久川城(南会津町青柳/小塩)
名城として名高い城であるが、福島県の南会津の山に囲まれた田舎、旧伊南村にある。
伊南川に沿った幅500〜700mほどの盆地が続く。
盆地のほとんどは水田になっているが、冬は雪に閉ざされるのだろう。
昔はかなり貧しい場所だったに違いない。
こんな不便な地であるが、ここは会津と越後魚沼、上州沼田と通じる街道が通っており、昔は重要な交通の要衝だったらしい。

しかし、現在でもここまで行くのが容易でない。
道路は結構整備されていて走りやすいのであるが、主要な町からの距離があり、必然的に時間がかかる。
会津田島から西に向かい国道283号を走り、さらに山口交差点から国道401号線を南下したのであるが、この道沿い、コンビニが全くないのである。
秋田には「セブンイレブン」がなかったが、この道沿いには「セブンイレブン」どころか、「ローソン」も「ファミマ」も「CoCo」もコンビニそのものがないのである。

蕎麦屋さんなどはあるのだが、城巡りの時間の節約上、そんなところでゆっくり食事という訳にもいかない。
そんなこんなで昼飯食ったの午後3時半だった。
空腹を抱えた見学だった。でも腹は空っぽだったが、お城には満腹。

さすが評判どおり、しっかり造られている城であり、見所は多かった。

でも、本郭周囲の堀は異様。この部分は蒲生氏支配時代のものというが、岩手の九戸城本丸部とそっくり。

これが蒲生流というやつなのだろう。
こんな遺構は周辺の城にはない。

今残る城の姿は元和廃城令時の姿を伝えているというが、はたして戦国時代はどうだったのだろう。

この城は元々はこの地の土豪、河原田氏の城だったという。
この伊南川流域一帯は、頼朝による奥州藤原氏攻撃、いわゆる文治5年(1189)の奥州征伐の戦功で、下野国住人の河原田盛光に与えられ、以来、戦国末期までの400年間にわたり、河原田氏が土豪として治めていた。
しかし、戦国時代たけなわの天文12年(1543)頃、会津の葦名盛氏の勢力が拡大、このころ河原田氏は葦名氏に臣従したものと思われる。
ところが、天正19年(1589)、摺上原の戦いで葦名氏は滅亡、伊達政宗が会津黒川城へ入る。
そして旧葦名領の征服を図る。

しかし、河原田盛次はこれを拒否。この背景には伊達氏の勢力拡大を恐れる上杉氏、佐竹氏のバックアップがあったようであり、援軍も送られている。
このため、伊達政宗は柴田但馬や旧葦名家臣、鴫山城の長沼盛秀に攻撃させる。

この緊迫した状況で整備されたのが久川城である。
当時、河原田氏は久川城の東下の東館を拠点にしていたといい、詰の城は駒寄城であり、ここ久川城にも城があったらしい。
おそらく河原田氏は駒寄城では防衛できないとして、この久川城を防衛戦闘用に整備したという。

伊達軍は久川城を攻撃するが、直接、城を攻撃するまではできなく、伊南川河畔で攻防戦があったというが、損害の多さと兵糧の不足で撤退したという。

長沼氏などは元同僚を攻撃することになるので、始めからやる気はなかったのであろう。
この話は『伊南合戦記』、『泉州記』などに書かれているが、これらは後世に書かれたものであり、かなり脚色が入っているのであろう。
どこまで事実かは今では分からない。

しかし、盛次は翌年の秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、領地は没収されてしまう。
改易された河原田氏一族は、旧主であり佐竹氏の元にいる葦名義広を頼り、家臣となって常陸国へ行った者もいた。
また、この地に帰農した者などがいたようである。
常陸へ行った河原田氏一族は江戸崎に住み、その後、佐竹氏とともに秋田に移り、葦名義広が入った角館に移り、そこに居住した。
葦名氏は断絶してしまうが、河原田氏はその後入った佐竹北家の家臣となり、角館に青柳家、小田野家と並ぶ、武家屋敷河原田家として残る。
河原田氏の去った伊南にはその後、会津に入った蒲生氏の領土となり、その後上杉氏、そして再度蒲生氏が入り、再蒲生時代に久川城は現在残されている縄張りの城に改築された。

その後、元和廃城令で廃城となったという。
城址は畑などに利用されていたかもしれないが、遺構の破壊はあまり進んでいなく、現在は城址公園となって廃城時の姿を良く伝える

城は東下に伊南川を臨み、西は滝倉川に面した崖となっている南側から北側に半島状に突き出た比高70m(最高部628m)の尾根状の山にある。
山の北下で滝倉川が合流し、さらに伊南川と合流する久川が麓を流れる。
この半島状山の北側が盛り上がっており、その山上に連郭式に曲輪が展開する。
山は南北約565m、東西約250m。このうち曲輪が展開するのは東西110m、南北400mにかけてである。
この山、尾根続きの南側以外の周囲は急崖であり、登るのは結構疲れる。

@北の山麓にある枡形跡。 A@から登ると北郭の枡形虎口に出る。 B大平場内と本郭の土塁(右)。
C本郭北の堀、水堀だったらしいが狭い。 D本郭内の櫓台跡。 E本郭南の堀。西側の尾根から竪堀として下る。
F西側の尾根は土塁に使われている。
その最高箇所には櫓があったのだろう。
G二郭内部 H二郭、三郭間の堀。
この堀も西側の尾根から竪堀として下る。
I本郭前から見た南東の山裾と伊南川 J南郭の虎口 K南郭南側の土塁と横堀

城の北と南の麓部分にそれぞれ枡形虎口@が設けられ、九十九折りの山道を登ってようやく城内に入る。
そこは枡形になっている。
かつて野面積石垣の枡形虎口Aがあったといい、その石垣の石らしいものが転がっている。
入った場所が北曲輪であるが、北側が一段低く、北出丸としている。
70m×30mの広さである。北郭の間には堀があったようである。
この北郭は太平場Bとも呼ばれている。

なお、北郭内部にも堀跡らしいくぼみがあり、本来は2つに分かれていたのではないかと思われる。
(再蒲生氏時代に北郭に山里曲輪を造ろうとした時、埋めたのか?)

本郭の北側Cと南側Eには堀があり、東側も覆っている。この堀は水堀であったという。
この山城にそんなものは不要と思うが、この部分が九戸城にそっくり。
蒲生氏流という。飾りのようなものかもしれない。

本郭は南北110m、東西65mの広さがあり、郭内から高さ2mほどの土塁がある。
南西隅の稲荷神社がある場所に櫓台Dがあったと言われる。
虎口は東側であり、直ぐ東側が北郭の延長のような水手曲輪であり、内枡形構造になっていたらしい。

この城で面白いのは本郭、その南に続く二郭、三郭の西側に大土塁のような削り残しの尾根が存在することである。
風避けの土塁を果たしているようである。
この部分には櫓が建っていたものと思われるが、標高628mの最高箇所のピークFが本郭の西側ではなく二郭側にあるのである。

ちなみに本郭等の平坦部の標高は600m程度である。
本郭の南が二郭G、その南が三郭であるが、西側の大土塁のような尾根から続く、竪堀Hで分断される。
伊南川に面した東側の縁部が通路だったようであり、三郭、二郭及び本郭東の曲輪に虎口跡が残る。

三郭の南に扇状に南郭が段々に展開J、Kし、南端に堀が配置される。
ここから東下に下る道があり、平地近くに角馬出がある。
堀切によって区切られている。
城の東麓は武家屋敷跡と推定されている。

鳥瞰図は伊南町教育委員会作成図を参考に作成した。

西館(南会津町古町館) 

旧伊南村役場(現南会津町伊南支所)の地がこの地の土豪、河原田氏の居館「東館」跡であるというが、そこには何の痕跡もない。
しかし、それに隣接する西館跡は、現在保育園であるが、北側以外の3方を高さ3mほどの土塁が囲んでいる。
(北側は破壊された可能性もある。)
50m四方くらいの大きさと思われる。
西館は河原田盛光が娘の婿に結城朝光の三男・長広を迎えて居館させたものというが、西館、東館はとなり同士、元々は1つの館の曲輪であり、分家を違う曲輪に住まわせたものと思われる。
多分、土塁前の道路は堀の跡であり、堀を介して両館が隣接していたのであろう。
航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。