関岡館(矢祭町大字関岡)
棚倉から矢祭までの盆地を流れて来た久慈川は、矢祭山付近から狭隘部に入り、大子方面に向かう。
その狭隘部の入口部を塞ぐように山が聳え、東側を久慈川が流れる。

この山、まさに天然の障壁であり関所に相応しい。
この先が矢祭渓谷である。
久慈川に沿って走る国道118号線もかつてはこの山と久慈川沿いの狭い所を通っていたが、現在は「関岡トンネル」が山を貫通することでスムーズに走ることができる。
そのトンネルの通過する山の上こそが「関岡館」である。

↑ 東側、JR水郡線越しに見た城址。2004年左の山に登ってしまった。山の谷部を旧棚倉街道が通る。
中を国道118号線関岡トンネルが貫く。
撮影場所との間には久慈川が流れる。


関岡、まさに地名の通りここは旧棚倉街道の「関」である。
この「関岡館」に行ったのは2004年11月5日であった。
しかし、痛恨のミスをした。
ここにある山は東西に分かれ、真ん中の谷部をかつての棚倉街道が通る。
今ほど城の位置情報も豊富ではない当時、神社のある高い山の方が城と思い込み西側の山を関岡館と信じて登った。
しかし、山頂部には平場や段々状の場所はあったが、取り立てて城というほどの遺構はなかった。
今、考えるとそれは本城の物見の場だったようだが・・下山して、何だこんなものか。
という感想を抱き帰路についた。
この程度の城ってあるのだ。

しかし「矢祭町史」を見たら、ちゃんとした城のイラストが掲載されているではないか!
俺が見たものではない!・・・で、気が付いた。
これ東側の山だ!かあちゃんにフライパンで頭をぶん殴られたような衝撃だった。

それから20年以上の月日が流れた。
この付近は何度も通った。
トンネルも通った。リベンジの機会はあったはずだが、どうしてもリベンジする気にならない。

これってトラウマか?
・・そして、ズルズル20年以上の時間が経過した。
中年だった俺は老人になった。
何を考えたか、急にリベンジの炎が灯った。
意を決して東の山に突撃!20年来の悔いをはらすため。

もちろん、東側の山が城なのだが、結構な藪である。
館跡Fの裏、北側から登るのであるが、篠竹と孟宗竹が密集、その斜面に何段もの小曲輪がある。
畑跡のようにも見えるが、城郭遺構じゃないかと思う。

まずは本郭Tにということで曲輪Uの西側下の帯曲輪を進む。
本郭@の標高は216m、久慈川からの比高は約70m、60m×15mの大きさ、中央部が若干低く南西側の帯曲輪に下る部分がだらだらしている。
北端は土塁があった感じがする。

その北側に2段の曲輪Aがあり、鞍部となる。
切岸の高さは3.5、2、3mであるが結構急勾配である。

鞍部Cは堀跡のような感じである。
幅は約8m、堀切は埋められているのか?
国道118号線関岡トンネルはこの真下を通っているらしい。

その北側に細尾根状の曲輪VBが約80m続く、幅は6、7mである。

一方、本郭南側は約5mの切岸の下に曲輪があり、さらにだらだら下ると曲輪UDである。
本郭からは10mほど低い。

40m×15mの大きさ。
東下にも曲輪がある。
南端は約4mの急な切岸の下に曲輪Eがあり、南に向けてさらに数段の曲輪がある。

南下の居館跡Fは一辺約100mの三角形をしており、標高は171m、久慈川からの比高は約25m、「町集落」からは約15m高い。
山の地形を活かした構造であり、段郭で構成され、切岸の勾配と高さで防御している。
堀切は「らしい」ものが本郭の北下にあるだけである。

@本郭内部、杉と孟宗竹の林。足元落ち葉でフカフカ。 A北下の曲輪から本郭の切岸を見る。勾配は急。 B北側には細長い曲輪Vが約80m続く。
C曲輪Vから見た主郭部、その間に堀があったような? D南側の曲輪U、ここも藪! E曲輪Uの南下の曲輪から見た曲輪Uの切岸

東館方面には大した遺構はなく、久慈川、大子方面を強く意識している。
城主は佐竹氏家臣の中村氏というが、城自体は大子方面すなわち佐竹氏の勢力範囲方向を見ている感じであり、当初は対佐竹用に築かれたのではないだろうか?
築城者は不明であるが、佐竹氏進出以前、この地を支配していた白川結城氏によるものではないだろうか。
ここから狼煙を上げ、東館城に知らせる役目もあったのだろう。

↑F西側の町地区(根小屋?)から見た城址と館跡(右側の岡)

佐竹氏支配後、逆に大子方面の防御用に敵想定方向が180°変わったような感じである。
その場合、ここからの狼煙はどこに伝えたか?久慈川下流方面には狼煙リレー用の城は見つかっていない。
やはり東にある物見館経由で伝えたのだろうか。

以前の記事
関岡館(矢祭町関岡)
 国道118号線を大子方面から棚倉方面に走り、矢祭渓谷を過ぎると、全面に山が立ちはだかる。
 国道118号線はこの山のトンネルをくぐって矢祭の盆地に出る。このトンネルの上の山こそが関岡館である。
 トンネルが貫通するだけあり、交通上、障害のある地である。
 中世は交通の遮断が容易であるため、防衛上の要衝ということになる。

 ここを突破しない限り大子方面への侵攻は困難である。戦略上、ここに城塞が築かれるのは必然である。
 この地方の城は大体、2,3つの城で1ユニットを組むが、この城は、久慈川の対岸、北600mにある保木山館とペアを組む。
 広義の意味では東館城の支城の1つであろう。

 この山は南西側から北東方向に半島状に張り出し、標高は216m、比高は60m。
 山の先端部南側を除いて傾斜はきつい。久慈川はこの山の東側を蛇行して流れ、対岸は山である。
 館には南側の「町」の集落内(ここは小さな城下町や宿場があった場所であろう。)にある多賀神社の鳥居から入る。

しかし、この入口が良く分からずウロウロ、民家の間の細道であった。鳥居をくぐると2手に道が分かれる。
右に行くと山の鞍部をとおり北側に抜ける古道という。

  この鳥居の建つ場所から東を見ると久慈川方向に高さ5m位の平坦地が張り出している。幅は30〜50mほどある。どうもここが居館跡らしい。
 鳥居から右に行くと平坦地があり、谷間に至る。谷の斜面には腰曲輪と思われる平坦地が見られる。
 最高箇所には枡型の跡と思われる土塁が残る。おそらくこの場所が関の跡であろう。
 「関岡」という地名自体がここから来ているのであろう。この谷間の北側の山が関岡館の主郭部である。
 主郭部はこの谷間からも行けるが、鳥居の後ろの道を北(左)方向に進み、多賀神社社殿から入る。
 この社殿の地は2段になっており曲輪であろう。その東側は巨大な岩が剥き出た絶壁である。
 矢祭町史に「社殿の裏の道を行けば城址に容易に行ける。」という記載があった。
しかし、道らしいものはない。崩落してしまったのか?
こうなれば突撃しかない。木にしがみついて尾根上を目指す。大体尾根上に出れば何とかなるものである。(ダメな時もある。)
 尾根に出て南に登るとほどなく曲輪と思われる平坦地に出る。
北側から見た館址。 本郭。長さ30m、幅10m程度。 本郭南下の堀切。 館跡と推定される舌状平坦地。

 その向こうには切岸が。この切岸の上が最高箇所であり、本郭なのであるが長さ30m、幅10m位の平坦地に過ぎない。
 うっかり通りすぎてしまい本郭であることに気付く。その北東は下りになっており腰曲輪跡らしい狭い平地が数箇所。本郭から15mほど下るとかなり埋まっているが堀切がある。
その向こうにも曲輪がある。
 堀切の南側斜面には結構広い腰曲輪が2つほどある。

 この堀切を過ぎると先に述べた古道が通っていた谷への下りとなる。ここまでは標高差で30m位はあるだろうか。
 全体的には技巧的な城砦遺構は見られない。
 自然地形に若干手を加えた程度のものである。
 
 館主については中村氏と伝えられる。中村氏は佐竹氏の家臣である。
 築館は佐竹氏支配の以前、白河結城氏の支配していた時代、あるいは関所が置かれていたというので平安時代初期まで遡るかもしれない。

押館(矢祭町宝坂押館)
矢祭町中心部にある東館の東3km、国道349号線を鮫川方面に行くと押館地区に出る。
この館は押館地区の南側の山にある。
と言っても、似たような形の山ばかりでどの山が館跡なのか分からない。

地元の人に聞いても城の存在はあまり認識されていないようであった。
何人かの人に聞いて、ようやく「お不動さん」の裏山だということが分かる。
その「お不動さん」の地が館址という人もいた。
「お不動さん」に行ってみたが、どうも館という感じではない。

ただし、居館があった可能性も否定はできない。
そこから裏の山を目指すが、イバラが道を塞ぎどうにもならない。
しかたなく、その北側にある棚田の一番奥から山に突入。
斜度45度の急斜面を一気に直攀して、尾根にそして尾根に沿って山の頂上に。
ちなみに押館集落の標高250m、山頂は440m、比高は190mである。
しかし、山の上の館は自然地形に多少、手を入れた程度のものであった。

堀切などは存在しなく、段郭で構成した古い城である。
頂上の主郭部分@は15m×10m程度の広さに過ぎず、周囲に腰曲輪がある。
平坦化されていることで人工であることがわかる。

その北西側に延びる尾根に長さ80m、幅10mほどの平坦地Aがある。この程度の城であった。
比高190mの急坂登山の体力的消耗とかかる時間は甚大であった。
しかし、この遺構は全くそれにペイしないものである。こんな場所、来るには値しない。

「不動尊由来記」には、「日本武尊勝利のため錦の旗を押し立てたことより押立と名付く」と記載され、明治10年編集の「地誌編村誌略」では「宝坂村の山中に押館山、妙見山、毘沙門山の3山があり、真中が押館山、天喜2年八幡太郎義家が在陣して館を築く」という記載がある。

いずれも戦国時代以前の伝承である。実際、この館の遺構は精々、烽火台程度のものである。
この方面の緊急事態を東館に伝達する程度のことが役目であろうか。
麓にある不動尊、ここは居館跡? @主郭は人工的な平坦地であるが小さい A主郭から北西に延びる平坦で広い尾根。
ここも曲輪であろう。

しかし、そうであったとすれば烽火用の窪みがあるはずであるが、発見できなかった。
埋没してしまったのか。やはり遺構からしても、ここは、戦国時代以前の城館であった可能性が大きいのではないだろうか。
左の写真は西側押館集落から見た館跡の山である。鉄塔の右側が主郭である。

物見館(矢祭町下関河内)

矢祭町の最南端に岩が露出した桂老山があり、そのやや北側の尾根にTV塔がある。

この付近が館跡であるが、名前のとおり物見の砦であったようだ。
「白河古事考」に「白河結城家臣の斑目十郎広基を置く」との記述があり、戦国前期、南郷一帯が白河結城氏が支配していたころ、佐竹氏の侵入を監視するために置いた物見であったらしい。
しかし、佐竹氏が東館を制圧した後には使われていなかったらしい。


保木山館(矢祭町高野)
 
関岡館の北東600m、久慈川の左岸の山にある。
 国道118号線を大子方面から棚倉方面に走り、関岡トンネルを越えて、右手、久慈川の対岸に聳えるピラミッド状の三角形の目立つ山であるのですぐ分かるであろう。

山の標高は250m、久慈川からの比高は約100mである。
 西の麓を水郡線が走る。城へは、西側の水郡線の線路を跨いだ場所から登る。
 この道はジグザグ折れながら、急斜面を登るが、面白いことに2つの道が交差するようになっている。写真を撮ったが上手く写らない。
形状としてはそろばん玉のような菱形を斜面に並べたような形である。
このため、地元ではこの山を「そろばん山」と呼ぶそうである。


 この道を高度差で100m登ると息が切れてくる。15分程度で山頂であるが、山頂は広葉樹林であるため、冬場は落葉して非常にすっきりしている。下枝もない。誰かが手入れしているようである。

 遺構は予想外にきれいに残っている。まず、西側に幅5mの帯曲輪があり、南側にかけて主郭部を半周する。
 その東に高さ2mの段があり、その上が主郭である。
主郭は直径20m程度である。
 特徴的なのはやや北よりに土俵のような直径6mほどの盛り上がりがあり、北側を低い土塁と堀が覆っていることである。
 この土壇は狼煙台のようである。
東側は尾根続きで若干低くなるが、30mほど行くと直径20mほどの曲輪がある。
 その東は一度下りとなり高野方面の山地に通じる。
この方面のルートが大手であったらしい。
 非常に小さい城であり、居住性は皆無。典型的な物見の砦、狼煙台である。 
南から見た城のあるソロバン山。 西側の帯曲輪。右の一段高い所が主郭。 主郭内北側に土塁があり、右手に狼煙台の
ような盛り上がりがある。

築城は戦国末期、佐竹氏によると言われる。
 始めは東館攻略の前進基地として使われ、後に関岡館とともに大子方面への侵攻を監視、牽制する目的と伝えの役目に使われたのであろう。