向羽黒山城(福島県会津若松市(旧本郷町))
会津盆地の南端部に極めて目立つ山があり、盆地内のどこからも見える。
この山にある城が向羽黒山城である。
葦名氏の詰の城として名高く、葦名氏の時代の城と思われがちであるが、今に残る城は葦名氏の城にその後、この地を支配した伊達氏、蒲生氏、上杉氏が手を入れているため、葦名氏オリジナルの姿ではない。
大体、どこまでが葦名氏の築いた部分なのかも分からない状態である。

右の写真は西側から見た城址である。一番高い山が実城、その左側の平坦地が中城。左端の山が羽黒曲輪、右下の集落が搦め手口の三日町である。廃城が関が原後というので、上杉氏が整備した姿が今に残る最終的な姿である。

代々の支配者が重要視していたように、この城は戦略上、非常に良い場所にある。

第一、比高190mという独立した山であり、眺望は最高である。盆地内が一望のもとに納められる天然の天守台である。

また、東に阿賀川が流れ、この方面の防備を考えなくてよい利点がある。田島方面からの侵攻を阻止できる戦略的利点がある。
葦名盛氏が目を付けたのも当然であり、伊達、蒲生氏が重視したのもよく分かる。

上杉氏は入封後、会津若松城はほとんど手を付けずここを重視し、徹底的に整備したという。
ここが、攻め込まれた場合の最終拠点として考慮していたためであろう。
したがって、対徳川の会津盆地の防衛拠点は神指城ではなく、この城であったことになる。
この整備が終わってからいよいよ領内支配の拠点として神指城の築城に取り掛かっている。
城の規模はこれは大きい。山全てが城という巨城である。とても短時間で見ることはできない。丸1日はかかるであろう。

曲輪は100以上あるといわれる。
二郭、三郭、羽黒曲輪という名の曲輪があるが、これらは本郭の周囲に存在する訳ではなく、ほぼ独立した城砦であり、城砦群の集合体が向羽黒山城である。印象としては、あの春日山城と似た感じを受ける。

上杉景勝と直江兼続はこの城に故郷の春日山城を重ねて見ていたのかもしれない。
城のある山は旧会津本郷町の市街南東にあり、岩崎山ともいう。
この山の標高は408m、麓が220m程度であるので比高は190mある堂々とした山である。
この山は流紋岩で出来ており所々に巨岩が見られる。この山にはもともと地元の土豪が築いた城があったが、本格的な城を築いたのは葦名盛氏である。

築城は永禄4年(1561)から11年(1568)までの8年間を費やしたという。
葦名氏の本拠は「黒川城」(後の会津若松城)であったが、ここは政庁機能を優先した平城であり、防御は今1つである。

当然、詰の城があり、これが東の山にある小田山城である。
しかし、小田山城が敵の手に落ちると、黒川城が眼下に望まれ防衛上不利になる。
これを懸念し黒川城から5q離れたこの山に詰めの城を整備したという。
この盛氏の懸念は300年後、戊辰戦争で現実となる。

小田山を占領した新政府軍がここから会津若松城を砲撃し、城自体は落ちなかったものの、結局、この砲撃が会津藩にとどめを刺す。
城の重要性は盛氏後の支配者である葦名盛隆、葦名義広、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝も認識しており、皆、政庁は会津若松城、防衛は向羽黒山城という認識があったようである。
最終的な廃城は前述したように関が原の合戦後である。
石垣も結構あるが、葦名氏時代のものもあるが、ほとんどは上杉氏時代のものであるといわれる。
(かなり破壊されているが、廃城時に破城されたためという。)

鳥瞰図は「解説向羽黒山城跡」(向羽黒山城跡検証事業実行委員会)掲載図を参考に描いたものであるが、あまりに巨大な城であり、自分の目で確認できた範囲である実城と中城部分しか描くことがをできなかった。

左が三郭である。4段程度になっているが内部は草ぼうぼう。 弁天曲輪には弁天様が祀ってあるのでその名が付いたらしい。 実城(右)と中城の間の堀切は切通しの道路。ここまで車で来れる。 中城の中心、二郭の虎口。
二郭は公園になっておりきれいに整備されている。 二郭から見た北東の会津若松方面、東に阿賀川が流れ、磐梯山が見える 実城の虎口。両側は土塁。ここから本郭までは高さで65mある。 実城の西斜面には竪堀が稲妻状に巡る。
本郭部の鞍部の内枡型虎口。 本郭東曲輪には巨岩がある。ここは物見の曲輪であろう。 本郭の東側以外を堀が巡るが、鉄砲射撃用の塹壕と思われる。 本郭である。全く未整備状態である。ここにも巨岩がある。

城は標高408mの向羽黒山の山頂を中心に、東西約1.4q、南北約1.5qの範囲が城域である。
総面積は約50.57haであるので、会津若松城の約2倍、神指城とほぼ同じ規模である。
本郭のある向羽黒山の山頂付近の遺構群を「実城」といい、この部分のみで立派な1つの城である。
麓から道路が山に延びており実城の麓まで行ける。
道路を登って行くと北側のピーク羽黒山(標高344m)があり、山頂に羽黒神社がある。
ここが羽黒曲輪である。道を南に進むと鞍部がある。この北側斜面に盛氏の屋敷があったといい曲輪群がある。
そこを過ぎると三郭であるが、道路を通すため結構破壊されている。この地点は標高が280mである。ここは見なかったが草が凄い。
ここを過ぎると二郭であるが、その間に幅約30m、深さ約15mの大堀切と竪堀がある。
二郭は単なる郭ではなく「中城」というべき独立した城である。
頂上の二郭を中心に北側、西側に曲輪群が展開する。それぞれの曲輪が前面に土塁を持つ本格的なものあり、横堀、竪堀が複雑に配置され、石垣も多用されているという。
しかし、ほとんど未整備であり、冬場でないと遺構の確認は無理である。
遺構を一部破壊して付けた道を登って行くと弁天神社がある。
ここが実城東端に当たる。標高は320m。さらに登ると切通しがあり、駐車場がある。
この切通しが実城と中城間の大堀切を利用したものという。駐車場も曲輪を利用したものであろう。
この駐車場から北に登ると、頂上が中城の中心、二郭である。標高は350m。きれいに公園化されており、抜群の眺めである。
『会津要害禄』の付図『本郷邑古塁之図』に「盛氏居所」と書かれているため、この中城が実質的な城の中心であったといわれる。
主郭の二郭は二曲輪とも言われ、東西約60m、南北約40mの広さを持つ。川原石を使用した礎石建物があったという。
蒲生時代の石垣があったらしいが破壊されている。
実城は駐車場がある場所から高度で70m登る。西側の登り口が土塁に囲まれた虎口状になっており、斜面には長さ約70m、幅8mの竪土塁を持つ豪快な竪堀や稲妻状にジグザグに曲がりくねって下りて来る竪堀、土塁を持つ曲輪が組み合わさる複雑な様相である。
山頂部は2つに分かれており、その鞍部が内桝形となっている。
この北側が本郭東曲輪であるが、巨石が数個あり狭い。物見台のような感じである。
南側が頂上部分の本郭である。
二段の土塁を持つ腰曲輪を経てやっと到着である。
本郭の西側には横堀が巡るが規模は小さく、武者走か鉄砲射撃用の塹壕といった感じである。
本郭内部はほとんど整備されていない状態である。北側に低い土塁の痕跡がある。
本郭は南北約40m、東西約25mの大きさ広さで、ここにも巨石がある。柱組の井楼櫓があったのだろう。
南側は幅約15m、深さ約7mの大堀切があり、斜面を竪堀となって、もう1本の竪堀が合流して下る。
さらに南に尾根伝いに行くと曲輪があり、その南側に幅20mほどの堀切があり、竪堀となって山腹まで下る。
本郭は葦名氏時代のものといい、堀切と竪堀は上杉氏が改修したという。
西側斜面の麓までの間には曲輪群が展開する。
余りに多く複雑であり把握は難しい。
ここを下りた三日町が大手であった時期もあったが、後に搦め手口となり、三郭から中城中腹を経て、駐車場のある場所を通り、本郭に上がる道が最終的な大手道であったようである。
盛氏屋敷の西側は、上町、坂の下を十日町と呼び、家臣や町人の屋敷があったという。
画家の雪村と葦名盛氏は交流があったというが、雪村もこの城下に滞在していたのであろう。
北下の温泉施設や発電所がある地区を六日町と呼び、ここに町屋があった。
山と城下の周囲は外堀があり、総構構造でもあったという。
これだけの戦闘に備えた向羽黒城であるが、肝心の葦名氏は摺上原の戦い後の家内体制崩壊でこの地を去り、伊達氏、上杉氏も戦うことなくこの地を去り、結局、この城を巡る戦いは幸か不幸かなかった。

参考 「解説向羽黒山城跡」(向羽黒山城跡検証事業実行委員会)、ふくしまの城(鈴木啓)、日本城郭大系、日本城郭全集 他

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