寺山城(棚倉町寺山)
水郡線近津駅の東、久慈川に沿った南北に長い山を利用して築かれた城。
幾多の攻防戦を演じた歴戦の城である。規模も大きく、堀は深く、土塁は高く、切岸は鋭く、極めて凶暴な姿を残し、当時の緊迫感を今に伝える「凄み」を感じさせる城である。
「蛇頭館」(じゃがしら)とも呼ばれる。山の形を蛇に例えたのであろう。
名のごとくこの城は毒蛇である。

城域は南北1.3kmに及び北側に本城を置き、南側の細い尾根に出城を配置する。
久慈川に面した西側は崖が続き、久慈川が天然の水堀になるため、この方面から攻撃される可能性は少ない。
この城を攻めようとすれば、南側の谷津沿い攻め上がるか、東側の山側から行う可能性が想定できる。
当然ながら攻撃方面が想定される方面にはそれなりの防御が採られている。

城に行くには、豊岡部落南の谷津から入る道が薬師堂の南にあり、この道を進む。未舗装の農道であるが、小型の車なら通ることは可能である。
1kmほど進み、道が狭くなるところに駐車して、左手の山の尾根に登るとそこが城址である。
もう1つ、西側の近津駅北の久慈川にかかる小さな橋を渡って登る道があると言う。

築城は東館、羽黒山と橋頭堡を築きながら北上する佐竹氏が赤館城を攻撃するための前線基地として築いたという。
しかし、それ以前に存在していた白河結城氏系の館がベースになったものと思われる。

このため、佐竹氏に対する白河結城、芦名、田村氏連合軍の反撃も寺山城をターゲットに行われ、元亀3年(1572)激しい攻防戦が行われた。
これを寺山合戦という。この時は南の出城付近で戦いが展開されたという。

攻防は天正2年(1574)にも行われ、この時は羽黒山城も攻撃を受けた。
結局、赤舘城まで佐竹氏の手に落ちているため、この戦いは佐竹氏の勝利で終わったものと思われる。

天正4年に赤館城が一時的に白河結城氏の手に落ちた時は赤舘城代の渋江内膳が寺山城に避難している。
赤館城攻撃時には最前線の橋頭堡であったが、赤館城確保後は詰め城の役目に変わったことになる。
寺山城には常備兵が駐屯しており、今宮氏が城代を務めていたことが記録に残っている。

伊達氏の南下で脅威が増した天正末期においても拡張整備が進められたものと思われる。
小田原の役後はしばらく安定した時期もあったが、関が原の前夜においては赤館城とともに佐竹軍が駐屯し、戦雲が立ち込めた。
戦後、佐竹氏が秋田に移封され、一時的に立花宗茂が入ったが、すぐに赤館城に移り廃城になった。
・・てことは、最後の城主はあの名将 立花宗茂ということか。
まさにこの城にふさわしい武将である。

 城址は一面の鬱蒼とした杉林の中にあり、ほぼ遺構は完存している。
 しかし、藪も結構なものであり、冬場以外、見学は無理である。冬場であっても倒木と複雑に構築された土塁、堀、切岸は行く手を阻む。
 城は本郭から3方向に延びる尾根に郭が構築される。尾根式城郭の面もあるが、西館や伊香油館のような細尾根城郭ではなく、尾根筋は結構広く、居住性も兼ね備えている。
 このため、郭配置も連郭式と輪郭式の併用したような感じとなっている。
 最高個所(標高382m)の蛇頭山付近に本郭を置き、西側のやや低い尾根に二郭、三郭が構築される。
 麓の久慈川付近の標高は235m程度であるので比高は150m近い。
 大手は南側の10の場所と言うが、西側に館址がありここから登る道もある。こちらの道は9に至る。しかし、どちらから登っても本郭に至るには困難がある。本郭の正式な虎口は東に開く枡形であるが、ここまで行けない。途中に二重の竪堀があり、ここが越せない。(この城に2回行ったが、2回とも本郭東下の竪堀を滑り落ちてしまった。)取り外し式の木橋があったのであろう。
 3の郭に至る道(ここは搦手口であろう。)もあるが、こちらのルートは困難なく、本郭まで行ける。ただし、2、3郭の下を通るのですんなり到達はできない。

本郭は東西35m、南北65mの大きさを持ち、周囲は土塁に囲まれる。
東側に枡形を持つ虎口がある。
この虎口はかなり高度な形状のものと言われている。
南端及び南西端に本郭から突き出た形で櫓台跡がある。
この櫓台跡は東下の曲輪から見上げると10mほどの高さがある。
城を象徴する天守のような建物があったものと思われる。

本郭の西側は絶壁であり、防御は不用である。
南側は人工的な急な切岸になっており、その下に曲輪群が展開する。
さらに南は傾斜が緩くなり、広い郭7がある。
この付近に常備兵の駐屯場所や食料、軍事物資を集積した倉庫群があったものと思われる。
西側に土塁がある。
その西側は勾配が緩く曲輪は明確ではないが、8の櫓台があり、曲輪7側が枡形の虎口になっている。
尾根に沿った郭群は尾根を崩して尾根の両側を平坦化しており、残った尾根部分が土塁状に残っている。
その南側には堀底道を兼ねていると思われる9の横堀がある。
ここが本城部の最南端ではないかと思われる。

本郭の東側は深い堀切を隔てて、その東にも4の郭群が階段状に展開する。
本郭との標高差はない。
その東には深さ8m、幅15m、長さ80mもある巨大な2重横堀が構築され、間に土塁5がある。

しかし、400年以上の年月を経ても、よく埋没もせず残っているものである。
横堀の末端は竪堀になっているが、この竪堀がまた凄い。
横切っているうちにまた堀底に滑り落ちてしまった。

9の曲輪南の堀切。堀切というより横堀に近い。
この付近が本城の南端か?
7の郭。西側に土塁があり、
その下にも郭が展開する。
本郭西側、絶壁に近い。 本郭南下の郭より本郭南東端の櫓台を見る。天守相当の建物があったと思われる。
本郭東の枡形虎口。
杉が鬱蒼としていて良く形状が分からない。
本郭東の堀切。深さ10m以上。 本郭東の郭4。
三段構造になっており最東端部に櫓台がある。
5の横堀。
二重堀切状に郭4の東に構築されている。
二重横堀の間にある5の土塁上。 5の横堀。深さ7m位、長さ80m位ある巨大なもの。 郭3の土塁、高さ2m程度。 近津駅付近から見た本城部分。

さらにその東側にも6の曲輪群がある。6の東には再び巨大な横堀が横たわる。
その東に小曲輪と堀切があり、下りの斜面となる。
城域の東端はこの付近であろう。
これらの東側の防御は特に厳重であり、東側からの攻撃を強く意識していたことが伺える。
平常時にはこの東部分と本郭部の連絡は恐らく横堀を跨ぐように架けられた木橋によっていたのではないかと思われる。
本城部分はおおよそ400〜450m四方程度の広さと思われる。


本郭の北西側の尾根に展開する郭は、東側の部分とは様相が異なり、比較的オーソドックスである。
塙町の羽黒山城の北城と似た感じである。

尾根の北側、南側は急坂であり、防御の必要性はない。
郭2は本郭とほとんど段差がなく、その間に大きな土塁もない。
50m×30m位の広さであり、北側に低い土塁がある。その北西7m下に郭3がある。
北側を高さ2m位の土塁があり、南西側が3段に段が付いている。
10m下に帯曲輪があり、二重の竪堀がある。
虎口が北西に開いており、枡形になっている。ここが搦手口であろう。
その先は道が蛇行し、小さな曲輪が道沿いにある。
この枡形を入ると郭3の南側を回って郭内に入るようになっており、その間、郭3の切岸上からの攻撃に晒されることになる。
この北西側の尾根に展開する郭群も本郭東側の郭群も北側に土塁を置き、南側に段郭を設ける形式であるが、この土塁は防御用もさることながら、風避けの役目があるようである。冬場の北風は結構きついが、土塁の南側は風もなく、日当たり良好で快適である。

本城部分の要害性は赤館城とは比較にならない位高い。
棚倉地方が佐竹氏の支配下に入った後は、赤館城が政庁的な役割、寺山城が軍事的拠点、詰めのような役割分担があったように思える。

寺山城 御林預山出城 鷹巣山出城

本城の南には細い尾根が延々と続き、徐々に標高は下がっていく。
この尾根には数本の堀切、曲輪、物見台と思われるピークが延々1km位に渡って続く。
ここが南の出城と言われる部分であり、御林預山出城、鷹巣山出城、薬師堂出城が尾根沿いに置かれる。
この尾根筋が、元亀3年(1572)激しい攻防戦が行われ場所という。
久慈川に面した西側は崖である。
最南端は蛇尾山と言い、豊岡の部落の東に当たる。
ここに薬師堂が建てられていた。ここが薬師堂出城である。
本城部が蛇頭館というのに対し、別名、蛇尾館と言うそうである。
その北側の堀切は現在でも切通しの道として使われている。
深さ10m、幅15m程度の巨大なものである。
薬師堂出城の南には金井館があり、この谷津の入口を両側から防御している。 

@ 最南端薬師堂出城北の堀切。深さ10m以上、
切通しの道として使われている。
A鷹巣山出城南の堀切。元亀3年にはこの付近で激戦が展開されたという。 B鷹巣山出城主郭。
右側は久慈川に面する絶壁。
鷹巣山出城付近を西下から見る。
鷹巣山出城から西下の久慈川を見る。
岩盤剥き出しの絶壁である。
C御林預山出城の櫓台。
尾根筋のピーク数箇所に櫓台、物見台がある。
D御林預山出城の堀切。 E御林預山出城の櫓台。
頂上の平坦地に祠が祭られる。

薬師堂出城

寺山城から南西に延びる尾根の末端の若干盛り上がった部分にある。この尾根にはいくつかの砦があるが、薬師堂出城の前面は久慈川の開析した平地が広がる。
 別名、「蛇尾館」ともいう。この名前は寺山城の別名「蛇頭館」と対を成す名前である。
 城址からは寺山城からは見えない金井館、八規館、米山砦を見ることができるため、寺山城の防衛のみならず、監視やこれらの城館の狼煙信号を寺山城に伝える役目があったと思われる。

肝心の城址であるが、200mほどの長さしかない。比高は約30mあるが、尾根状であり、東西は非常に勾配がきつい。 

薬師堂があったという場所に2段の曲輪があるに過ぎない。南側の曲輪は20m×7mほどであり、その北側に高さ2m高く10m×4mの曲輪がある。
寺山城側に続く尾根は下りになり、3箇所の小さな堀切があり、その先に現在も切通しとして使われている。
深さ10m程度もある大堀切となる。この堀切は寺山城を守る施設としては離れすぎており、薬師堂出城の背後を守るための施設と言える。
右上の写真は主郭から見た南の曲輪である。

規模といい複雑な縄張りといいこのような山城は、同じ佐竹氏系の城郭が多い茨城県にはない。
規模的には兵の駐屯場所や軍事物資の集積拠点である筑波の多気山城や国安城が同程度かもしれないが、構造はまた異なる。
寺山城は、久慈川に面した絶壁部を上手く利用し、防御を尾根筋に限定できるメリットを十分活かしている。
佐竹氏の戦国末期の山城では横堀を持つものが多いが、この城も例外ではない。
特に二重堀切と横堀が融合したような巨大な二重横堀は凄い迫力である。
この城であれば、士気の高い2000程度の軍勢が居れば、正面攻撃で落とすことはできないであろう。
これだけの遺構が完全な状態で残っているのは有り難いが、藪である。本郭に行くだけでも四苦八苦である。
おまけに写真を撮っても、藪と杉しか写っていなく、何を撮ったのか分からない状態である。
写真でこの城の迫力を伝えるのは限界がある。肉眼で確認していただくしかない。 

ホームに戻る。