配化に置かれ佐竹の領国になったことを意味する。
北の相馬氏の警戒のため、拠点となる城郭の築城を開始したものという。
しかし、築城途中で関ヶ原合戦が起き、その後、佐竹氏の秋田移封、岩城氏の改易があり、築城が中断されたものと考えられるとしている。
もともとこの地は岩城一族の楢葉氏の領土であったが、文明6(1474)年岩城氏家臣猪狩筑後守隆清に滅され、以来、猪狩氏が楢葉城に拠り、相馬氏との最前線に立つ。
関が原前夜も猪狩氏がこの地を管理しており、もし、この城が完成していれば、猪狩氏が城代として入城したのと考えられるとしている。
外郭西側の虎口。鳥居の左右に堀があったと思われる。 | 本郭西側の土塁と堀跡。それほど規模の大きい土塁ではない。 | 本郭南西隅。土塁上には櫓を建てるスペースはない。墨 | 本郭に建つ北田天満宮。江戸時代にこの地に建てられたという。 |
本郭東側の土塁と堀。右側が二郭。 | 二郭東側の土塁と堀。右側が三郭。 | 三郭から見た南の木戸川と太平洋。煙突は広野火力。左の台地上にJヴィレッジがある。 | 三郭の東側は天神岬スポーツ公園である。この先は太平洋に面した崖である。 |
三郭東側の土塁。この外側に堀があった形跡はない。 | 三郭北側の枡形を三郭から見る。 | 同左。外郭側から東を見る。 | 三郭北側の土塁。手前には堀があったらしい。 |
実際、この城を見てみると、どうも境目の城として戦闘を意識した感じは受けない。
背後が絶壁で要害性はあるが、北西方向が台地続きで、この方面はがら空きである。
その北西方向が相馬領である。北西方向に多重に郭を配置する構想があったかもしれないが、相馬氏に対するなら、木戸川の南側の台地の縁部に、木戸川を天然の水堀に利用して城を築くべきである。
この城はそれが全く逆である。
また、岩城氏と相馬氏は戦うことが多かったが、佐竹氏と相馬氏は共通の敵である伊達氏と戦った仲であり、それほど険悪かつ緊張関係にはなかったと思われる。
それに城内が平坦であり、それほどの規模でもない堀と土塁で郭を仕切っただけである。
これらを見るとこの城は相馬氏に備えた防衛的な城というより、岩城氏が楢葉地方の統治のために築いた政庁的な城郭ではなかったかと思う。
(「ふくしまの城」(鈴木啓著)参考)