片貝館(塙町大字片貝)36.8922、140.4985
矢祭町のJR水郡線東館の東直線で約7q、国道349号線を鮫川方面に進んだ塙町の片貝地区にある。
ここ片貝は山間の小盆地であり、西に「湯遊ランド」がある。
旧片貝小学校(平成24年に閉校)の北に見える山の西端部が城址である。

↑ 片貝小学校跡から見た城址。写真左側が主郭部である。

城には西下の民家裏の竹林を登るのが一番の近道であるが、取りつく場所が人家の裏で分かりにくい。
このため、東にある「十殿神社」に登り、そこから山を西に向かうのが行きやすい。
この片貝地区、田舎の常、過疎化が著しい。
2軒に1軒が空き家で老人が多い。
城に聞いても「城なんかねえよ。」という予想どおりの答えである。
城の伝承はないということである。

地元の郷社である十殿神社も過疎化のためだろうけっこう荒れている。
ともかく神社から西に向かう。
城に向かう山は荒れてはいるが、歩くには支障ないが、徐々に標高が低くなっていくので、城があるのか、不安になる。

@東端部の二重堀切、塹壕という感じである。 A主郭から見た二重堀切がある東側の土壇

西先端部に平場のようなものが見えて来る。そこが城である。
細尾根になった鞍部を通過すると二重堀切@がある。
ここが城の東端であるが、二重堀切といっても掘2つ分で幅が約8mとそれほど大きなものではないが、明瞭である。
どちらかというと頂上部は二重塹壕と言った感じである。
この西側が主郭Aであるが、二重堀切部から約5m低い。
北側に曲輪に降りる竪土塁がある。

B主郭西側先端部の低い土塁 C主郭西下の腰曲輪は前面に土塁を持つ。

主郭は東西約40m、西端に低い土塁Bがあり、南側に南下の曲輪に降りる虎口があり、この曲輪は主郭の西側に回り込んで覆う。
ををさらにその下にも曲輪がある。
主郭の西下は急勾配で切岸の高さ約4〜5mもある腰曲輪が4つ重なる。
一部の曲輪Cは前面に土塁を持つ。

城域は東西約100m、南北約40mである。
東側の標高が約600mに対して主郭部は584m、16mほど低く、城内が見降ろせるのである。
これは防衛上不利なのだが、東側に何の施設もない。
非常に不思議である。東側が味方のいる方向ということか?
城は南下を通る街道の西方向の監視が目的と思われる。城の来歴等は分からない。

大畑館(塙町大字山形)36.9301、140.4672
塙町中心部から県道27号線を北茨城市花園方面に約8q(直線では約5q)山形地区の大畑にある。
館がある場所は県道27号線から少し北に入った場所にある。
ここに薬師堂@があり、そこが城域がどうか分からないが、城址と思われる場所は薬師堂に続く背後の尾根である。
背後の尾根はしばらくはフラットに続くが、途中から一気に急勾配となる。

登るのには木から木にしがみつきながら登って行くしかない。
とんでもない勾配である。
で、その登った先に小さな社Aがある。
薬師堂の奥宮か?

@尾根末端部にある薬師堂。 A薬師堂の裏の道を行き、急傾斜を登ると社がある。
Bの裏に平場があり、その北に二重堀切がある。 C二重目の掘は古道に利用されている。

背後は段々になり、平場になっている。
そしてその先に二重堀切Bがある。
北側の掘は道として使われていたようで横堀状の古道Cになっている。
その北側は少しづつ高くなっていくが城郭遺構はない。
城の来歴等は分からない。

植田館(塙町植田)36.8956、140.4070
南郷のメインルートは久慈川の東岸を通る国道118号線であり、矢祭町や塙町の中心街はこの沿線にある。
大型城郭である東館城、羽黒山城、寺山城は久慈川東岸に並ぶ。
一方、久慈川の西岸はサブルートであり、県道230号線が通る。

↑南東下県道230号線から見た館跡、独立状の目立つ山である。
沿線には西館、伊香油館があるが、いづれも小さい。
西岸はどうも影が薄い。裏道である。
しかし、実は県道230号線の方が棚倉、白河方面に行くには走りやすい。
信号も少なく、交通量も少ないからである。管理人はいつもこの道を通る。

このルート沿いの既知の城、西館、伊香油館間は約4.5q離れている。
その中間点植田に新たに城館が確認された。
ここ植田は塙町の最南端であり、東、南は矢祭町である。
久慈川を渡るとJR水郡線「南石井駅」である。
植田地区にある天神神社の西の標高261mの山が城である。

久慈川からの比高は約95mである。この山の周囲を林道が通るが荒れた道である。
軽トラなら行けないことはないが、普通の車では止めておいた方が良い。
この山、登る道はない。
どこからとりついても急勾配、木にしがみついて登るしかない。

山頂には土壇と腰曲輪があるに過ぎない。
物見の場か?
尾根を西に下ると標高250m地点に30m×3mの平場がある。
さらにその西、鞍部に2条の堀切があるが埋没が激しい。

@山頂部は細長い土塁状の曲輪 A 山頂部@南下に腰曲輪がある。
B山頂西下の細長く平坦な曲輪、ここに小屋があったか? C Bの曲輪の西下の尾根は2本の堀切で遮断される。

ほとんど自然地形に近い、かろうじて物見台程度の規模の城館である。

「塙町史」によると麓の植田地区には堀ノ内、天神免、小屋、立柳、中内、大門という城館に関わると思われる地名があるが、城館の存在は確認されていなかったが、その城館こそがここであろう。
天神神社のある付近が低地から一段高い平場である。
そこに居館が有った感じである。
この地から西の真名畑地区に通じる。
そこからは内川経由で町付に通じる。
その街道の入口部を監視する役目と久慈川沿いの狼煙リレーに関わる城でもあろう。

米山砦(塙町稲沢)

塙市街の北西、久慈川の西岸に米山がある。
山頂にTV中継塔があるので直ぐ分かる目立つ山である。

標高は351m、麓が200mなので比高は150mとかなりのものである。

右の写真は南東側にある羽黒山城から見た米山砦である。
まるで巨大空母羽黒山城に併航する駆逐艦のようである。
中央のTV塔がある付近が主郭部である。
眼下に久慈川が流れる。
手前は塙市街である。
北から南に張り出し、さらにこの下で久慈川が湾曲するので半独立峰的な尾根状の山であり、平野部からの死角がなく北からも南からも良く見える。

山の東西の斜面は非常に険しい。
本来は南端の尾根先端から登る道があり、そこを登るようになっていたようである。
でもありがたいことに車で山頂まで何とか行くことができる。

西の稲沢集落の奥の方に北野神社があり、その横から林道のような中継塔メインテナンス用の道が延びる。
この道を進めば良い。

肝心の遺構であるが、山頂部の最高地点にTV中継塔が建っているので遺構が破壊されたようで特段、何もない。

左の写真はその山頂部である。
段差状になっているが、塙町史によるともともと、この部分は2,3段の階段状になっていたらしい。
これが曲輪なら、尾根筋に堀切が存在するはずである。
しかし、前後の尾根を歩いてみたが堀切もない。

山頂部は米山薬師関係のお堂と鐘突堂があり、南から登る参道の道が尾根上に付いている。
頂上部は木があって眺望が今1つであるが、北には赤館、金井館南出城、寺山城薬師堂出城。
南は下の写真のように羽黒山城、油館、狐館を一望に見ることができる。

狼煙リレー及び街道監視の場所としては理想的な立地条件である。

現在、TV中継塔が建てられている理由もまったく同じである。
この場所なら電波の死角が最低になるだろう。
地形と位置からして本格的な尾根城を築ける場所であるが、そのようなものは存在しない。
古くからこの山は米山薬師を祀る信仰の山であり、信仰をないがしろにしてまでは城は築けなかったのかもしれない。

当初は白川結城氏がこの構築した狼煙リレーの中継基地であったと思われるが、この地が佐竹氏の手に落ちると、北方の最前線基地、赤館、寺山城と兵站基地、羽黒山城、東館、さらには佐竹氏の本拠、常陸太田城方面への連絡用の狼煙リレー基地として使われていたのであろう。

山頂から南の常陸方面を見る。
久慈川沿いに城館が並び、狼煙リレーの城であったことが分かる。
山頂から南側の尾根筋は道になっているが、
堀切は見られない。

中野平館(塙町中野)
羽黒山城を西に見る川上川北岸の平地のど真ん中にある単郭の館である。
しかし、この付近の水田は耕地整理され、かつては外郭があったという。
館中心部の字名は「内屋敷」、東が「東木戸」、西が「西木戸」、北に「堀の内」「門田」ということであり、複数の曲輪を持つ梯郭式の館であったと考えた方が良いようである。
この場所は、久慈川が流れるJR水郡線沿いの谷の東側の盆地である。

塙中学校の東400m地点であり、館の周囲はやや西に傾斜する水田地帯、この館跡の一角だけが、水田地帯の中で藪となっているので遠くからでも確認は容易である。
しかし、藪は外部だけである。
館内部はかつては畑だったようであるが、耕作が放棄され、杉や広葉樹が植林された状態になっているが、それほどの藪ではない。

館は東西100m、南北80mほどの台形をしており、川上川に面した南側以外を堀が覆う。
西側の堀は幅10mほどであり、水田となってその跡がきれいに残る。@、A。
東側は川上川に注ぐ小川が谷のようになって流れ、この川が堀を兼ねている。

館主要部は川上川の水面からは5mほど高い段丘上にあるが、どの程度まで土塁があったのかどうかは、内部がかつて畑となって改変されているので、良く分からない。
しかし、西側と北側には土塁が存在していたような感じである。

川上川に面した南側と東側には土塁が存在していた痕跡は伺えない。
虎口Bが西側に残る。東木戸という地名があるように東側にも虎口があったようである。
ただし、東側は堀を兼ねた川があるので、橋がかかっていたと思われる。

塙町史では、館跡から鎌倉時代の陶器片が採取されていることから、鎌倉時代にこの低地の水田開発、農耕地経営の拠点として築かれたとしている。
さらに戦国時代の陶器片も確認されていることから、戦国時代にも使用され、羽黒山城は、始めはこの館の詰めの城であったと推定している。
戦国時代前半はこの付近の政庁的城郭であり、後半は羽黒山城に拠点的城郭の地位が移ったと思われる。
館主等については明確な記録はないという。(塙町史参考)
左の写真は、
国土地理院昭和50年撮影の航空写真。
@館跡北西端の堀。
正面の山は羽黒山城。
A館跡西側の堀跡は水田となって残る。 B南西端に残る西の虎口 C館内部は南側に若干傾斜してい
るがほぼ平坦。

館岡館(塙町中塚館岡)
平館の東600mの中野平館のある小盆地を西に見る東から西に張り出した岡にある。
真西1.5qが羽黒山城である。北側が侵食され、この岡は半島状になっている。
現在は「館岡」集落になっている。字名が示すように城館があったことは間違いない。

この岡の標高は230mほど、低地からは30m程度の比高である。
城域は東西250m程度と推定される。宅地となっており、遺構は分からなくなっている。
南北に岡を分断する堀があったのではないかと想像される。南側の斜面が段々状の畑となっているが、これは曲輪の跡だろうか。

川上川の対岸には銚子館があり、川上川上流(南側)方面からの侵攻を両館で牽制している。
当然、防衛対象は中野平館であろう。
その後、この地の拠点城郭が羽黒山城に移ると、その支城となったと思われる。
館主としては「白河古事考」に「湯本因幡守であり、大永2年頃には白川結城の番城であった。」という記述がある。
湯本氏が登場するのはこの部分だけであり、どのような者であったかは分からないという。
(塙町史参考)

中野平館からみた東方の館岡館 国土地理院昭和50年撮影の航空写真。
遺構は確認できない。