下手沢館(棚倉町下手沢)36.9988、140.3822
棚倉市街地の南部、八槻で国道118号線バイパスが市街地を迂回し、西の山麓を通る。
バイパスに入ると西の山本不動尊方面に県道231号線が分岐する。

↑南から見た館跡、中央左のピークである。
その分岐の北西にある山が館跡である。八槻館西の山からは真北に見える山である。
山の最高箇所標高304mに愛宕神社の奥宮があり、その付近が館である。
館へは南下の愛宕神社から登るのが近道であるが、この道、急な斜面を一直線に登る。

南下にある愛宕神社、この奥宮が山頂に建つ。そこが・・・・

斜面部は砂礫が多く、落ち葉が積もり、滑り落ちる。
でも、登っている痕跡がある。
ロープがないと直登は無理。ちゃんと真っ直ぐ登れる人がいるのか?

そこで斜面を斜め登りして尾根に出、尾根沿いに最高箇所に向かう。
普通、尾根筋には堀切があるのが定番であるが、「ない」。
いきなり最高箇所である。
そこは径約7m、土塁が円形に覆いそこに社が建つ。

A山頂に建つ愛宕神社奥宮、周囲を土塁が覆うが、遺構か? B山頂西下にある腰曲輪、内部は平坦に削平されている。 C Bの腰曲輪から見上げた山頂部、切岸は鋭い。

この土塁は神社に伴う可能性もある。
そこから西下約7mに腰曲輪がある。
突き出し約7m、内部は平坦である。

さらに尾根は西に下るが、鞍部にも堀切は認められない。
これだけである。
城館とすれば物見台程度のものである。

三上館(棚倉町岡田)
棚倉町の東部、浅川町と塙町に挟まれた岡田地区にある。
県道75号沿いにあり、山岡小学校の南400m地点である。
県道沿いの西側の山にお堂が見え、その北に住吉神社がある。
そのさらに北の西から東に張り出した山が館跡である。


南東側の低地から見た三上館。
杉林付近が主郭に当たる。東側は急勾配。
西側に民家が3軒ほどある。

山の標高は330m、比高は20mほどであるが、周囲は結構、急勾配である。
特に北側は崖状である。館の南側は民家が3軒あり、その民家内を通らないと館跡には行けない。
民家の方の許可をもらい、山に突入。

館は半島状の尾根の先端部を主郭にし、背後の尾根を3本の堀切で分断した延長120m程度の規模に過ぎない。
先端の主郭T@は直径30mほどである。内部には稲荷社が建ち、平坦ではない。
らせん状という感じで南側は帯曲輪状になる。
北側の曲輪は削り出し尾根状の曲輪Uがあり、西にカーブする。曲輪Uの南側は曲輪Wとなる。
主郭との間に深さ4mほどの堀切Aがある。

さらに曲輪Uの西に深さ5mの堀切B、さらに西にもう1本の堀切がある。これだけの小規模な城である。
詳細な歴史は分からないが、この街道筋は浅川城、中里城方面と羽黒山城を結ぶルートであり、そのつなぎの城なのであろう。
なお、麓の民家の方は城主の子孫だと言っていた。

@稲荷社が建つ主郭に当たる曲輪T A曲輪T、U間の堀切。藪じゃん! B曲輪U、V間の堀切。こちらはマズマズ。

八槻館(棚倉町八槻)
「やつき」と読むのだそうである。
棚倉町南部にある八槻都々古別神社の国道118号を隔てた南西、如意輪寺の南300m、棚倉武家屋敷との間に位置する。
この館、なかなか分からなかった。


@ 東側の国道118号から見える土塁。

A 土塁間に開く虎口。こちらが二郭か?
だいたいにおいて館と言えば、岡が近くにあれば、ほとんどの場合、岡の縁部に位置する。
この先入観の元、如意輪寺のある岡の上周辺を探し回った。
しかし、岡の上には遺構らしいものは確認できなかった。
このため、この館は湮滅してしまったと考えていた。
ところが、この館、まったく想定外の岡の下に存在していたのである。これでは分からんはずである。
先入観がいかに危ないかということをつくづく感じた。

この館が分かったのは、国道118号沿いにあった家が取り壊され更地となり、奥にあった館の土塁らしきもの@が、国道沿いから見えたからである。
その土塁らしき場所に行って見ると、やはり土塁に間違いない。
この土塁は北に延び、さらに西に曲がり岡に続いている。
土塁の外側には堀はないが、失われたのかもしれない。
さらに驚いたことは、その奥にある民家、堀に囲まれているのである。
B主郭(左)北の堀跡。土橋もある。

東側は幅15m、深さ4mほどの堀であり、北側の堀は埋められてはいるが、きれいに跡を残す。
幅も15mほどある立派なものである。南側がどうなっていたのかは確認できない。

この館については石井可汲の「東白川郡沿革私考」に
「ここ(西三角(ミカド))は館ではなく、屋敷跡だろう。「大門」「前堀の内」「馬場」という地名もある。
里では主についての伝承はない。
この地の東條筑前入道という者が明応5年(1496)に八槻都々古別神社に寄進をした記録があり、東條氏の屋敷跡ではないだろうか」
と記述している。(棚倉町史参考)
戦国時代の館とすれば居館であるが、むしろ、江戸時代の庄屋屋敷か代官所と言った感じである。
しかし、江戸時代の屋敷なら記録などが残るはずであるし、伝承も残るはずである。
それらが存在しないということは、戦国時代まで遡るのであろう。
そうすれば、東條氏以外に該当者はいないようである。
東條氏、おそらく白川結城氏家臣と思われる。

なお、近世以降はここは八槻都々古別神社の宮司、八槻氏の屋敷となっている。
戦国期のどこかで、東條氏から八槻氏に主が替ったようである。

八槻館西の山(棚倉町八槻)36.9918、140.3864
国道118号線、棚倉の市街地に入る南に「八槻都々別神社」がある。
国道の反対側の西側にあるのが、神社の宮司さんの住居が八槻家住宅である。
この場所が八槻館でもあるとされる。

しかし、岡の麓であり、江戸時代の武家屋敷ならともかく、戦国時代の城館としては疑問な立地である。
戦国時代ならいくら居館でもこの立地では防御上不安である。
西の岡の上から攻められたらどうにもならない。

↑北側から見た八槻館西の山、八槻館は写真左側に位置する。
西側の山に詰めの城のようなものがないと不自然である。
ということで西側の山に上がってみる。

この山、西側から張り出した尾根状であり、その末端下が八槻館である。
で、登ってみたのだが・・・分からん!
標高275mの上部には八槻家の墓所があり、東に曲輪のような平場が、そして西側の標高282m、比高約60mの頂上部には径20mの平場が。
その西に腰曲輪のような平場が、さらに尾根が下りとなり、鞍部に堀切があるはずだが・・・ない!
これだけである。
これじゃあ、城館にしては?である。

@ 墓地東下に平場があるが・・・ここは曲輪か? A 山頂東下の八槻家墓地には五輪塔が建つ。 B山頂部は平坦地、周囲の城郭遺構はない。

結局、この山、城館とは判断できない。
個人的にはここは違う、と思う。一応、参考までに掲載。
なお、八槻西三角(みすみ)という場所があると言うが、それがここだろうか?

(おまけ 八槻都々古別神社)
八槻館の直ぐ北に八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)がある。
平安時代に編集された延喜式神名帳では名神大社として記載され、陸奥国一宮とされている古い神社である。

八槻都々古別神社の鳥居 八槻都々古別神社本殿

なお、この棚倉町の中心部近く馬場にも都々古別神社がある。
両社とも同じような由緒を持ち、同じくアヂスキタカヒコネノミコトを主祭神として日本武尊を配祀し、名神大社・陸奥国一宮を称している。
しかし、上社、下社とか秋宮、春宮とかのペアの関係はないようであり、共通の祭事もなく、別々に独立した神社である。
この2つの神社が、もともとは、分祠関係にあったのか、ペアの関係にあったのか、それとも全く別の神社が同名を名乗っているのかは分からない。

 由来としては、味鋤高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)がその父である大国主命を助けて奥羽の地を開拓し、住民にその徳を慕われ、当地に祭祀されたのが始まりとされている。
日本武尊の東征には、千度戦って千度勝ったとされ、その後陸奥国に来た八幡太郎義家が、この故事を称えて当神社を「千勝大明神(ちかつだいみょうじん)」と名づけたという。

八槻館と八槻都々古別神社は、直ぐ近くであり、八槻都々古別神社もかなりの権威のある神社である。
いつごろからこの地に建っていたのかは分からないが、戦国時代には建っていたのではないかと思われる。
神社の宮司の屋敷が八槻館とも思えるが、どうもそのようなことでもないようである。

千石館(棚倉町山際)
棚倉中心部から栃木県伊王野方面に県道60号線を久慈川に沿って、棚倉城から約4q。高野小学校、北東の山が館跡という。
この山、標高が360mほど、比高は90mほどである。

登る道もない倒木だらけの藪の斜面を汗だくになりながら登って、比較的広い尾根上に出たのであるが、そこは一面のただの山。
土塁、堀等、館跡らしい遺構はない。

尾根上を歩きまわり、尾根先端部近くに幅10m、深さ3m程度の余り鋭くはない堀切のような人工的に見える場所Aがあったが、これだけ。
その先にはやや平坦な場所@があるが、自然地形に近い感じである。

狼煙台と思わせる場所も見当たらなかった。
果たしてここが館だったのであろうか、それとも遺跡地図の場所が違っているのか?

館が存在していたとしたら戦国時代前期、伊王野方面からの那須氏の侵攻を白河結城方の赤館に伝えるための狼煙台・物見台程度のものであったと思われる。
(狼煙台・物見台としてももう少しまともな遺構を残すことが多いが・・・)
@尾根先端部の平場、曲輪とは思えない。 A堀切のような遺構。

石井可汲の「東白川郡沿革私考」では
「この館については存在は伝承のみ。
天正17年(1589)の佐竹伊達の赤館合戦で、佐竹が富岡に若狭守を置くとあるので、その館かもしれないが、富岡はここ「山際」より東であり、場所が一致しない。」
と記されている。
したがって、ここが城館なのか、以前から疑念が持たれていたようである。
実際、現地を見ても、この場所は、とても技巧的な発達を遂げた戦国末期の城にはほど遠い。
(棚倉町史参考)

金井館(棚倉町寺山)
寺山城の南側にある寺山城の出城と言われている。
しかし、とても出城の規模ではなかった。単独でも城と言える中規模以上の完全な独立した城である。
寺山城の最南端、薬師堂砦(蛇尾館)の南500mに国道118号から鮫川方面や浅川方面に向かう国道289号線が分かれるが、この道が山間に入り南東側にカーブする右手の山が城址。

国道289号線はちょうど谷津を通っていることになり、城は南側のみが山地につながる半島状の山の先端部にあることになる。
 城のある山の標高は308m、比高は105m。
 この城もどこから取り付いてよいのか分からない。
 東側に土取り場があり、そこから入れそうな気がするが、崖のため断念。(「立入厳禁、一切の責任を負わず。」という看板が立っていたが、妙に納得。どうも西側低地側から登る道があるとのことらしい)

 こうなったら西館同様、突撃しかない。
 まず、北東側の尾根に出て、熊笹をかき分け主郭部を目指す。
 途中に曲輪と思われる平坦地がいくつかある。

 この尾根筋を登ると北側の堀切Yに出る。
 両側に土塁を持つ佐竹式城郭に良く見られるタイプであるが、かなり浅くなっている。
 ここから北に向かう尾根筋には明確な遺構はないが、北端は物見台のような遺構がある。
 この城のある山の東側は急斜面であり、腰曲輪等はないが、久慈川に面する西側は傾斜が緩く腰曲輪が数段にわたって築かれる。
 堀切の西側にも曲輪がある。
西側低地から見た城址。
比高105mの山城である。
Yの堀切。 Yの堀切から見た本郭の櫓台T。 Wの曲輪から見たXの曲輪。
前面に土塁を持つ。
本郭Uと東側にある土塁T。 本郭の土塁には石の集積がある。 南城南を登る大手道。
右手に土塁がある。
本城と南城間境界の堀切。

  本郭はこの堀切から20mほど南側にある。北側は急な切岸に加工されている。
 高さ15mの切岸を登ると主郭部である。
 北端に櫓台のような盛り上がりTがある。東側が高さ2、3mの土塁状になり、その西側が平坦地Uとなる。
 尾根筋の片側を削って残った部分を土塁とし、郭を作り出した構造である。
 同様な遺構は寺山城の主郭部南側にも見られる。
 また、南側の部分にも同じものがある。

 このため、これらの遺構は寺山城の遺構と同時期に作られたものと思われる。
 主郭部の土塁は長さ50mに渡って徐々に高さを下げながら続く。
 途中にこぶし大の石の累積がある。投石用のものであろう。(石垣ならもっと大きな石を使うはず。)
 
南は5m下に曲輪Vが、さらに5m下に曲輪Wがあり、堀切に至る。
 最高箇所の櫓台から堀切までの距離は約100mである。ここまでが北城である
 
主郭部の西側には腰曲輪が数段あり、主郭部直下の曲輪Xは前面に土塁を持つ。 
 今回は行かなかったが、堀切の南側にも城郭遺構(南城)があり、さらに南西に延びる尾根に南出城がある。
 南出城を除いた城域は南北350m、東西250mほどになる。
 大手道は南出城との間の谷津を下る道であったという。

南西に延びる尾根に南出城がある。
 この尾根は先端までは500m程度ある。先端部下を水郡線が通る。
 北側がほとんど垂直に近いような崖であり、南側はやや傾斜は緩い。
 冬場、寺山城薬師堂砦から見ると、この尾根先端部にある物見台のような曲輪1、2が良く見える。

 北側から直攀を試みたが、崖を登ることになり、後20mで断念。
 しかたなく本城側から尾根伝いに行く。
 南出城の本城部は先端近くにあり、本城側には物見のピークを平坦化した曲輪3しかない。

 先端部は直径15m程度の比較的平坦な曲輪1があり、西側に曲輪が20mほど突き出ている。
 ここからは棚倉方面、塙方面の眺望が抜群である。

 物見台として使用していたことは明白である。
 突き出た曲輪の下20mにもう一つの物見台2がある。その先端は完全な絶壁状態である。
 南西方向に尾根が派生し、曲輪4などがある。

 この出城は尾根南側の谷津が余り深くなく、その谷津に沿った本城側への攻撃を牽制、防御する役目もあったと思われる。
北側から見た南出城。 尾根筋の北側は絶壁である。 曲輪1から西に延びる尾根。 曲輪1の20m下の曲輪2。

 ここに館が築かれたのはいつかはっきりしないが、白河結城氏が支配していた時期には何らかの城郭は存在していたと思われる。
 現在残る姿は戦国末期、この地を支配した佐竹氏によるものであろう。
 それにしても出城といってもこの規模は大きい。
 境目の緊張をはらんだ地域であったため、その緊張感が城の規模に現われているのであろうか。

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