中島村の城館

後山館(中島村二子塚)
棚倉から県道44号を矢吹方面に北上、阿武隈川を渡ると吉子川小学校があり、その北側の山が館跡である。
小学校付近の低地の標高が290m、丘陵は300mであるが、館のある部分は盛り上がっており、標高が320mほどある独立した形の山となっている。

この南西から北東にかけて細長い200mの岡の東側、県道44号側に館跡がある。南から登るのが近道であるが、民家があって行けない。
このため、北側からアプローチ。
後で分かったことであるが、東側にある溜池の横から登れるようである。
館跡は小竹、広葉樹、杉林であり、未整備状態である。

館は長さ50m×30mほどの本郭の北側、東側に横堀を巡らした形式であるが、この横堀、幅15m、深さ5mほどの立派なものである。
本郭内には櫓台のような土壇がある。本郭の東側は堀で仕切られ、東に独立した曲輪がある。

横堀はその曲輪の北側を東に延びていたようであるが、土取りで抉られている。
一方、本郭の西側には径20mほどの内枡形虎口がある。
その西側に豪快な竪堀が南に下る。館のある南側斜面の勾配は急であり、帯曲輪があり、さらに下が民家である。

館の名前「後山」であるが、この名から推定すると、民家の地が居館であり、その裏の山というような意味があるように思える。
下の写真は南から見た館跡である。
@ 館の西を南に下る竪堀 A 本郭内部には土壇がある。 B 本郭の北側を横堀が覆う。

館山館(中島村二子塚)

県道44号をはさんで後山館の反対側、東側にある。
県道44号からは500mほど東に溜池があり、その南側の岡末端部が館跡である。

低地からの比高は15m程度である。
平坦な林の中の道を歩いて行くと、堀か用水路とおぼしき溝がある。

その南側の少し高い台地が館主要部であるが、そこはただの畑であり、土塁等もない。
東に回りこむと、谷津を堤防で仕切ったようなものの址がある。これだけのものであった。

とても防御を考慮した感じはあまりない。
低地の水田への水利を管理する館のように思える。
結局、始めにであう溝は、用水路を兼ねた館防御用の堀だったのではないかと思う。
南側阿武隈川沿いの低地から見た館址 @ 北側を遮断する堀または用水路 A 館主体部は畑であり、土塁等はない。

滑津館(中島村滑津)

国神城のある岡の南東の末端部に位置する。
国神城からは約2kmの距離であり、支城であろう。
県道137号を中島村中心部から石川町方面に走行し、阿武隈川を渡る手前、北側の比高20mほどの岡が城址である。
城域は東西400m、南北150mほどある岡の頂上付近であり、現在は一面の畑である。
先端部が若干低くなっているが、平坦で広い。
西側の道路になっている場所が城の西端の堀切跡のようである。岡の上を歩いても、遺構らしいものは何もない。
岡のほぼ中央の北側に何やら怪しそうな社が見える。
ここに畑を横断して行ってみる。
そこには櫓台のような土壇と岡の縁に沿った土塁、そして一段下に帯曲輪がちゃんと残っていた。
この状況をイラストにしたものが、左の図である。
土壇の東側には台地を仕切る堀が存在していた跡が残っている。
確認した遺構はこれだけであるが、まだ、どこかに残存している可能性がある。

館の歴史は不詳であるが、石川氏の本拠三芦城と国神城の間にあるので、石川氏の支配時代は、両城間のつなぎの城であるとともに、阿武隈川の水運を監視するための城であろう。
なお、先端南側の崖面に鎌倉から南北朝期の板碑、10数基が刻まれているという。

また、戦国末期には、佐竹の家臣、船尾山城守が在城し、天正18年(1580)には伊達氏に下った石川氏の攻撃を受けたという。
広さからして、居館が置かれるとともに、軍勢の宿営地でもあったのではないだろうか。

館内部は一面の畑で遺構は見られない。 北の縁部にある櫓台。 左の櫓台の下には腰曲輪が残っている。

松崎館(中島村松崎)

石川町の沢井城のある沢田三差路を県道137号線を走り、中島村方面に向かい、阿武隈川を越え、滑津館の東を県道139号線に入り、玉川村方面に向かい1qほど走ると松崎地区である。
松崎地区の阿武隈川に面した台地一帯が松崎館の跡である。

この付近は谷津が入り組み、松崎館のある台地は北側が谷津に分断された独立した台地状である。
南側は阿武隈川が天然の水堀になるので居館を置くには良い場所である。
館のあったという場所は畑と人家である。
その畑が段々状になっていて、いかにも城館の切岸のようである。
多分、ここが松崎館に比定されているので館の切岸に間違いないものと思われる。
明瞭なのはこの切岸だけであり、堀とか土塁は確認できなかった。台地に登る道路などは当時の登城路の名残かもしれない。