福島県西郷村の城

高助館(西郷村 鶴生字高助)
白河から甲子高原を経て南会津に通じる国道289号線を西に走行、国道4号から約4q行くと阿武隈川にかかる折鶴橋が右手にある。
この橋を渡り千歳川に沿って2.5q行くと高助地区である。
ここに班宗寺という寺がある。この寺の裏、北西の山が館跡である。


↑南側から見た館跡の山。右手のピークが横堀のある曲輪。
 左端部分が本郭部である。

山の標高は520m、比高は90mある。おそらく寺の地が居館なのであろう。
館へは寺の裏手から登るが途中に御堂がある。しかし、その先には道はない。
いつものように藪をかき分け尾根を登って行くが、尾根筋@もどことなく曲輪っぽい。

息も荒くなったころ東端のピークに近ずく。
そのピークの周囲、東から西にかけて横堀Aが巡っているのである。

@ 班宗寺から登る尾根筋も曲輪っぽい。 A 北のピーク周囲を半周する横堀 B 本郭に相当するピークはただの山、自然地形

しかし、ピークはただの山、ほとんど自然のままという感じである。
尾根を西に50mほど向かうと少し高度があがり本郭となるが、ここも不明瞭。
周囲には岩が沢山あるが、石垣は造られていない。ピーク部Bは20m×5mほどの広さに過ぎない。
その南側10m下に比較的きちんとした腰曲輪Cがあり、西側に大きな堀切Dがある。深さ5m、幅10mほど竪堀が下る。
さらに尾根は西に続き、高度も少しずつ上がっていくが、堀切はない。
西側のピークに到達するが、その先の尾根にも何の遺構もない。
あの巨大堀切が館の末端のようである。
明らかに居館の非常時に避難するための城である。
館主は白河結城氏家臣、斑目信濃守が大信からここに移って居館したという。

C本郭南側の腰曲輪は比較的平坦 D本郭西側の堀切、ここから先には遺構はない。

柏野館(西郷村柏野)
入道山館前から県道37号を2.5kmほど羽鳥湖方面に走ると、阿武隈川にかかる羽太橋を渡る。
この橋の南西500mの山が柏野館である。


ちなみに阿武隈川の北岸、橋から南東600mにある山の先端が、小館山館である。
おそらく柏野館と小館山館で羽鳥湖方面からの街道を押さえていたものと思われる。
その柏野館は標高430m、阿武隈川からの比高50mほどの山にある。
たいした規模の城ではない。
しかし、驚くべきことに全面総石垣の城なのである。


しかし、完全に藪に閉ざされ行くことは至難の技である。
ここには南側の谷地中方面から谷津に沿って延びる水田地帯からアルローチする。
途中まで農道があるので車で問題はないが、途中からは軽トラでないと無理である。
かつて山道はあったようであるが、すでに藪状態。


↑ 南側の谷津水田部から見た城址の山。ここからは比高30m程度であるが、とてつもなく遠いイバラの道。

その藪化した道を山に向かって行くのであるが、大きな岩がごろごろ、しかも石垣だったような感じの場所は土塁のようなものまである。
山の中腹まで行くが、すでに道はない状態。


斜面を見ると、整然とした石垣@がある。
どうやら鉢巻状の多段構造の石垣が存在していたようである。
しかし完全に崩壊している。
その崩壊して崩れた岩を乗り越え、尾根に出る。
そこは平坦、曲輪のようであり、北側に土塁がある。
ここが二郭に相当する曲輪である。


本郭はその西側なのであるが、曲輪内は野ばらが密集。
それを枝でぶちきりながら前進。
20mほどの距離を長時間かけて本郭部分まで到達。
そこには横堀Aがあり、全体が石造りの本郭部がある。

しかし、崩壊と杉の落ち葉でほとんど石垣であることが分からないくらいである。
二郭からは堀に土橋(石橋?)がかかり、本郭の北東側から登る道があったようである。

本郭Bは東西30m、南北50mほどの広さであり、西から北にかけて高さ7mほどの櫓台のようなものがある。
ここは石垣Cが残っている。
@曲輪Uの斜面には石積が確認できる。 A本郭と曲輪U間の堀であるが杉の落ち葉で
埋もれている。
B本郭部には崩壊した石垣の石がゴロゴロしている。
 北西側には櫓台のような場所がある。
C本郭櫓台に残る石垣 D本郭櫓台北にも櫓台があり、堀切が間にある。 E堀底には石垣の石がゴロゴロ、印が付いている。

その先端は巨大な岩である。
さらにその北側に深さ5mほどの堀切Dがあり、櫓台と巨岩が北に聳える。
その先にも堀切が存在する。


一方、本郭の南側には高さ3mほどの土塁が延びる。
堀底や本郭内部は櫓台から崩壊した石垣の岩がゴロゴロしている。
印が刻まれた岩Eもある。

井戸があり、水が今も湧いている。
南側にも横堀に下りる虎口がある。
横堀から南から東に道が下っているが、藪で閉塞されている。

一方、二郭の北側にも曲輪が存在するのであるが、葛が密集しており、入ることは不可能である。
ここはどうやら石切り場であったようであり、小屋の廃墟がある。
二郭を東に向かうと堀切があり、ここから東が三郭である。
帯曲輪が東に延び、石垣で覆われた土塁が北側に存在する。
帯曲輪の南側には土塁があり、南下にも腰曲輪がある。

F二郭と三郭間の堀切。ここにも石が転がっている。 G三郭東の堀切、石搬出道路の切通しかも? H石切り場と思われる場所にある石垣
I石切り場と推定される場所に聳える巨岩 J巨岩の反対側には古峯神社の祠がある。 K最東端の堀切

この帯曲輪を東に行くと、再度、堀切Gがある。
しかし、これが堀切であるかどうか迷う。この堀切と先に延びる帯曲輪、石を運ぶ道のような感じもするのである。
堀切の東には岩山がある。帯曲輪からの比高は20mほどである。
岩山の北側は大きな岩がゴロゴロしているが、その中に通路状の溝と、土壇のようなものがあり、石垣Hがある。
ここは石切り場だったと思ったが、遺構だったのかもしれない。

岩山の東は直径50mほどのクレーター状になっている。(W) 
ここは石切り場であったようであり、巨岩Iがそびえる。
その巨岩の東側には古峯神社の祠Jが祀られ、東下から参道が延びる。
参道下の山道までは比高20mほどあり、この山道は山を掘りきる形で南に延びる。ここは堀切Kであったようである。
山道は三郭から延びる帯曲輪に合流する。

この場所に堀切が存在するとなると、すると、クレーター状の場所Wは元々は曲輪であった可能性もある。

さて、この城であるが、どこまで城郭遺構の石垣であるのか、石切りの残骸であるのかわからない。
城の石垣とすれば、自然や地震によって崩壊したにしては酷い状態である。

人為的な破壊を受けたような感じである。さて、一体、いつ、だれがこの総石垣の城を造ったか?
白河結城氏時代の城でこの付近にはこのような石垣の城はない。
城主は白河結城氏家臣、和知氏と言われているが、この石垣がその時代のものとは思えない。。
仮定ではあるが、関ヶ原直前、上杉氏による改修ではないか?
この徹底した破壊ぶりからして、徳川氏に再利用されないために破壊して撤退したのではないだろうか。
ただし、この仮説も欠点がある。
この城の想定する敵が存在する方面、阿武隈川対岸の北方向である。
この方向は上杉氏の本拠だった会津である。これでは矛盾してしまう・・・。

なお、徹底的な破壊の一つの仮説としては、ここの石を小峰城の石垣に転用した可能性である。
石の材質が同じなのであるし、西下を阿武隈川が流れ、筏に乗せ下ると小峰城まで簡単に運搬できるのである。
さらに、小屋の廃墟や重機が入っていた跡があることから、最近まで石の利用は続いていたようである。
さて、真実は如何に?


入道山館(西郷村米字館岡)

国道4号と県道37号の交差点から羽鳥湖方向に県道37号を北西に約2q走行すると、右に阿武隈川、左には山が迫ってくる。
この山の先端部が城址である。

城は背後、北西側を道場久保地区と県道37号を結ぶ山を横断する道路で分断されているが、ここは堀を兼ねた天然の谷であったようである。
その南東側の山が城址であるが最高地点の標高は430m、比高は50mほどである。

山はL型をしており、全長は500mほどあるが、先端部が主要部であり、北西部はただの自然の山といった感じである。
先端部の神社Aがある場所が主郭のような感じであるが、そこまでの石段が恐ろしい。

急勾配の上、石が傾いているのである。たぶん、東日本大震災の影響なのかもしれない。
おまけに落ち葉が積もっており、すべるのなんの。
ただし、この石段は後付けのものである。

神社から北西に延びる尾根の稜線は土塁状になっている。
堀切はない。
これが遺構であるかは不明である。

山の最高地点Bは上水施設になっているが、傾斜した場所であり、ちゃんとした曲輪であったのか分からない。
そこから北西側に尾根が150mほど続くがただの自然の山であり、堀切もない。

最北端部が南北80m、東西30mのスペースであるが、ここは若干平坦な感じであり、物見があったかもしれない。

神社までもどり、南北の斜面を覗くと、8mほど下にちゃんと帯曲輪がある。

↑ 南側から見た城址のある山。 

北側の曲輪にはなんと土塁がある。
さらに東に下りる道がある。
これが本来の登城路であり、参道であったようである。

その道を下ると道が南に曲がり、そこが堀切@になっている。
さらにその下に井戸らしいものが、道は少し東から山の麓に下るようになっている。
山の南側麓の宅地、畑の地は東に川が流れ、これが水堀の役目をしている。
この地が居館跡のようである。

西郷村史では、館主の名として舘岡入道という名を挙げているがこの人物がどのような人物かは不明である。
山の遺構は緊急時の物見兼避難場所といった感じであるが、そこからの逃げ道がなく、単なる物見、狼煙台程度の役目ではなかったかと思う。

@東側にある通路を兼ねた堀切 A神社の建つ部分が主郭だろうか? B山の最高箇所は上水場であるが、遺構はない。

航空写真は昭和50年国土地理院が撮影したものを利用。

小館山館(西郷村長坂)
阿武隈川にかかる県道37号羽太橋を挟んで東西の山に柏野館と小館山館があるが、両城の距離は直線で1qほどである。
小館山館のある山は南から半島状に北に突き出た尾根であり、その先端部が館である。


↑ 南側を阿武隈川が流れ、阿武隈川の浸食で山の南側は絶壁になっている。北から真名子川が館のある山の先端部で合流する。
北西側羽太橋から見た館跡の山。 北から見た山先端部。本郭部の曲輪が見える。 @南端部の堀切と馬場のような平坦地

山の西側には阿武隈川が流れ、岩盤むき出しの絶壁である。
また北から真名子川が流れ、館のある山の先端部で阿武隈川と合流する。
この先端部分も絶壁であり、下からは曲輪が良く確認できる。

取り付ける場所は尾根沿いか、館北東下の台地状の場所に限られる。
館の位置する場所の標高は430m、阿武隈川からの比高は50mである。
館へは羽太橋北の堤防上の道を東に行く、真名子川の橋を渡ると鉄塔が山の上に見え、その保守用の道がある。
この道を行って、鉄塔から尾根上を先端部北西側に行けそうであるが、途中が沢になりここからは行けない。
このため、保守用の道の登り口から竹林の中を西に向かう。すると杉林の平地がある。ここから南の尾根にとりつく。
ここは野ばらはない。ここを上がると腰曲輪があり、高度で10mほど登ると尾根に出る。

A尾根に続く堀切群 B本郭部分、多段に曲輪が構築される。 C本郭西側下の腰曲輪

ちょうどそこが堀切@である。
深さは4mほど。この堀切から北西側130mほどの範囲が館である。
堀切に面して土塁があり竪土塁が下り、もう1つ小さな堀切がある。
竪堀はなく帯曲輪に合流する。帯曲輪が尾根の両側に形成される。
30m先に深さ4mほど、幅8mほどの堀切Aがあり、東側のみに竪堀が下る。
さらに土塁を挟んで1本小さな堀切がある。その土塁上には投石用か、こぶしよりやや大きめの河原石が沢山ならんでいる。
その先が主郭であるが、最高箇所Bの周囲を高さ2mほどの差で数段、腰曲輪Cが構築される。主郭部は70m×40m程度の広さであるが、周囲は東側以外は絶壁であり危険である。
明らかに物見の砦である。
なお、主郭部の東下に位置する杉林であるが、ここは居館があっても不思議ではない場所である。
しかし、北向きであり、陽は当たらず、ジメジメした感じであり、居館の地ではないかもしれない。

この館について、西郷村史は「南北朝期、建武2年(1335)結城盛広が北条時行の「中先代の乱」に呼応して挙兵し、伊達行朝と戦った「白河郡長倉城」がこの城としている。
その後、戦国期に佐竹氏に敗れこの地に逃れた高萩安良川氏が白河結城の家臣となって居城した。」という。

航空写真は昭和50年国土地理院が撮影したものを利用。

南館(西郷村 羽太字下羽太)
白河方面から走行し、阿武隈川にかかる県道37号羽太橋を渡ると羽太地区であり、すぐ左手に大龍寺という寺がある。
すぐ南西側は羽太ニュータウンである。
寺はL型をした山の奥まった場所にある。
その両側の寺を覆うように山があり、そこが館という。
南側の尾根は段々状になっており墓地となっているが、ここが館遺構かもしれない。

寺の西側に位置する山が標高が420m、比高40mほどあり、高いので登ってみたが、まったくの自然地形であった。
寺のある場所自体が居館の地と考えた方が妥当と思われる。
結城氏家臣、南大膳の居館という。


航空写真は昭和50年国土地理院が撮影したものを利用。

嫁塚館(西郷村 羽太字下羽太)

南館の谷津を挟んで北西の尾根が嫁塚館である。
北西を県道281号が走る。
この道路建設と砂取りで山の半分は消滅している。

山の標高は410m、残った部分に突入したが、ただの自然地形であった。
砂取りで消滅した部分に主体部が存在したのであろうか。
それとも遺構は存在していないのか?

しかし、この山の先端部分の先に変な山がある。
「小山」である。
高さは10m程度、上は神社になっている。
水田地帯に囲まれた独立丘陵である。
これこそ嫁塚館の主要部分だったのではないだろうか。

↑ 南側から見た山城部。この山には遺構は確認できなかった。
北から見た小山の櫓台のような部分 南から見た小山 右上が小山という独立岡部分

航空写真は昭和50年国土地理院が撮影したものを利用。