三春城(三春町)

三春の市街地の東、標高408mの山一帯が城址である。
別名「舞鶴城」ともいう。

市街地の標高が312mであるので比高は100m弱である。
この山はほぼ独立しており、城域は山全体である600m×400mほどの広さである。西側の麓、三春小学校の地が館跡である。
右の写真は城西側の山中腹にある三春歴史民俗資料館から見た城址である。中央の山の山頂平坦部が本丸。左手のフラットな尾根部分が二の丸である。

築城は永正元年(1504)と13年(1516)の2説がある。
田村氏が守山城からこの場所に移転したのは平城で防御能力の低いことを懸念したためと思われる。
この三春の地は周囲が山であり格段に防御力が高く、移転は戦国時代に対応した措置と言えるであろう。
現在の三春城と田村氏の三春城がどの程度違うものかは良く分からないが、山城という地形の制限があるため、主要な郭の配置はそれほど変わっていないものと思われる。
城の主要部には車で行ける。南側の県道40号沿いに登り口があり、ここを登ればよい。結構な急坂である。
この道が田村氏の時代からの大手道である。

道は左に折れるが、その付近は石垣になっており、正面に竪堀が見える。左折して進むと二の門跡に出る。
ここも曲輪であるが、上にも曲輪がいくつか見える。
眼下に居館跡の三春小学校が見える。
車道を進んで行くと切通しがある。

この切通しは堀切跡であり、切通しの左手が二の丸である。中は児童公園である。
西側に向かって小さな曲輪が段々になっている。
駐車場は本丸北西下の腰曲輪を利用している。

ここから本丸は30mほど登れば良いだけである。
この城の特徴は山頂の本丸が結構広く居住性があることである。
巨大な本丸の周囲に小さな腰曲輪を多数築き、派生する尾根に二の丸と三の丸を配置するのが、この城の基本である。
本丸は2段になっており、北側に位置する部分は80m×50mの広さを持つ。

石垣はあるが、郭の周囲を鉢巻状に覆っている程度のそれほどの規模ではない。当然ながらこの石垣は田村氏の時代のものではない。
規模は小さいものの搦手口、裏門の石垣はそれなりに重厚である。

上の曲輪の3mほど下に同じ位の広さの曲輪が西側に延びる。
この曲輪の先端部分に天守に相当する御三階櫓があったという。
この本丸は白壁に囲まれ、御殿や櫓があったようであるが、今は何もない。門の礎石があるだけである。
大手は南に下る道である。大門(表御門)から下るこの道沿いに巨岩があり石垣のように見えるが、これは自然のものであろう。
結構、この山には岩があり石垣の石材には苦労しなかったのかもしれない。

その下に三の門(中御門)のあった曲輪、揚土門等を経て、ジグザグと二の門まで下る。
大手道にある曲輪付近には石垣の岩が多く転がっている。

車道は北側に下るが、北側の山ろくにも曲輪が段々に展開していたが、ここは現在、宅地となっている。(三の丸までは行かなかった。)
一方、西下の県道40号線沿いは、現在、役場や郵便局がある町の中心街であるが、北側の県道50号線沿いも含めて、水堀が存在していたという。
三春小学校の地は居館跡であるが、内部は3段となっている。その山側を二の丸が覆う形となっている。

「みはる」という地名が最初に確認されるのは、延元4年(1339)頃に書かれた「結城古文書写」に収録された「沙弥宗心書状」という史料という。
ここでは「御春輩」と書かれこの地方に武士団が存在し、南北朝の争乱に参加していたことが分かるという。

戦国大名として知られる田村氏がここに本拠を移したのは、永正元年(1504)田村義顕のころ、三春城を築き、守山城から移転したとされている。
天正18年(1590)の田村氏改易後、三春城は伊達政宗の領地となるが、翌年には蒲生氏郷、慶長2年(1597)には上杉景勝、慶長6年には蒲生秀行の領地となり、それぞれの城代あるいは守山城代によって支配される。
江戸時代の寛永4年(1627)会津若松城主、加藤嘉明の3男明利が、最初の独立城主として三春に入城、さらに、寛永5年松下長綱が三春城主となり、城の修築や城下町の整備などが行われるが、正保元年(1644)松下長綱は改易となる。
その後、秋田俊季が田村郡の大半と郡山市の一部を含めた5万5千石を領し、明治4年(1871)の廃藩置県まで230年余り、11代にわたってこの地方を治めた。
(この秋田氏は十三湊で有名な安東氏の末裔であり、出羽にいたが、関ヶ原の戦い後、常陸国宍戸に移り、さらに三春に国替えを命じられる。) 

秋田氏の三春統治時代、3代輝季から4代頼季にかけては藩主後継問題を起こし、幕府の裁定を受ける。
7代倩季の時代には、天明の飢饉に見舞われ、同5年(1785)大火により三春城と城下が焼失する。
これを打開するため、藩講所が設置され、藩士子弟の教育充実が図られれる。
三春の代表郷土玩具、三春張子人形は秋田氏の統治時代に始められたという。
幕末、最後の藩主映季は動乱に巻き込まれ、奥羽列藩同盟に参加するが、小藩ではどうにもならなく新政府軍に降伏し、これにより領内を戦禍にさらすことなく無血開城を実現した。(三春町HP参考)

館跡の三春小学校から見上げた本丸 駐車場になっている腰曲輪から
本丸は少し登るだけである。
裏門跡付近から見た本丸の石垣。 本丸に建つ城址碑。
本丸は2段構造になっている。
本丸内部は何もない。戊辰戦争の
戦没者慰霊碑などがあるだけである。
本丸の周辺は石垣で補強されてい
たようであるが、規模は小さい。
本丸西側の曲輪。先端部に天守
相当の御三階櫓があったという。
本丸の表門である大門の礎石。
三の門のあった曲輪。 揚土門のあった曲輪。 二の門跡。撮影位置は車道である。 二の丸(左)と主郭(右)間の堀切
は車道の切通しとなっている。
二の丸内部は児童公園である。
どうも土塁があったようである。
大手道の途中にある竪堀の末端部。 大手枡形の石垣。 藩校の明徳門は三春小学校の
校門になっている。

田村氏とは
田村氏は坂上田村麿を先祖と称し、田村麻呂から6代後の古哲が田村氏を名乗ったという。
一方では平氏の末裔とも言っているという矛盾がある。
本当はどこでもそうであったように地名を取って姓にしただけに過ぎないのかもしれない。
したがって、この田村地方を支配したので田村氏を名乗ったのであろう。

『伊達秘鑑』等には田村麻呂の子孫であることを強調した記述が見られるが、これは脚色に過ぎないものと思われる。
田村氏といえば三春を本拠とした三春田村氏を指すことが一般的であるが、もう1系統の田村氏が存在する。
これが鎌倉期から南北朝期にかけて、田村地方にいた藤原姓の田村氏である。
この田村氏は、応永年間(1394〜1427)に小山氏の反乱に加わり、没落している。
藤原姓田村氏は、鎌倉幕府評定衆、田村刑部大輔仲能の子孫という。

南北朝の乱に南朝方として出てくる田村氏がこの流れであり、戦国大名の田村氏とは別の家である。
この付近に南北朝の戦いに登場する宇津峰城があるが、この当時、北畠顕信を宇津峰城に迎えて戦ったのが、藤原姓田村氏の田村宗季である。
正平2年(1347)と正平8年の2回にわたって宇津峰城は落城するが、藤原姓田村氏は生き残る。

しかし、則義、清包の代に「小山義政の乱」に同調して乱(田村庄司の乱)を起こし、応永3年(1396)、鎌倉公方足利氏満の攻撃を受けて没落する。
もう1系統の田村氏はこれにとって代わり田村地方を治める。これが戦国大名として知られる平姓田村氏あるいは三春田村氏と呼ばれる一族である。
別系統とは言うが本当のところは藤原姓田村氏から分家した家ではないかともいう。
藤原姓田村氏から代わった三春田村氏(以下、単に「田村氏」という。)の歩んだ道も決して平坦なものではなかった。
田村氏も白河結城氏と石川氏の抗争に巻き込まれ、「永享の乱」、「享徳の乱」を切り抜け、伊達、白河結城、葦名氏らに並ぶ実力を付ける。
白河結城氏に従属した形で勢力を拡大していったという。義顕の代までは守山城を本拠にしていたが、義顕または子隆顕の代に三春に本拠を移したという。
天文年間になると伊達氏と葦名氏が圧倒的な力を持ち、田村氏、二階堂氏、畠山氏は苦しい立場に置かれるが、微妙なパワーバランスで葦名氏と同盟したり対抗したりする。
永禄年間になると佐竹氏の北進が活発となり、佐竹氏は白河結城氏、石川氏を支配下に置く。

田村隆顕は佐竹氏に下った石川晴光と戦うが敗れ、葦名盛氏と連合し佐竹氏に対抗する。
元亀年間(1570〜72)当主は清顕に代わり、葦名氏、白河結城氏と連合し果敢に佐竹氏と戦う。
しかし、天正2年(1574)、葦名、二階堂、石川、白河結城、岩城の各氏が佐竹氏を和睦し、清顕は不利な立場に置かれる。
しかし、片平城の伊東祐時、高倉城の畠山治部、郡山城の伊東太郎左衛門を征服し、葦名盛隆、二階堂盛義、岩城常隆の攻撃を退ける。
天正7年(1579)には、清顕の娘愛姫が伊達政宗のもとへ輿入れをし、伊達と連合することで、佐竹、葦名氏らの連合との対立が鮮明になる。
田村氏に対しては二階堂盛義氏、葦名氏、佐竹氏、岩城氏の攻勢が強まり苦戦する。

必然的に伊達氏を頼ることになる。このようなさなか、天正14年清顕は急死する。
この後継を巡って、田村氏の家内は田村宮内顕頼入道月斎・同右馬顕基入道梅雪斎・同右衛門清康・橋本刑部顕徳を中心とした伊達派と清顕の後室の実家である相馬氏を結ぼうとする田村梅雪斎と右衛門派を中心とする相馬派に二分され家内抗争に発展。
そこに伊達氏と相馬氏が介入し、相馬氏と伊達氏の戦いが再開し混乱を深める。

結果として伊達派が勝利し、田村氏は清顕の甥孫七郎(宗顕)が継ぐが、田村氏は実質的に伊達氏に支配されることになる。
天正17年、葦名氏が滅亡、続いて二階堂氏が滅亡し、奥州南部は伊達氏の支配となるが、天正18年(1590)小田原の役が起こる。
田村氏にも秀吉からの参陣要請があったが、伊達政宗に留め置かれ、その結果、白河結城氏、石川氏らとともに田村氏も改易されてしまう。
田村宗顕は伊達政宗に保護されたが、その家臣団には政宗に裏切られたという思いが強く、家臣の多くは新たにこの地に入った蒲生氏に仕えた。
結果的にみて、政宗は奥州仕置を利用して田村領を完全に乗っ取といえよう。
宗顕死後、田村氏は断絶し、田村氏の正統の血統は絶える。
伊達政宗の孫宗良が岩沼三万石を与えられて田村右京を名乗って再興され、後に一関の支藩の藩主となり、明治維新を迎えた。

月斎館

三春城の北、県道50号線が通る谷を挟んで北側の山にある三春城の出城である。
東西300m、南北100mほどの細長い山全体が城址である。

標高は370m程度であり、三春城の本丸からは40mほど低いが、市街地からの比高は50mほどある。
東側に三春消防署があり、消防署建設により東端部は削られている。
北側は県立三春病院や田村高校である。東端の曲輪が墓地になっているので、この墓地に登る道を上がれば城址である。
県立三春病院駐車場から見た館主郭部。 墓地となっている東側の曲輪から見た主郭部。
その手前に堀切があったようである。

墓地となっている部分は遺構が分からなくなっているが、西側に堀跡であったような低地があり、その西側の一段高くなっている場所が主郭であり、その西側に向かって段郭状に曲輪が展開している。
ここは林や果樹園等になっているが、中世から余り手を入れられている感じではなく、田村氏時代のままのような気がする。