白河の城2

小屋山城(旗宿)
白河の関の西側の430m、比高50mの山にある遺構の点では、評価の高い城として知られる。
社川の西にあたり、旗宿の集落からの道の先にある本郷橋を渡って見える正面右側の山が城址である。

橋をわたると、堤防状の突き出しが山側から延びている。
そこを入り、竹林の中を登って行く、ちょっと息があがり始めたころFのピークに出る。
このピークの北側に城が見える。

このピーク、城内より高く、木がなければここからは城内が丸見えである。
しかし、このピーク、物見台ではあったとは思うが、防備は考えられてはいない。
ここを占拠されたら城が危険に晒されると思うが、何で周囲に堀とか、曲輪を設けないのだろう。

そのピ−クから北に少し下ると堀@となる。
この堀が素晴らしい。
堀は主郭部の周囲を1周する。
主郭部である曲輪は東西50m、南北110mが曲輪、内部は2段になっていて、南側が本郭、北側が二郭ということになろう。
本郭南東が一段高い。内部は小竹が生えているがすっきりしている。
ここに物見台があったと思うが、Fのピークとの関係は如何に。
多分、ここに櫓があり、Fのピークを占領された場合、攻撃できるようになっていたのかもしれない。

主郭の周囲に堀が豪快に回る。郭からの深さは最高10m、低い場所でも5m。あまり風化している感じはない。
これでもかなり埋まっていると思うが、当時はどれくらい深かったのだろう。
西側は西側の山からの尾根続きであるため、二重の堀が構築される。
東に土橋があり、東下に通じる。これが大手道であろう。
地元の人によると、山の北側に通じ、入口部に鳥居があったそうである。
だいたい、周囲の堀部やその外側の腰曲輪までを入れると東西100m、南北150mくらいの規模といえるだろう。
なかなかしっかりとした城である。

結城祐広の弟左衛門朝泰が居館し、天文の頃、子孫の関備前守が館主であったという。
しかし、これは白河の関にある「関の森館」のことではないだろうか?

この山小屋城は居館ではない。
ここが関の森館の詰の城なのであろう。
位置からして下黒川館同様、那須氏との境目の城であろう。
那須氏とは那須氏が佐竹氏と同盟した時、白河結城氏と何度か戦闘を交えている。
詳しい状況は分からないが、ここで戦闘が起こっているかもしれない。

佐竹氏の攻撃で落城、しばらく佐竹氏の城番が置かれたが、和睦して再度、関備前守が館主に復帰したという(奥州永慶軍記)記録があるが、天正7年のことだろうか。
それにしては、下黒川館に比べて、遺構にメリハリがあり、風化もしていない。
関が原直前の徳川軍と上杉軍の対陣で、上杉軍が整備し、兵を入れていた可能性もあるのではないだろうか。

@本郭南側の堀。右側がFのピーク。 A本郭西側の堀。 B本郭西側の二重堀の外側の堀 C本郭南端の高まり。南下が@の堀
D東に通じる土橋。 E二郭北側の堀 F主郭部南のピーク上は物見台か? 東側から見た城址の山

白河の関(白河市旗宿)
 勿来関や日本海側の念珠関(山形−新潟)とともに奥羽三関といわれ、知名度は抜群であり、古歌に多く歌われている文学の世界でも重要な場所である。
 しかし、現実は山奥の辺鄙な場所にあり、ここまでの交通の便は非常に悪い。
 白河市からは県道76号線を栃木県黒羽町方向に向かい7kmほど南下した山間の地にある。
 白河の関は、蝦夷に対する防御や征服のための拠点、交易物品(奪取品?)の集積地として設置された。
 大化2年(646)に出された「改新の詔」に記録があることからこれ以前には既に存在していたらしい。
 廃絶は、奥州藤原三代秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉るべからず」と遺言で語ったということが「義経記」に書かれているため、このころ、白河の関はまだ存続していたようである。
 また、浄土宗西山派の祖、証空上人(1177〜1247)の詞書や歌から、上人が陸奥を訪れたとき白河の関は既に関の体裁を成していなかったと思われるので、廃絶の時期は、秀衡が死した1187年から上人が死した1247年の間と推定することができると考えられている。
 源義経が鎌倉に向かった時通った場所も、その後、頼朝の奥州征伐で大軍が通ったのもここである。
 関の場所については久しく不明であったが、江戸時代中期、時の白河藩主松平定信が地図や歴史書、詠歌、老農の話をもとにしてここを白河関跡であると推定し、寛政12年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。
 昭和34年から38年までに実施された発掘調査では、竪穴住居跡や堀立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器・須恵器・灰釉陶器、鉄製品などの遺物が出土している。
 出土した土師器の中には「門、大室、□船」などの墨書土器がみられ関が存在していた時期と一致する遺物も多い。
 昭和41年に国の史跡に指定されたが、その後も、古代の白河の関の所在については種々論じられている。
  文治5年(1189年)、奥州藤原氏が滅び、白河に結城朝光が入ると街道は、西方の奥州街道(国道294号線)に移り、下野との境に新たな白河の関が築かれた。境の明神が建つ明神峠がその地である。
 以来、ここ「古関」に対して「新関」と呼ばれている。

その白河の関であるが、山間の独立丘陵に築かれている。
 この丘は低地側の北から見ると比高25mであるが、南側から見ると10m程度の比高。直径300m程度の大きさである。

 おそらく周囲は湿地帯であり、西側に街道が通っていたのであろう。
 関のあった場所には現在、白河神社が建つ。西からの参道の斜面には5段の段郭があり、浅い堀跡がある。
 神社の地は平坦であり、北側も段郭が築かれている。ここまではいかにも古代の関といった雰囲気である。

 しかし、神社の南東側を見ると古代から中世初期とはとても思えない遺構がある。
 まず、幅10m以上もある大きな堀が南側と東側に向かって延びている。
 郭内には土橋を経由して入るが、郭内は北側と東側に高さ2、3mの土塁がある。
 南東の虎口から出ると堀が北側から東側を回って半周し、外側に土塁がある。
ご丁寧に南東端には櫓台のように高くなっており、その部分に横矢がかかっている。
 これはどうみても横堀を持つ戦国時代の館である。

 ここが関の責任者の居館であるというが、平安末期に既にこれほどの城郭技術は存在していたのだろうか?
戦国時代に誰かが手を加えているとしか思えない。
戦国時代、この地は白河結城氏と那須一族芦野氏の領国境界に近いので白河結城氏が整備した可能性がある。
さらに関が原前夜、白河に陣を置く上杉軍と黒羽などに前線を置く徳川軍のにらみ合いが起る。
その対陣の前哨陣地として上杉軍によって整備された可能性も考えられる。
白河神社参道入口の碑。 館への土橋から見た関の中心建物があ
った場所に建つ白河神社。
館跡西側の堀。微妙に横矢がかかって
いる。
館内部から見た北側の土塁。 館東の横矢がかかった前面に土塁を
持つ横堀。
神社参道南の堀?この部分は5段構造
になっている。

白川城(白河市八竜神)
白河市と言えば、白河城が有名であるが、大体は、こちらは近世城郭として改変を受けている「白河小峰城」のことを指す。
こちらの白川城は良く混乱を招くが、「河」ではなく「川」という字を書く中世城郭である。
鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を支配した白河結城氏の本城と言われているのがこの白川城である。

白河結城氏は秀郷流藤原氏の子孫であり、下野の結城氏から分かれて一族である。
小山政光の子朝光に始まった結城氏は、源頼朝の奥州征伐の軍功で、奥州藤原氏を滅ぼし手に入れたこの地を恩賞として貰いこの地にその一族、二代朝広の次男祐広が正応2年(1289)に移住して白河結城氏を起こした。
鎌倉時代に本拠が置いた場所がどこかは不明であるが、関川寺館なのであろうか?
すでにこの頃、白川城の前身の館がここにあったとも言われている。

この城が歴史に登場するのは南北朝期である。
南北朝期、当主宗広は南朝方に付き、活躍し建武元年(1334)陸奥国府の式評定衆に任命され、勅裁により結城氏の惣領となり、本家の下総結城氏をその支配下にも置いた。
宗広の跡は孫の顕朝が継ぎ、顕朝の父親朝が分家小峰氏を起こし一族の興隆期を迎える。
この小峰氏が築いたのが小峰城とも言われる「白河城」である。

しかし、永正7年(1510)内紛が起き、その勢力は減退し始める。
これを狙って佐竹氏が北進を開始、東館、羽黒山、寺山、赤館と次々と制圧。
白河結城氏は葦名氏と連合して防戦するが、結局は圧倒され、天正3年(1575)義顕が小峰城を留守にした際に、庶流の小峰義親が白川城を乗っ取る。
この混乱に乗じて常陸の佐竹義重は白河領全土を制圧。
義顕を追い出した義親は結局、佐竹氏に降伏、佐竹義重の二男義広を養子として迎える。
この当時に白川城から本拠が小峰城に移され、白川城は詰めの城の位置付けになったものと思われる。
白川城の別名が搦城というが、これはこの時から小峰城の詰めの城という意味でこう呼ばれたのであろう。
または、東側の地名が搦であり、文字通り、搦目城だったのか。

しかし、ほどなく義広は芦名氏を継いだため、白河結城氏の当主には再び義親が返り咲く。
一方、追い出された義顕の復領はならず、その子朝綱は秋田藩佐竹氏に仕え子孫は秋田藩士となり存続する。
また義顕の庶兄晴常の子孫晴定は水戸藩に仕えて水戸結城氏として存続している。
その末裔が、幕末維新期に赤報隊事件を起こす相楽総三である。
一方、芦名氏が滅亡し、伊達政宗の勢力が増大すると伊達氏に属するが、小田原の役に参陣しなかったため豊臣秀吉に取り潰され、伊達氏の家臣として存続する。

@白川城の駐車場からは本郭への階段が延びる。 A本郭内部、西端に櫓台がある。 B本郭西虎口から見下ろした二郭の土塁
C 本郭南下の三郭 D 本郭東下の堀切 E 本郭北側の曲輪
F 本郭北尾根曲輪群の堀切 G 北側の大横堀 H Gの横堀の先端部は埋もれている。

白川城は白河駅、小峰城の南東1.5km、白河市街地の東の谷津田川と藤乃川の間にはさまれた山に築かれた山城であり、比高は約100m。
城跡は戦前、南朝方の武将を盛んに顕彰したことにより、国史跡となっている。
このため本郭の真下まで車で行くことができるまで整備されている。
しかし、その道は林道並の未舗装のがたがた道である。

西側の城址入口の碑が立っている道から進むと、途中に平坦地がある。
ここも館等、何かの施設を置くのにふさわしい場所である。
この場所は周囲の尾根に囲まれていたようである。

城は規模はそれなりであるが、これがこの地方に武威を誇った白河結城氏の本城であったのかと思うほど古式な印象を与えるものである。
国史跡でなかったら藪に埋没してしまったであろう。
事実、本郭とその周辺以外は藪化している。
林道をぐるっと東に曲がって登ると、本郭南直下の駐車場に出る。ここも帯曲輪である。
その西側に腰曲輪が3段ほど展開しているここが三郭Cである。
ここから見上げる本郭は10m以上の高さがあり、切岸の勾配が急でとても登ることはできない。
本郭内部、北側に虎口の土塁がある。
現在、この駐車場のある場所から本郭に直接登れる階段@が付いているが、これは後世のものであり、当時は西側の腰曲輪を通り、二郭と推定される本郭西側下の曲輪に入り、北側から本郭に登るのが登城路であったと思われる。
二郭と本郭の入り口部に土塁Bがあり、虎口が開いていることからもそれが分かる。
三郭から北東を見ると堀切がある。この堀切を東に抜けると、腰曲輪が本郭の東側にも廻っているのが分かる。
二郭は40m×30mほどの広さであり、結城氏の供養塔がある。
西側が高くなり数段の小曲輪がある。その先が藤沢山である。ここにも普通は曲輪があるはずであるが、ピークはただの山、尾根筋には堀切もない。
北側の谷津に降りる道が付いているが、この道は急坂である。
この先の藤沢の集落が居館跡ということである。藤沢集落の北東側の山にも曲輪があるという。
三郭から本郭を見ると横矢がかかっている。本郭の北側は尾根状になっており、曲輪が展開する。
しかし、その内部、平坦ではない。本郭からの高さの差も小さく、切岸の勾配は緩やかである。
おまけに内部は藪化している。数段に別れて高度を下げている。
そこを北に向かうと堀切Fがあり、土橋が西側にかかる。
土橋の西側は曲輪Eになっており、北下に下りる虎口がある。
そこから壮大な堀が北に延びる尾根の西側に延びる。この堀G、深さは10m以上、幅は20m、長さは途中に折れを持ち、200m程度続く。
しかし、途中で堀は浅くなり、土塁付きの帯曲輪Hのようになってしまう。
この堀の部分は見事であるが、中途半端、工事途中で放棄されたような感じも受ける。
最高個所の本郭Aは東西50m、南北80m近くある大きさを持つ。
ここはけっこう風がきつい。冬は北風が容赦なく吹き付ける。
このため、居館を置くには適当とは思えない。
あくまで詰の場所であり、武器庫や食料庫があったのではないかと思う。
不思議なのは本郭の南東側、尾根が続くが、本郭南東の堀切を過ぎても尾根には何もないのである。
堀切もなく、全く無防備である。色々、歩きまわったが、結局、城郭遺構は皆無であった。
東の美濃輪地区の山には曲輪群は展開するが、ここからは距離が離れすぎている。
少なくとも、南東方向から山を移動すると、本郭のすぐ裏まで来れてしまうのである。
北方向には厳重な曲輪群を持つが、南東方向が無防備というのは理解できない。
これは、佐竹氏の侵攻してくる方向がガラ空きということになる。
案の定、佐竹はこの方学からこの城を攻略したようであるが。
一方、北方向の防備は白河結城氏の内紛の証拠であり、「小峰城」に対するものか?
それとも佐竹占領時代に北方向の葦名氏、伊達氏向けに佐竹氏が増設したものであろうか?
いずれにせよ古いのか、工事途中なのか、中途半端な印象を受ける城である。

薬師館(白河市双石)
双石館ともいう。
阿武隈川の南岸を白河から石川方面に県道11号(御斎所街道)が通るが、双石地区に白河ラーメンで有名な「とら食堂」がある。
その南東に見える山が薬師館である。

この山は南東側から北西側に半島状に張り出しており、標高は360m、比高40m程度の山である。
山先端部下を双石地区から南湖公園を結ぶ道路が通る。
右下の写真は北西側「とら食道」前から見た館跡の山である。

先端部から150mほど行った最高個所に本郭を置く、細長い尾根式の城であるが、切岸は明確であるが、堀はかなり埋没している。

先端部から本郭部までは特段の遺構はない。
いきなり堀切があり、その先に腰曲輪を持つ段々状の本郭部がある。最高個所の曲輪は50m×30mほど、広く平坦である。

その裏側、南東側には土橋があり、土橋の両側に堀がある。土橋を出ると馬出のような曲輪である。

その先は70mほどにわたりだらだらした下りとなり、堀切または虎口がある。
さらに南東の段々に尾根が加工された曲輪が100mほど続き、最後は自然地形を利用した深さ10mの堀切で終わる。

白河城の東を守る城館であるが、それほどの規模ではなく、街道を監視、侵入した敵を牽制する目的の城と推定する。

@本郭内は平坦でけっこう広い。 A本郭の南下の横堀 B 南東下側にある虎口?

館主は白河結城氏家臣、佐藤大隈守忠胤という。
彼は譜代の家臣ではなく、永正年間(1504〜1521)年)の頃、陸奥国信夫庄に行く途中、白河に立ち寄り、結城晴綱の知遇を得て家臣となり、この地に所領を与えられたという。
その後、双石駿河守と名乗ったという。
小田原の役後の秀吉による奥州仕置で白河結城氏が没落すると、帰農し、江戸時代にはこの双石村の庄屋となったという。(白河市史参照)

結城ヶ館(白河市田島)
阿武隈川の南岸を白河から石川方面に向う県道11号(御斎所街道)田島地区の南に市立五箇中学校があるが、その南側が館である。
(ということになっているが、発掘報告書では城郭遺構は検出されなかったという。)
ここに田島農村公園があり、その南側を覆う山に堀切があった。
また北面が段々状になっている。

これは期待できそうとその山の西側の高い部分が主郭部と思い、突入したが、三角点のある404mのピークは平坦化されており、周囲に帯曲輪のようなものがあり、烽火台か何かあった感じではあったが、尾根筋には堀切さえない、ただの山に近いものであった。

どうも、田島農村公園とその西側の角折神社付近が館跡であったらしいようであるが、発掘調査では何も検出されていないのはどういうことか。
もともとは神社のある部分は五箇中学校側につきでた尾根状であったらしいが、削られて今の形となり、削った土砂で東側の谷津を埋め、そこが農村公園になったという。
左のイラストは農村公園整備前の状態を再現してみたものである。

現在も溜池が残っているが、以前はもっと大きかったものらしい。
しかし、それ以前の発掘で何も遺構が検出されていないという事は、公園等に整備され隠滅してしまった訳でもないようだ。

名前のとおり、白河結城氏が最初に館を置いた場所と言われていたようだが、それは神社西側の「小字」、その名前に惑わされているのかもしれない。

白河結城氏2代祐広の子の広堯が田島に住み、田島館を居館としたというので、「結城ヶ館」が存在していたとすれば、すぐ北にある平地城館である田島館の物見、狼煙台の役目だったのかもしれない。

なお、田島館については、小峰義親が謀反を起こした時、田島館当主、田島信濃守は結城義顕を迎えたため、義親の軍勢の攻撃を受け、義顕を逃がしたのちに落城、討死したという。結城ヶ館の南側の清光寺は田島氏の菩提寺という。
山上の状態はまさに烽火台のような感じであり、さらに麓からも城郭遺構が検出されていない事実から田島館の物見台、烽火リレーの中継所がこの館の役目ではなかったと思う。

@ 中学前から見た館跡。
 手前の溜池は山を崩して土砂でかなり埋めたとか。
A 公園南側の尾根にある堀切 B 標高404mの三角点のあるピークは狼煙台か?

百目木館(白河市舟田)
阿武隈川沿い、北岸に羽黒山館がある。
全面岩盤のやたら目を引くテーブルマウンテンである。
その羽黒山館の阿武隈川を挟んで対岸の平地にあった。
「あった。」というのは耕地整理で隠滅しているためである。

「白河風土記」には「結城氏家臣、百目木掃門介の館で、江戸時代までは堀が残っていた」旨の記載がある。
佐竹氏の攻撃を受けた時、百目木修理は船田氏親子を百目木館へ入れて、自分自身は打って出て戦ったが多勢に無勢で敵わず、松林寺の入り口まで後退したところで力尽き息絶えたという。
この伝承によるなら佐竹氏の攻撃で落城したことになるが、防衛機能が少ないこの程度の小さな平地城館に拠って戦うものだろうか。
発掘によると東西75m、東西57mの方形館であり、13世紀後半の東磁片が出土しているという。(白河市史参照)

館があった場所。左の山は羽黒館 昭和50年の国土地理院の航空写真に写る館跡。

関川寺館(白河市愛宕町)
「せきかわじ」ではなく「かんせんじ」と呼ぶそうである。
白河市役所の西側にある曹洞宗の寺である。
開山は南北朝時代に活躍した結城宗廣という。彼の墓もここにある。
しかし、この関川寺は元は関川窪にあったが、この場所に天正9年(1581)に移転したものという。
江戸時代には妙徳寺などと共に寺町を形成し小峰城の南方の出城であったという。
ということになっているが、こここそが、白河結城氏がこの地に来て始めて構えた館という。
今では「関川寺館」なんて言っているが、本当は何て呼んでいたのか分からない。
本来は「結城氏館」と言ったほうが妥当なのかもしれない。

寺西側に残る堀と土塁(南側) 寺西側に残る堀と土塁(北側) 館内にある結城宗廣の墓

南側の谷津田川を堀とし、東西220m、南北180mという巨大方形館であったらしいので、白河市役所付近までが城域であったと思われる。
遺構は西側のみに土塁と堀の一部が残り、横矢や櫓台もある。
内側は土塁上まで墓地になってしまっていて、内部から見ると変な感じである。
土塁の高さは4mほど、櫓台では5mほどもある巨大なものであり、これが150mほど続く。
この土塁等の規模から戦国時代も使われていたと推定される。小峯城に対して「南城」と呼ばれていた城こそがこの館であったようである。

全貌を推定すれば、足利氏館や那須氏初期の居館、神田城のような感じの館であったのであろう。
鎌倉時代の代表的な守護館といえるだろう。
西側のみしか遺構が残存していないのはつくづく惜しい。

館山館と小屋ヶ上館(白河市大和田)

東北線久田野駅の西に右の写真のごっつい目立つ岩山がある。
これが石山ともいう館山館である。
北側の小屋ヶ上館の出城、物見であったようである。
標高は395m。比高は70mほどである。

現在は2段構造になっているが、これは久田野石の採石でこんな形になってしまったことによる。
これにより遺構もかなり失われているようである。




この館山の北が一段低くなり、切通状に道路が通る。
この道路の北側の山が小屋ヶ上館である。
下の写真は西側から見た館跡である。
この道路沿いの墓地の裏から上がって行くと、城址に行ける。

この墓地の西側に尾根状に張り出した平坦地Eが延びるが、これも曲輪であろう。
その北には、石垣造りであったと思われる虎口@が残る。
この虎口を通ると道、これが大手道と思われるが、東に向ってから西に折れ、南側斜面を覆う横堀Aの堀底を通っていたようである。

この大手道から敵が侵入し、横堀に入ると本郭側からの攻撃に晒されることになる。
一方、石垣虎口の北側は抉れており、井戸のような感じである。
ここは岩盤が剥き出しである。この岩を白河石といい、後世、切り出しが行われていた部分もあるようであり、このためか、横堀も一部、崩されている。
この横堀、かなり埋没しているが、南側から西側を覆っていたようである。

この横堀の北側が高さ5mほどの塁壁になり、その上に腰曲輪があり、さらにその上、4mが本郭Bである。
本郭は東西50m、南北40mほどであり、西側が膨らんだ感じである。
標高は館山館と同じ390mほどである。
北東側に帯曲輪Cがある。北側は尾根続きとなり、2,3段の小曲輪を経て、堀切Dで終わる。

一方、横堀をとおった道はこの堀切に出てから、南に折れ本郭に入ったようであり、かなり迂回させられる。
鳥瞰図の青線で示したルートが登城路である。

この大手道の設置法だけが、非常に技巧的であるが、曲輪は段郭で構成した感じで古いように思える。
館主は白石出雲守、永禄年間には白石刑部大輔の名がある。
永禄年間に廃城になったという。白川城の北東3kmに位置し、この方面の防衛拠点であろう。

@石垣造りであった虎口 A本郭部南下を巡る横堀 B本郭内部は広葉樹の林
C本郭北下の帯曲輪 D北端にある堀切 E南に延びる平坦な尾根も曲輪だろう。


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