泉崎村の城

木の内前館(泉崎村木の内)
新地山館の北、阿武隈川をはさんで反対側の北の山にある。
山の下を県道139号が本沼方面から関和久方面に通り、ちょうどこの山の南下で南に分岐し、阿武隈川に白河大橋がかかる。
この山は北から南の阿武隈川の低地部に突き出ており、結構、急勾配である。
城郭遺構のある部分の標高は380〜390m、低地の標高が300mなので、比高は80〜90mある。
この山には西側に県道139号線と並行して麓を流れる小川があり、谷津に入って行く部分に橋がかかる。
この橋を入ると谷津沿いに入って行く道がある。
この道を進んで行くと行き止まりになってしまうが、奥まで行かず、橋から40mほど進むと右手の山の斜面に削ったような跡がある場所がある。
これが山頂部にある社の参拝用に最近、道を付けたものであり、ここを上がって行けば、5分程度で城址に至る。

城は細尾根上南北100mほどに渡って曲輪を展開する典型的な尾根城である。
尾根上は10〜15m幅に削平され、数段にわたり細長い曲輪が展開する。
最高箇所のピークは直径5mほどにすぎなく、その30mほど北に土塁を持つ、深さ7m、幅10mほどの大きな堀切Aがある。

この堀切は非常に見事であり、結局、この堀切1点だけの1点豪華主義の城と言える。
この堀切が城の最北端であり、それより北の尾根は登りとなるが、城郭遺構はない。

上の写真は南西側から見た城址のある山である。
左下付近から登ることができる。
@石の社が建つ曲輪。 A大堀切の堀底から主郭側の土塁を見る。 城址から見た南の阿武隈川と新地山館

規模と立地からして新地山館と対で阿武隈川沿いからの白河方面への侵攻を抑えるための砦である。
この地は白川城まで6kmの位置にあり、阿武隈川の低地の幅が1kmと狭まる狭隘地である。
実際、その想定どおりに戦闘が起こり、この城がそれに関与している。
「白河古事考」によると、天正7年(1579)5月、佐竹軍は釜子(現在の白河市東支所の地、河内山館が本陣?)を拠点とし、関山方面と阿武隈川方面の2方向から白河への侵攻作戦を展開する。
これに対し、白河結城方は、阿武隈川方面では、軍を関和久の新知山の集結、河東田大膳は山王の森(木の内山)に陣を敷き、佐竹方先方と激戦を交える。
この時、河東田大膳が陣を置いた「山王の森」が、この木の内前館と思われる。
おそらく河東田氏らは、この館から出撃したのであろう。
この合戦の緒戦は白河結城氏側が敢闘し、佐竹軍の先陣部隊を撃退し、釜子に撤退させる。
しかし、佐竹氏側には増援部隊が続々到着し、大攻勢に出る。
圧倒的な軍事力の差により一気に勝負が付けられ、白川城、小峰城をまで攻略されてしまう。
この時、この館は放棄されたのではないだろうか。

伊賀館(泉崎村関和久)
阿武隈川を望む北岸の関和久地区にある。
対岸に新地山館がある。
東西南北200m四方程度の比高20mの独立岡にあり、関和神社の境内が館跡、南の麓に雲月寺がある。

下の写真は西側から見た城址のある岡である。

主郭部は80m四方であったらしく、北側、西側、南側に高さ2mほどの土塁が残る。
本来は土塁が1周していたようである。堀は南側に残るが、一部、神社参道となって破壊されてしまっている。
北側には堀は存在していなかった。西側、東側はどうなっていたのか不明である。幅は7mほどあり、結構立派である。
一応、単郭の館のようであるが、東の高福寺跡にも土塁が残るということであり、雲月寺の地も城域であろう。
どうやら複郭を持った館であったようである。
結城氏家臣、熊田伊賀忠光、惣左衛門光行の名がある。
子孫の一族、若狭介兼氏は天正年間の佐竹氏との戦いで戦功があり、白川結城氏改易で浪人したという記録が残る。


昭和50年の航空写真(国土地理院撮影)
@主郭に建つ関和神社 A主郭北側の土塁 B南東側の堀 C 南側の堀と土塁は破壊され参道になっている。


泉崎館(泉崎村館)
東北本線泉崎駅の西口付近が館跡であったというが、集落になっており、明確な遺構らしいものはない。
しかし、この集落、地名はズバリ「館」である。
集落の北側に、何となく遺構の残骸ではないかと思われる部分が認められるにすぎない。
(おそらく外郭の部分であろう。)

中心部は完全に集落に取り込まれてしまっているようである。
この館は泉川南岸の微高地に造られた平地城館であり、白河結城氏家臣の辺見(人見)主膳正の居館と伝えられる。
「白河古事考」等によるとは、160m四方で二重の堀を有していた等の記載があり、二重方形館であったと思われる。
館主と伝えられる辺見主膳正は、天正16年(1588)石川一族、中畠上野介(晴辰)とトラブルとなって、泉崎館は攻略され、中畠氏家臣の小林筑後、野崎筑前、三村若狭が配されたというが、この話には史実か、疑問があるらしい。
北側から見た館跡。 ここが外郭の堀跡部分らしい。