鴫山城(南会津町田島)
会津から阿賀川を南下した南会津町の中心地、旧田島町の中心街の北西に愛宕山がある。
市街からは頂上に電波塔があるやたら目立つ三角形の山なのですぐに分かるであろう。
この山の標高は750m、麓の標高が550m程度であるので比高は200mある。

この山の山頂を中心に市街地にかけての北側の谷間に曲輪を展開させる城である。
特徴としては、山頂部に詰の城を置き、居館、蔵がある北の谷間をその両側の尾根が腕で覆うような形で防御する形式の城である。
当然、谷を覆う尾根には土塁、堀などの防御施設が構築されている。
この形式の城としては栃木県鹿沼市の粟野城とそっくりである。
しかし、疑問なのは何で日当たりが悪い北側に面した谷部に主体部を置くのか、この山の立地上、そのような北向きになってしまうのは仕方ないが、北向きのこの谷間、けっこう、じめじめした感じであり、居住性が良いとは思えないのである。

普通は東向きまたは南向きの谷間に居館等を置く場合が多いと思うのであるが、そんな場所、この付近にはないのだろうか。
ただし、この地、立地上はなかなかのものである。
この地から会津、下野、伊南、昭和の四方向に街道が延びる交通の要衝である。
さらに城のある山、これもなかなか要害である。
南から北に延びた尾根の北端部が城であるが、尾根と言っても、尾根続きが岩むき出しの崖状態で堀切など全く不要。
さらに山の西側から北側に阿賀川が蛇行し、そこに東側の谷から田沢が合流し、これらが天然の堀となっている。
また、この付近は谷間と盆地のように広く、生産性も高く、交通の要衝ということもあって、城下町も発達しやすい広さを持っている。

築城時期は不明であるが、下野の長沼氏が鎌倉時代または南北朝時代にこの地に移り、その拠点として築いたと思われる。
長沼氏はこの地の土豪として統治していたが、戦国時代になると会津の葦名氏の勢力が拡大、永正18年(1521)には葦名氏の攻撃で鴫山城を落とされたたが、後の奪還、長沼氏と葦名氏の抗争は続くが、葦名盛氏の代には完全に葦名氏に屈服する。
天正17年(1589)の摺上原の戦いで葦名氏が滅亡すると、当主長沼盛秀はあっさり伊達政宗に臣従、河原田盛次の久川城攻撃の先方を務める。
しかし、天正18年(1590)の奥州仕置で長沼氏は伊達氏に従っこの地を去る。

その後、この地は蒲生氏の領土となり、鴫山城には蒲生氏郷家臣小倉孫作が6,300石で入城。蒲生氏が去ると、上杉氏が入り、ここには直江兼続の弟・大国実頼が入る。
関ヶ原後、再度蒲生領になると再び小倉孫作が、そしてしばらく城は続くが、寛永4年(1627)が加藤嘉明が会津領主時代に廃城となる。
城は幾多の整備がされているようであるが、今の姿は上杉時代、会津の南を守る拠点として大整備された姿と言われる。
その象徴が復元された大門の石垣@である。

この石垣は崩壊状態であったが、昭和61〜63年に穴太積技術継承者の粟田万喜三によって復元された。
「鉢巻式石垣」と呼ばれる技法が用いられており、蒲生・上杉時代の築造と推定され、関ヶ原の戦いの前に上杉景勝が領内諸城の改修をおこなった際の築造と言われる。

北からみた愛宕山 @御花畑から見た大門の石垣 A御平場は段々になっている。
B大門西側の復元された堀 C大門東の堀は水堀であったらしい。 D本丸に相当する上千畳
E山城部に登る谷から下を見る。 F御茶屋場 G愛宕山山頂の本郭に建つ愛宕神社
H東の尾根の横堀 I東尾根の防衛拠点だった八幡神社の平場 J八幡神社東の横堀

長沼氏時代の鴫山城の構造は、その後の姿とそれほど大きくは変わらないようであり、愛宕山山頂に詰の城を置き、山麓部に居館があったものと思われる。
山上部Gは狭く、あくまで緊急時の避難場所であろう。
北側の尾根途中には主水曲輪、御茶屋場Fと呼ばれる比較的広い平場があり、武器庫、金蔵などの重要物資が保管されていたのではないかと思われる。
居住には適した場所とは思えない。
山城部はこの付近までと言えるだろう。
この付近は典型的な戦国の山城である。
ところどころに石垣の残痕らしいものが見られるので上杉氏時代にも整備はされていたものと思われる。

山頂から山麓に下っていくと、谷間に曲輪、堀が展開する。
下から登ると愛宕神社の鳥居があり、その先が城の主要部である。
この愛宕神社の参道が、大手道であり、侍屋敷跡、大門跡がある。大
門の両側には堀B、Cが復元されているが、ここは水堀であったようである。
この大門の前に堀が復元されている。大門をくぐると、御平庭A、下千畳、上千畳Dがある。
上千畳Dが実質的な本丸相当の場所であったらしく、昭和54年(1979)の発掘では、書院建築の礎石群や庭園状の遺構が検出されている。
この谷間を覆う東側の尾根には尾根上に土塁が、その外側に横堀H、Jが構築され、八幡神社のある場所Iには防衛拠点の櫓が建っていたのであろう。
西側の尾根にも土塁や櫓台跡がある。
なお、外郭遺構は合同庁舎側にもあり、合同庁舎の地も城域であろう。

鳥瞰図は田島町教育委員会の調査報告書掲載図を基に作成した。


田島陣屋(南会津町田島)

現在の南会津町役場のある場所が陣屋跡である。
鴫山城の北下にあたり、遺構は碑と解説板以外ない。
この地は江戸時代、会津松平氏の時代は幕府天領であり、この地55000石を管理する陣屋として幕府が元禄年間に建てたという。
管理は会津藩が行い、享保の絵図では役場庁舎の西側にあったらしいが、寛政2年(1790)に中町陣屋を役場庁舎東側に建てた。
そして、幕末の慶応元年(1865)、戊辰戦争に備え、中町不動様わきに後町陣屋を新たに建てたという。

田部原館(南会津町田部原)
会津鉄道田島高校前駅の西に県道369号沿いに田部原一里塚がある。
ここから北に延びる未舗装の道を進むと館である。
館は、南会津町の中心部、田島の市街地の東、阿賀川と水無川が合流する段丘崖上にある。
川面からの比高は20m、北は阿賀川の崖、西側は水無川の崖で、台地続きの東側、南側を土塁A、Bと空堀で区画している。
単郭の方形館と思われるが、南側にも土塁の残痕のようなものがあり、複郭の可能性もある。
北側以外には土塁があり、南側は特に高く、高さ3mほどあり、南東隅Aは櫓台のように高くなっている。

土塁の周囲には石が転がっており、石で覆われていたと思われる。
堀の幅11mほどあり、土塁上からの深さは4、5mほどあるが当時はかなり深かったのであろう。
曲輪内部は70m四方ほど、やや台形である。
南側に虎口があり、石で補強された土橋@で結ばれている。

館の歴史は不明であるが、この地を得た長沼氏が始めに居館を構えたのがこの館と推定されるが、石積があることから、戦国末期まで使用された可能性もある
航空写真は昭和51年国土地理院撮影。
中央右の四角い部分が館跡。北に阿賀川、西に水無川が流れる。

@南側の土橋は石で補強されている。 A南東端の櫓台、周囲の土塁は石で補強。 B館南側の土塁

折橋館(南会津町北下原)

南会津町役場から国道121号線を会津方面に約2km、県道369号線と分岐して会津鉄道の線路を渡って300mほど行った地点が館跡である。

ちょうど館跡の中央を国道121号線が貫通している。
館跡は宅地と畑で若干の微高地であったことは分かるが、何の遺構も留めない。

鴫山城の長沼氏家臣の館という。
航空写真は昭和51年国土地理院撮影の館跡

岩之館(南会津町静川)

南会津町役場から国道289号線を桧沢川沿いに西の伊南方面に約7km進んだ黒沢地区の南に岩剥き出しの山、その名もずばり大岩がある。
下の黒沢地区の標高が600m、大岩が750m、比高が150m、ここが館跡である。
後で調べるとその少し南の標高852m付近の山にかけてが城域のようであり、大岩は先端の物見台のようである。
大岩の上には神社があり、当然、下から登れるはずである。
しかし、岩を見ただけでゲップが出て行く気を喪失。
こういう城はそのうち、余湖さんが行くに違いない。
まあ、そのレポートを読んでから行くかどうか決めることにしよう。
長沼氏の本拠、鴫山城の西を守る城であり、桧沢川沿いの街道を監視する城であろう。