小田山城(会津若松市門田町)
小田山と言えば、戊辰戦争で官軍がアームストロング砲を据え付け、会津若松城を砲撃し、会津藩降伏の最大の要因となった場所でもある。
すでにこの予想は260年も前に上杉景勝、直江兼続が予想しており、それが神指城築城の引き金となったと言われている。

しかし、この山には葦名氏の山城があり、向羽黒山城が築城されるまでは、黒川城(後の会津若松城)の詰めの城であったという。
この城については、『会津古塁記』や『会津鑑』『旧亊雑考』『富田年譜』にも記載されているようであるが、戦国末期に廃城になり、城址が墓地などに利用されたため、かなり改変を受けているようである。
それでも帯曲輪跡は明瞭に確認できる。
墓地も曲輪であると思われる。
北側の宝積寺裏から登って行くと寺跡や葦名氏の廟跡(移転されている。)があり、例の官軍の砲陣跡がある。

この付近の標高は280m、会津若松城の天守はここから1.5kmの距離にあり、標高220m程度の城内も丸見えである。
どんな精度が悪い大砲でも砲撃すれば、間違いなく城内のどこかには着弾することは見え見えである。
1日1000発を砲撃したというが、こんなに打ち込まれたら堪ったものではない。

その場を過ぎて登ると、復元された冠木門(かぶきもん)と板塀、柵列がある。
これは、戦国時代の築城の手引書「築城記」別名「要害之事」を参考に復元したものという。
おそらく小田山城にもこのような門があったのではないかと思われる。
この門の上が段々状の帯曲輪になっている。

トイレのある場所も曲輪で、その上の丹羽家の墓地も当然、曲輪であろう。
頂上部に「田中玄宰」の墓があるが、丹羽家の墓地との間には堀切があったように思われる。
「田中玄宰」の墓付近から東が標高372mの最高箇所にあたり、ここが本郭ということになる。
さらに東側の尾根を進むが、そこには物見台のようなピークが2箇所ほどあり、堀切があるだけである。
この堀切が一番明瞭な城郭遺構である。

土塁もあるというが、どれのことか良く分からない。
今回は見なかったが、南斜面の青木地区にかけて多くの曲輪が段々状に築かれているという。
向羽黒山城が完成以降は、物見程度が置かれていたのではないかと思われる。
残念ながらほとんど城郭遺構が失われている城であり、城という意識がなければ、段々状の曲輪などは気が付かないであろう。 
下の写真の番号の撮影場所は左の図の番号に相当する。

小田山の先端部には葦名氏の墓所があった。 中腹にある官軍の砲陣跡。 砲陣跡から見た会津若松城の天守閣。
@ 山頂に近づくと小田山城の復元冠木門 冠木門脇の柵列。多分、当時もこんな感じだっ
たのだろう。
A 冠木門跡の上側には段々状の曲輪がある。
B 山頂付近の丹羽家の墓地。
この付近から主郭部。
C 丹羽家墓地からみた頂上部、ここが本郭
だろう。
本郭から先は細尾根、堀切Eにカモシカが。
ほとんど唯一の遺構の堀切E D 尾根上には物見台と思われるピークがある。 物見台から見た北方、右の山が飯盛山。

(会津若松市史を参考)

飯盛山城(会津若松市
会津の飯盛山と言えば会津若松城(鶴ヶ城)と並ぶ、会津若松の代表的な観光地、白虎隊の聖地である。
しかし、この山に城があることはあまり知られていない。そこで、その城にチャレンジ。

飯盛山の標高は372mある。白虎隊の墓がある地の標高は290mなので、そこから80mも高い。
ちなみに市街の標高が220,30mなので比高は140,50mもある。
結構、高い山である。この山は東の山地から西に張り出した尾根先端部が盛り上がったものである。

白虎隊の墓地まではいつも観光客が大勢いる。しかし、城に向かう人はまず、いない。
城のある山頂へは「さざえ堂」の脇から道が付いているので、これを行けばよい。
しかし、結構な藪道である。でも、道があるだけまし。

道を登ると北側に平坦地がある。ここは間違いなく曲輪である。
40m×15mほどの広さがある。でも内部は藪であり、スズメ蜂が威嚇してくる。これは恐怖である。
ここから南側の尾根を登る。
尾根にも所々に小さな平坦地があり、これも曲輪であろう。

頂上部に続く尾根から東下を見ると、竪土塁が下り、横堀状の遺構がある。
山頂は長さ65mの飯盛山古墳という前方後円墳があり、城はその古墳の後円部を平坦化して主郭にしている。直径は20m程度。石の社がある。
例によって社に一礼して周囲を探索。
ほとんど山頂は藪状態である。

それでも、南側の前方部や周囲に曲輪を作り出していることが確認できる。
南東部にも古墳(円墳)があり、ここも櫓台に使っていたようである。堀切は北側に見つけた。東側の尾根鞍部にも存在するようであるが、確認を忘れた。

中腹の白虎隊の墓付近やさざえ堂付近が居館跡かもしれない。
いずれにせよ山頂部の遺構は大したことはなく、物見台、狼煙台、一時的な避難場所程度の城である。
北方向、東方向からの狼煙リレーを小田山城、黒川館に伝えるのが最大の役目であり、葦名氏時代の城であろう。

西側から見た飯盛山。中腹に白虎隊
墓がある。
@ 一番、北にある曲輪。 A本郭東側の曲輪内。藪である。
B本郭にある社。ここは前方後円墳
の後円部。
C本郭南側の円墳との間 D本郭北下の堀