米山砦(塙町稲沢)

塙市街の北西、久慈川の西岸に米山がある。
山頂にTV中継塔があるので直ぐ分かる目立つ山である。

標高は351m、麓が200mなので比高は150mとかなりのものである。

右の写真は南東側にある羽黒山城から見た米山砦である。
まるで巨大空母羽黒山城に併航する駆逐艦のようである。
中央のTV塔がある付近が主郭部である。
眼下に久慈川が流れる。
手前は塙市街である。
北から南に張り出し、さらにこの下で久慈川が湾曲するので半独立峰的な尾根状の山であり、平野部からの死角がなく北からも南からも良く見える。

山の東西の斜面は非常に険しい。
本来は南端の尾根先端から登る道があり、そこを登るようになっていたようである。
でもありがたいことに車で山頂まで何とか行くことができる。

西の稲沢集落の奥の方に北野神社があり、その横から林道のような中継塔メインテナンス用の道が延びる。
この道を進めば良い。

肝心の遺構であるが、山頂部の最高地点にTV中継塔が建っているので遺構が破壊されたようで特段、何もない。

左の写真はその山頂部である。
段差状になっているが、塙町史によるともともと、この部分は2,3段の階段状になっていたらしい。
これが曲輪なら、尾根筋に堀切が存在するはずである。
しかし、前後の尾根を歩いてみたが堀切もない。


山頂部は米山薬師関係のお堂と鐘突堂があり、南から登る参道の道が尾根上に付いている。
頂上部は木があって眺望が今1つであるが、北には赤館、金井館南出城、寺山城薬師堂出城。
南は下の写真のように羽黒山城、油館、狐館を一望に見ることができる。

狼煙リレー及び街道監視の場所としては理想的な立地条件である。

現在、TV中継塔が建てられている理由もまったく同じである。
この場所なら電波の死角が最低になるだろう。
地形と位置からして本格的な尾根城を築ける場所であるが、そのようなものは存在しない。
古くからこの山は米山薬師を祀る信仰の山であり、信仰をないがしろにしてまでは城は築けなかったのかもしれない。

当初は白川結城氏がこの構築した狼煙リレーの中継基地であったと思われるが、この地が佐竹氏の手に落ちると、北方の最前線基地、赤館、寺山城と兵站基地、羽黒山城、東館、さらには佐竹氏の本拠、常陸太田城方面への連絡用の狼煙リレー基地として使われていたのであろう。

山頂から南の常陸方面を見る。
久慈川沿いに城館が並び、狼煙リレーの城であったことが分かる。
山頂から南側の尾根筋は道になっているが、
堀切は見られない。

中野平館(塙町中野)
羽黒山城を西に見る川上川北岸の平地のど真ん中にある単郭の館である。
しかし、この付近の水田は耕地整理され、かつては外郭があったという。
館中心部の字名は「内屋敷」、東が「東木戸」、西が「西木戸」、北に「堀の内」「門田」ということであり、複数の曲輪を持つ梯郭式の館であったと考えた方が良いようである。
この場所は、久慈川が流れるJR水郡線沿いの谷の東側の盆地である。

塙中学校の東400m地点であり、館の周囲はやや西に傾斜する水田地帯、この館跡の一角だけが、水田地帯の中で藪となっているので遠くからでも確認は容易である。
しかし、藪は外部だけである。
館内部はかつては畑だったようであるが、耕作が放棄され、杉や広葉樹が植林された状態になっているが、それほどの藪ではない。

館は東西100m、南北80mほどの台形をしており、川上川に面した南側以外を堀が覆う。
西側の堀は幅10mほどであり、水田となってその跡がきれいに残る。@、A。
東側は川上川に注ぐ小川が谷のようになって流れ、この川が堀を兼ねている。

館主要部は川上川の水面からは5mほど高い段丘上にあるが、どの程度まで土塁があったのかどうかは、内部がかつて畑となって改変されているので、良く分からない。
しかし、西側と北側には土塁が存在していたような感じである。

川上川に面した南側と東側には土塁が存在していた痕跡は伺えない。
虎口Bが西側に残る。東木戸という地名があるように東側にも虎口があったようである。
ただし、東側は堀を兼ねた川があるので、橋がかかっていたと思われる。

塙町史では、館跡から鎌倉時代の陶器片が採取されていることから、鎌倉時代にこの低地の水田開発、農耕地経営の拠点として築かれたとしている。
さらに戦国時代の陶器片も確認されていることから、戦国時代にも使用され、羽黒山城は、始めはこの館の詰めの城であったと推定している。
戦国時代前半はこの付近の政庁的城郭であり、後半は羽黒山城に拠点的城郭の地位が移ったと思われる。
館主等については明確な記録はないという。(塙町史参考)

左の写真は、国土地理院昭和50年撮影の航空写真。
@館跡北西端の堀。正面の山は羽黒山城。 A館跡西側の堀跡は水田となって残る。 B南西端に残る西の虎口 C館内部は南側に若干傾斜しているがほぼ平坦。

館岡館(塙町中塚館岡)
平館の東600mの中野平館のある小盆地を西に見る東から西に張り出した岡にある。
真西1.5qが羽黒山城である。北側が侵食され、この岡は半島状になっている。
現在は「館岡」集落になっている。字名が示すように城館があったことは間違いない。

この岡の標高は230mほど、低地からは30m程度の比高である。
城域は東西250m程度と推定される。宅地となっており、遺構は分からなくなっている。
南北に岡を分断する堀があったのではないかと想像される。南側の斜面が段々状の畑となっているが、これは曲輪の跡だろうか。

川上川の対岸には銚子館があり、川上川上流(南側)方面からの侵攻を両館で牽制している。
当然、防衛対象は中野平館であろう。
その後、この地の拠点城郭が羽黒山城に移ると、その支城となったと思われる。
館主としては「白河古事考」に「湯本因幡守であり、大永2年頃には白川結城の番城であった。」という記述がある。
湯本氏が登場するのはこの部分だけであり、どのような者であったかは分からないという。
(塙町史参考)

中野平館からみた東方の館岡館 国土地理院昭和50年撮影の航空写真。
遺構は確認できない。