白河市、旧表郷村の城館
硯館(白河市(旧表郷村)番沢硯石)
関山618mの南東1km、硯石集落の北の山、白河の関と表郷の中間地点、社川が南の低地を白河の関から表郷方面に流れ、県道388号線が館跡の山の西裾を通る。 |
東側から見た館跡の山、左の道路が県道388号 | 館跡の山山頂はただの山、狼煙台? |
天王館(白河市(旧表郷村)河東田)
古矢鎌館の前の県道277号線を白河方面に約2.5q行くと、比高20mほどの平べったい独立した丘が見えてくる。
この丘の大きさは200m×300m程度である。北側以外は低地に面しており、当時は3方を湿地帯に囲まれていたものと思われる。
丘には白幡神社が建つ。ここが天王館址である。
神社参道を登るが参道の南側は土塁状になっており当時のもののようである。 参道は石段となるが途中帯曲輪のようなものがある。神社の建つ頂上部は三角形をしており長軸でも50m程度の長さに過ぎない。 周囲は高さ2.5mの切岸になっており、東側から北側にかけて低い土塁が巡る。 切岸の下は緩斜面が山裾まで続き特段、城郭遺構というものはない。 北側の丘に続く北側のみ土塁が末端部にあり、この方面が大手であったと思われる。 この館はこの地方でいう「たて」ではなく、居館である「やかた」というべきであろう。 3方が低地であり、それなりの要害性はあるものの戦時に立て篭もるような城ではない。 詰めの城としたら西1.2qにある堀の内館の方が要害性もありふさわしい。 館主は結城顕朝の次子朝重から4代後重継が築き、河東田氏を名乗ったのが始まりという。 以後、河東田氏は白河結城氏に従う。戦国時代、この地は佐竹氏の侵攻に晒され、すぐ南の赤館が争奪の舞台となる。 天正3年(1575)には佐竹氏に占領された赤館を奪回するため、白河結城氏の軍勢がここに集まり、夜襲をかけて奪回に成功する。 しかし、天正7年(1579)佐竹氏の反撃を受けて落城、白河城までが落とされる。 |
北から見た館址。独立した丘にある。 | 主郭西側の切岸。 | 主郭南側の堀と土塁。 | 白幡神社参道に残る土塁(右) |
その後の河東田氏の動向は明らかではないが、この館に居住していたのではないかと思われる。
ある時は佐竹氏に従い、ある時は伊達氏に同調するなど白河氏と行動をともにしていたものと思われる。
白河氏が豊臣秀吉によって取り潰されると、白河氏とともに伊達氏の家臣になった。恐らく廃館はこの時であろう。
堀の内館(白河市(旧表郷村)堀の内)
天王館から西に1.2km行った地点、南の平地に突き出た半島状の山にある。
山の標高は370m、比高は40m。東側は結構急勾配である。先端部下の墓地から直登する。
途中に曲輪がある。頂上付近の曲輪Tは直径20m程度であるが、削平は甘く周囲は緩斜面であり取り立ててないもない。
単なる自然地形かと思い北側に下りてみる。するとびっくり横堀が回っている。
横堀は北西に向かい、堅土塁を伴い斜面を下る。
一方、頂上を尾根伝いに北西に向かうと両側に土塁を持つ堀切に出る。 この先に3段の段を持つ曲輪Uがある。長さは80mほどあり幅は25mほど、2.5m位の段差が2箇所ある。 北西端に社があり、その後ろに土塁があり、堀切となる。南側には2段の帯曲輪がある。 堀切を越えると長さ30mほどの平坦地があり、その先は下りとなる。 その先には何もなくここが城の北西端である。間違いなく城であるが、規模も小さく余り整備されていない。 しかし、山の斜面は急であり、結構、要害性は高い。距離的関係から緊急時の天王館の詰めの城ではないかと思う。 |
南側から見た館址。 | 本郭北側の横堀。 | 堀切1から本郭を見る。造成は甘い。 | 堀切2 |
榾山館(白河市(旧表郷村)堀の内)
何て読むのか分からなかったが、「ほだやま」と読むのだそうである。
堀の内館から北西に1.5q、県道277号線を少し北に入ると表郷聖オリーブの郷という老人保健施設がある。どうもこの地が館跡らしい。
しかし、この場所は施設を作るため山を崩し平坦な丘にしているため、館があった形跡は全くない。
つまり館は完全に湮滅してしまったことになる。
そんなことは知らずにこの地に行き、あたりの山を少し探ってみる。 ほとんどの山は自然地形で城館があった形跡はないが、表郷聖オリーブの郷の谷津を隔てた北側の山に城郭遺構を発見した。 この山は北西から張り出した標高は350m、比高35mの半島状である。 先端部分から上がる道があるが、これが大手道であったようである。 一面の笹竹に覆われほとんど通行できない。この道の途中には段差がいくつかあり、堀底状になっている。 右にカーブしながら山頂まで続く。山には東側の雑木林からが下草もなく冬場になれば上がりやすい。 |
南側から見た館址。 | 山頂の土塁。片側削落式で反対側は自然 地形のままである。。 |
西端の鞍部の堀切(自然地形?) |
山の南西側斜面に3段にわたり4mほどの段差をおいて幅10m程度の帯曲輪が長さ60m程度に構築され、山頂最高部の曲輪を覆うように北東側に曲輪造成で削り出した高さ3mほどの土塁が長さ50mにわたって続いている。
どうもこの土塁は防御用のものというより風避け用である。
この土塁のお陰で南側の曲輪は風もなく、冬の晴れた日はすこぶる快適な空間である。
老人保健施設と反対側の山地に続く部分は下りになり、曲輪が1つある。
その先は鞍部になり、堀底状になっている。しかし、ここは自然地形であろう。
この城に戦闘的な要素はほとんどない。住民の避難城のようにも見える。おそらく住民の避難城も兼ねた出城ではなかったのかと思う。
榾山館は白河結城氏系堀内氏の館と伝えられる。佐竹氏がこの地を制圧すると、佐竹氏の支配化に置かれた。
佐竹氏が掘ったという佐竹清水という井戸があったという。
阿瀬美館(白河市(旧表郷村)八幡)
国道289号の社田の三叉路を県道277号線に入り、北東に1.5qほど走ると八幡神社がある。
この神社、源義家が奥州に向かう時、戦勝を祈願したという由緒ある神社だそうで村の史跡に指定され説明板がある。
この神社の県道277号線の反対側の丘が、阿瀬美館である。
いわば県道277号線は阿瀬美館の丘と八幡神社の丘の間の鞍部を通っていることになる。
館のある丘は南側の社川の低地からの比高が30mほどあり、東西300m位の長さがある。
この館は「たて」ではなく、「やかた」であり、要塞ではなく、完全な居館である。
東西にピークがあり、居館を守る物見台があったようである。両方とも頂上部は直径15mほどの平坦地である。
西側の物見台は派生した尾根にも曲輪と思われる平坦地がある。
居館はこのピーク間の鞍部の平坦地にあったようである。
現在、ここは墓地と畑となり、見る影もないが、北側に県道に面して土塁と虎口が残る。
県道に沿って土塁が巡っていたようである。
西側から見た館址。独立した丘にある。 | 県道沿いに残る土塁と虎口。 | 南側のピークにある平坦地。 |
八ヶ峰館(白河市(旧表郷村)八幡)
阿瀬美館前の県道277号から西を見ると凄く峻険な山が見える。
標高は400m、比高は70mほどであるが、南側はほとんど絶壁に近い急勾配であるため、比高以上に高く感じられる。
この山頂にあるのが八ヶ峰館である。
阿瀬美館前から見た館址。 | 本郭と曲輪V間の堀切。 | 本郭北側の横堀。 |
堀切A | 堀切B | 曲輪Uに建つ社。 |
館跡に行く道はない。南側は岩盤むき出しの崖があり、ここからは登れない。
民家の裏から登れるようであるが、民家の敷地内を通らなければならない。
八幡神社はこの山から派生した尾根末端に位置しているので、神社の裏から尾根伝いに進む。
この尾根には2箇所鞍部があり、ここが天然の堀切になっている。
1つめの鞍部を越えると長さ80m位のXの丘になるが、この内部は平坦ではないので城域ではないであろう。
2つめの鞍部を越え、登って行くといよいよ城域である。明らかに切岸に加工した部分があり、その西側は長さ50mの曲輪Wである。
ここを過ぎると急な登りとなる。高度差で30m息を切らして上がると、小さな曲輪があり、さらに登ると本郭と考えられる曲輪Tである。
大きな岩がゴロゴロしている。投石用にはうってつけである。この岩はもともとこの山にあったものであろう。
内部は余り平坦ではなく、曲輪の周囲はかなり傾斜している。造成が非常に甘い。
平坦な部分は直径40mほどに過ぎない。ここの標高は400m位である。
少し北側に降りると何と横堀が回っている。この山は北側が比較的傾斜が緩く、この部分にのみ横堀がある。長さは40mほどである。
この構造は東にある堀の内館にそっくりである。
曲輪Tの北側は尾根が派生し、その先に曲輪Vがある。曲輪Tとの間には横堀が堀切状に横断し、堀の北側には土塁がある。
曲輪Vは長さが70mほどある。内部はそれほど平坦ではない。
先端は急激に下り堀切状になる。曲輪Tを北に向かうと長さ30mの曲輪があり、尾根が細くなり、下りとなる。
10mほど下ると鞍部となり、堀切@がある。この先は若干登りとなり、堀切がさらに2本ある。
最後の堀切Bを過ぎると、高さ15m位のピークがある。
堀切の上に小さな曲輪があり頂上は2段になった曲輪Uがある。直径は20mほどであり、山頂に小さな社がある。
この山頂部は曲輪Tより10mほど高く、標高は410m程度である。
南側は急斜面であるが、尾根が続く西側は下りになり、この方面に4段にわたり帯曲輪がある。
明らかに尾根伝いの西側からの攻撃からの防御を想定したものであろう。
以上のようにこの館は2つのピークにある曲輪からなる城といえる。
やや高度が低い東側の曲輪が広さから見て本郭であろう。
位置関係からしてこの館は阿瀬美館の詰めの城である。
館主は白河結城氏の家臣であろう。
佐竹氏の攻勢が激しくなってから、赤館からの白河城攻撃の防衛のために、臨時に整備したのではないかと推定される。
このため造成も甘く、急造の感を拭えない。
佐竹の手に落ちたあとは狼煙ネットワークの1館として使われていたのであろう。
廃城は佐竹氏が秋田に去った後であろう。
三森館(白河市(旧表郷村)三森)
棚倉の北西4q、国道289号沿いの三森地区の南側の標高390mの山が館跡である。 |
館の規模は極めて小さく、精々直径100mの範囲に過ぎない。 館に行く道はない。しかし、冬場の草の少ない時期に尾根に出て歩けば何とか行けるものである。それほど酷い藪でないのが救いであり、比較的容易に到達できた。 館の構造は単純でメリハリはない。尾根続きの南側は堀切が1本あるだけである。 その南の尾根筋には物見台のような平坦地があが特段、城郭遺構らしいものはない。 主郭部は切岸主体。最高箇所の曲輪Tは30m四方の大きさであるが、土塁はない。 西側に2段曲輪が段々状にある。 注目すべきは東側の曲輪であり、土塁があり、この近隣の城と同様、その下に横堀がある。 しかもこの横堀はS字状に蛇行している。 しかし、この堀は規模が小さく、防御施設としての効果は少ないように思える。 どちらかというと人員移動用の塹壕あるいは鉄砲射撃用の塹壕といった感じである。 |
この館についての歴史は不明であるが、佐竹氏対白河結城氏との戦いに係った城であることは間違いないであろう。
規模からして赤館、寺山を中心とした物見、狼煙台ネットワークの一翼を担う役目を負っていたのだろう。
南側にある堀切。 | 主郭部の南西を巡る横堀はかなり埋没している。主郭東下の曲輪は前面に土塁を持つ。 |