会津黒川城(会津若松城、鶴が城)
「会津黒川城」といってもピンと来る人はそれほど多くはないであろう。
何のことはない「会津黒川城」とは、現在の「会津若松城」または「鶴が城」の前身の城のことである。

「会津若松城」といえば、その歴史はほとんど幕末の戊辰戦争が中心である。
これについては多くの書物に取り上げられている。
また、HPの検索で「会津若松城」を検索しても、内容の多くは、白虎隊に代表される戊辰戦争最大の戦いである会津戦争のことがほとんどである。
しかし、会津戦争は「会津若松城」の長い歴史のほんの一端にすぎず、それ以前に500年近い歴史を有する。
このHPでは戊辰戦争には余り触れず、HPの主旨である「中世の会津若松城」に限定して取り上げてみる。
しかし、「若松」という地名は中世末期、蒲生氏郷が名づけたというのでそれ以前は使われていなかったはずである。
それ以前のこの地の地名は「黒川」であり、この城の名も「会津黒川城」(あるいは「会津黒川館」または単に「黒川城」。)と呼ばれていた。
このため、ここでは、中世、葦名氏の頃の城の名前は「会津黒川城」で通すことにする。

さてその「会津黒川城」であるが、現在、その姿は「会津若松城」に埋もれて分からない。
しかし、葦名氏時代の古図が存在しており、これと発掘調査結果から推定すると、曲輪の位置等は現在の「会津若松城」とほとんど同じであるという。
すなわち、「会津若松城」は「会津黒川城」の縄張りをそのまま利用しているとのことである。
現在の「会津若松城」の姿を見ると、壮大な水堀に囲まれ、堀底から塁上までの高さが15mほどもある豪快な遺構を残している。
まるで丘陵の末端を利用した城のように見える。
しかし、ここはもともと完全な平地であり、この高い塁は堀を掘った土を盛り上げて造ったものといわれる。
したがって、「会津黒川城」当時の塁は低く、本丸も出丸も余り高度差はなかったようである。
現在、盛り上げた本丸の地下に「会津黒川城」の本郭の遺構が眠っているのであろう。
また、水堀は当時は西側部分のみであり、堀は現在の堀とは比較にならないほどの規模の空堀であったようである。
至徳元年(1384)に築城されたというが、当時は方形単郭の一般的な室町時代の武家の居館であったと思われる。
これが今の本丸に当たる部分であろう。
戦国時代が始まり、葦名氏の勢力が大きくなるに従い、徐々に今の出丸や二の丸を拡張していったものであろう。
しかし、この拡張はどちらかというと城の防衛という軍事的理由ではなく、政庁機能が大きくなり、その場所を求めてのものであろう。
この城の防衛は東の山にある「小田山城」が担い、盛氏の時代に「向羽黒山城」が担った。
この拡張部分も外部を土塁で囲み、その前に空堀を掘っただけのものであろう。(低地であるため、空堀ではなく水堀状態であったかもしれない。)
葦名氏が滅亡し、城は伊達氏のものになるが、伊達氏の統治は1年強程度であり、改修はしていないという。
伊達氏が着目し、整備したのは向羽黒山城である。
次に入った蒲生氏が、この城を大改修し、石垣化し今の姿に近いものにしているが、この頃は戦国時代が終わり、領内統治が主眼となったため政庁の整備と領民に対する権威の誇示という目的であろう。
次の上杉氏は「神指城」の築城を手がけたように、この城にはほとんど手を入れた様子はない。
再蒲生、加藤氏の時代に石垣化をさらに進め、今の姿になったという。
戊辰戦争の主人公、保科氏、後の松平氏の統治時代には大規模な改修は行っていないという。
鳥瞰図は葦名時代黒川城市図と現在の縄張りを参考に描いたものであるが、完全な想像である。

下の鳥瞰図は会津若松城であるが、会津黒川城と比べると、門の置き方や堀幅が異なるが、曲輪の位置関係はほとんど変わっていない。
ただし、当時は曲輪間の高度差はほとんどなかったと思われるので本丸部分と出丸、二の丸は同じレベルであったであろう。
堀は牛沼と言われる本丸西側の堀を除いて、規模が(現在の堀と比較して)それほどでもない空堀が巡っていたのであろう。

 さて、ここで写真を掲載しようと思って困った。
「会津黒川城」の写真なんか撮れる訳がない。
もし、今の「会津若松城」に「会津黒川城」の遺構が残っていたとしてもどれがそれなのか分からない。
ということでしょうがないのでありきたりであるが「会津若松城」の写真で代用。
代用といっても見事の一言に尽きる城郭である。

東門から見た二の丸(左)と三の丸間の堀。冬のため空堀状態である。 廊下橋門。非常時には落とせるようになっている。 廊下橋門から見た西側。高石垣が見事である。 廊下橋門の枡形。石の芸術に近い造形美を見せる。
おなじみの再建天守。 天守から見た太鼓門と北出丸。 天守から見た黒門。遠く向羽黒山城が見える。 本丸西側の堀。黒川城時代は牛沼と呼ばれていた。

葦名氏は相模の名門、三浦氏の流れであるので桓武平氏ということができる。
頼朝の奥州攻めの軍功で会津を得る。
ただし、この時点では会津には一族の者は行っていないようであり、代官を派遣して統治していたようである。
三浦氏宗家は宝治元年(1247)北条氏に諮られ滅亡するが、三浦氏一族、佐原氏は北条氏に加担したため無事であり、佐原盛連の四男の光盛の代に始めて葦名を名乗る。
因みに葦名は今の横須賀市にある。(これが縁で横須賀市と会津若松市は姉妹都市になっているそうである。)
会津に行ったのは南北朝期、直盛の代という。
会津の館として築城したのが、後の会津若松城、黒川館(城)である。
至徳元年(1384)のことという。南北朝期は北朝方として活動しているが、その詳細は不明である。
しかし、葦名氏は会津地方の地盤を固め、守護の地位を確立し、世襲化していくようになる。
そして、戦国時代がはじまると次第に戦国大名化し、会津の外にも領土を広げていく。
この間、一族の新宮氏と北田氏との抗争、「新宮氏の乱」があり、庶家の勢力を抑え、盛政が葦名本家の絶対的支配権を確立する。
永享五年(1433)のことである。
永享六年(1434)、盛政は子の盛久に会津守護職以下の所領を譲り、盛久、盛信、盛詮と続くがいずれも短命であり、家督相続で混乱し、猪苗代氏の反乱を招くなど、一時、勢力を弱める。
葦名盛詮の代に混乱は収束し、葦名氏は再び勢力を盛り返す。
盛詮は文正元年(1466)に死去し、盛高が継ぐ。
盛高の代にも延徳4年(1492)猪苗代氏らの反乱があり、明応3年(1494)には、伊達騒動のあおりを受け巻き込まれる。
その後も松本氏の反乱が起こる。永正2年(1505)には葦名重臣佐瀬氏、富田氏間の対立に起因し、葦名盛高と父盛滋間の家内騒動が発生。
盛高、盛滋、盛舜と続くが、家督相続を巡って内紛がたびたび起こる。
盛舜の支配が安定すると隣接の大名間との接触が多くなり、連合離反を繰り返す戦国に突入していく。
一方で、盛舜は足利将軍家にも取り入り、黄金を将軍義晴に贈り、修理大夫の官位を得、大名としての地位を固める。
おそらくこのころ金の産出が盛んであり、地位を金で得たのであろう。これは伊達氏と同じ行動である。
そしていよいよ盛氏の登場である。
盛氏は隠居していた盛舜に代わって以前より、当主の地位にあり「伊達氏天文の乱」に介入していたが、文武両道に優れた人物であったらしい。
対外的には、猪苗代氏、長沼氏と戦い、越後、出羽にも出兵し、会津の外に盛んに侵攻する。
そして、二本松の畠山氏、須賀川川の二階堂氏、三春の田村氏も配下に置く。
また、北条氏康、武田信玄、上杉謙信等とも親交を結んだ。
この当時の敵対者は隣接する伊達氏と佐竹氏であり、両者とは時には直接戦闘を交えている。
この当時が葦名氏の全盛期であり、その支配地の石高は60、70万石程度に達していたようである。
奥州では伊達氏と並ぶほどの実力を有した。
しかし、外攻のつけは徐々に経済的疲労となり、これが家臣団の軋轢を生んでいたようである。
これは盛氏が当主であったころは表面化していなかったが、死後、噴出して葦名氏滅亡の遠因となる。
盛氏は隠居し、家督は盛興が継ぐが天正3年(1575)盛興が若死し、二階堂氏から盛隆を入れる。天正8年盛氏が死去すると家内で蓄積していた問題点が爆発する。
まず、天正12年(1584)重臣の松本氏が反乱を起こし、鎮圧後、天正12年10月、盛隆は暗殺されてしまう。
その跡は生まれたばかりの亀若丸が継ぐ。
この隙を伊達政宗が突き、一気に領土拡大に動き、葦名氏は白河結城、石川、二階堂、佐竹、岩城、相馬、最上氏と対伊達連合関係を形成する。
この結果が人取橋の合戦である。天正14年、亀若丸が三歳で死去すると跡継ぎ問題で葦名氏内は再度混乱し、結果として佐竹義重の二男義広を養子に迎える。
葦名氏は佐竹氏をバックに伊達氏との対決の道を選択した訳であるが、この跡継ぎ問題は家内に大きなしこりを残し、葦名氏滅亡の原因となる。
この選択により葦名氏家臣の結束は乱れ、大規模な軍事行動は出来なくなってしまい、そこを伊達政宗に突かれ、内通工作等で反乱、離反を起こさせられる。実家の佐竹氏の軍事援助で何とか支えるが、防戦一方となる。
一方、家中では義広付きの常陸衆や支持派と重臣らとの対立が激化し、内乱の1歩手前の状態であった。
伊達政宗の侵略は激化し、天正17年(1589)高玉城を攻略、相馬領の宇多郡駒ケ峯城、新地城を落とす。
六月猪苗代盛国がついに離反し、政宗が猪苗代城に入ると、義広は猪苗代方面に出陣する。
6月5日ついに両者は摺上原で激突、葦名勢は奮戦するが、後続が動かず敗れる。
敗れた義広は黒川城に逃げ帰るが、重臣が反乱を起こす気配を見せたため、黒川城を脱出、常陸の実家に逃げる。
堅固な向羽黒山城はあったが、家臣団がばらばらの状態では篭城どころではなかったのであろう。
ここで戦国大名としての葦名氏は滅亡した。
常陸に戻った義広は、盛重と名を換え、兄、佐竹義宣に従い、小田原の役後は佐竹氏の与力大名として江戸崎城で48000石を与えられる。
関が原後、兄義宣に従い、秋田に移り、角館城に入る。
そして寛永8年(1631)57才で角館で死去する。
しかし、子の盛泰らに子がなく、ここに葦名嫡流は完全に絶えてしまう。

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