鮫川の城

中野西館(鮫川村赤坂中野宿ノ入)
赤坂城北西、西から東に半島状に突き出た山先端部にあり、すぐ南東に赤坂城が見える。
城の標高は460m、比高は35m。長さは250mほど。

南側にある壇の岡館程度の平場だけの出城と思ったら、とんでもない。
赤坂城、防衛用の出城には違いないが、本格的な戦闘城郭であった。


↑ 東から見た中野西館、林が曲輪U。右下の建物が派出所。

ただ、この城に行くには非常にまずい点がある。
登り口前が派出所なのである。
これは困る。
別に悪いことはしていないのだが、見るからに怪しいことは確実。

で、岡北側の竪堀を登る。
この竪堀のある切岸A、勾配が急であり、高さは25m程度ある。
途中で滑り落ちる。
今だに機能は現役である。

ここを登ると曲輪U@である。

30m×20mの広さであるが、西側が北に突き出て60mほどの長さがある。
内部は平坦である。
東側は2,3段の曲輪がある。

この曲輪の西側に高さ6mほどの切岸があり、ここから段々に曲輪が展開する・・・と思ったら、とんでもない。
それは切岸ではなく土塁であった。
西側は何と10mほどの深さ。
西側は鞍部状Bになっている。
この土塁の頂上部と西側の曲輪Tの高さがほぼ同じなので、西側の尾根を削って造ったものと思われる。凄い工事量である。

@ 曲輪U内部と西側の大土塁 A 曲輪U北側の比高20m以上ある切岸 B 曲輪Tから見た曲輪U西の大土塁と鞍部
C 曲輪T内部。長さ100mある。 D 曲輪T西端の土塁 E 曲輪T西下の堀切から南に下る竪堀

その西側が曲輪TCであるが、東に緩く傾斜している。
南東側に突き出した曲輪があり、鞍部から登る道がある。

曲輪Tの長さは100mある。
東側の幅は20mほどであるが、西側は南に膨らみ南北60mほどある。
北側に腰曲輪があり、北に20mほどっ土塁が付き出ている。

曲輪Tの西は高さ1〜1.5mほどの土塁Dが覆い、西側は深さ10mの堀となっているが、堀は薬研堀ではなく、堀底は平坦。
南に竪堀Eが下る。堀底北に窪みがあり、井戸らしい。
この付近が城の西端である。

赤坂城を取り巻く、壇の岡館、広畑館に比べるとはるかにメリハリの利いた戦闘的な城であり、戦国末期、伊達氏の侵攻が迫ったころ、整備された姿であろう。 
なお、本郭は曲輪Tのように思えるが、西側から10mもある大土塁が立ちはだかる東側の曲輪Uの方が内部は平坦であり、こちらが本郭という可能性もある。
というより、どちらも主郭と言っていいのかもしれない。
片方が落とされても、もう1方で独立して戦闘が可能である。
一城別郭というタイブか。

広畑館(鮫川村赤坂)
赤坂氏が赤坂城に移る前に本拠としていた城という。
赤坂城の南東、国道349号線から県道71号線が分岐する広畑の交差点南東の山が城址である。

山の標高は540m、比高は70mほどである。
この山に行くのは分かりにくい。山の麓に焼き鳥屋があり、その右手の道を入るのであるが、いかにも民家の庭に入る道っぽいのである。
しかし、そうではない。ここを入ると山に登る細い道がある。
それをひたすら登る。
この山、先端部は岩盤剥き出しの急斜面であるが、途中から比較的平坦になる。

途中に石の社があり、その南が幅30mほどの平場である。
ここが大手曲輪である。
その南に高さ5mほどの切岸があり、虎口@が開く。
ここを登ると3mほどの切岸を経て3段ほどの段々の曲輪がある。

その最上段に土壇Aがある。
この土壇からは土塁が腕のように伸びて北に展開する段々状の曲輪群を覆う。
そして土壇の後ろは深さ6m、幅20mの堀切となり、南に続く尾根と分断。
堀切は横堀Bとなって城の東西を遮断する。
城域としては東西100m、南北200m程度である。
印象としては、塙町の「狐屋館」とよく似た構造である。
それにしても古臭い感じである。居館は麓の焼き鳥屋さんあたりにあったらしい。
赤坂城に移転後は出城として使われていたのであろう。


この写真は赤坂城から見た館跡。
左下の家がある部分が館跡。その右手の山が
館跡である。
@虎口から見下ろした大手曲輪の平地 A南端にある土壇 B土壇の南西の横堀

参考:鮫川村誌

壇の岡館(鮫川村赤坂中野)
赤坂城の南、谷間を隔てた比高50mほどの南の岡にある。
現在は本郭部に鮫川中学校@が建ち、本郭部分はほとんど失われている。
下の写真は東の赤坂城の本郭から見た館跡。建物が中学校の校舎。ここが本郭であったという。
東に張り出した尾根(ここも曲輪らしいが、ほとんど自然地形である。)の下をトンネルが貫通する。

中学の北西側に土塁Aのようなものがあるが、これが、本物か、ただの中学建築時の削り残しの部分か、判断できない。
中学校敷地の周囲斜面に3段くらいの帯曲輪が取り巻いていたが、道路で寸断されてはいるが、一部B、Cが確認できる。
道路も帯曲輪を一部、利用しているようである。
400m四方ほどの広い城域を持っていたが、西側は山であり、中学の地より若干高い。

でもこの部分には堀等は存在しない。
赤坂城の支城であるが、要害性は劣るが、居住性はこちらの方がある。
赤坂氏またはその一族の居館があったのではないかと推定される。
なお、余談であるが、「まほろん」の運営する福島県の文化財遺跡地図で示すこの場所は「広畑館」となっているが、これは誤りである。

@主郭跡には鮫川中学校が建つ。 A 中学校北にあるこれは土塁? B道路右側の平な部分が帯曲輪跡? C中学へ登る道路も帯曲輪跡らしい。

参考:鮫川村誌