羽黒山城(福島県塙町)
福島県南部の久慈川に沿った南郷地方の真中、塙町市街北東側に聳える羽黒山にある巨大な山城。
福島県の南部では最大規模の城郭である。
城址一帯は杉林に覆われ、遺構はほぼ完存しているが、林が鬱蒼としているため、冬でさえも遺構を確認することが困難である。
羽黒山は北方は山地に続くものの、ほぼ独立した山であり、城はこの山のほぼ全体にわたる。
どこまでを城域と捉えるかは論議はあるが、山頂を中心に直径約1kmの範囲が城域と言って問題ないであろう。
この城は山城に多い尾根式の城と山麓に曲輪群を階段状に構築する階郭式城郭が複合した城郭である。
頂上にある本郭の周囲(本城)及び東の斜面に階段状に曲輪群(中城)を置き、本郭から南側、西側の谷津が深く発達した部分の数方向に延びる尾根筋に堀切を多用した典型的な尾根城郭を築く。
山頂の標高は346m、比高は170mである。山全体は上から見るとほぼ円形であり、低地から見るとずんぐりして見える。
築城についてはいくつかの説があるが、白河結城氏がこの地方を領有していた時期に築かれたと思われる。 なお、この城には源義家の築城伝説があるが、これは伝説の域は出ていない。 城の東山麓にある塙中学校の東に川上川に面して平館があるが、ここが平時の館であり、この館の詰め城が羽黒山城であったと推定される。 築城当時は現在の出羽神社社殿が建つ本郭部周辺のみに限定されたごく普通の山城であったと思われる。 この城が資料に登場してくるのは永禄年間(1558−1570)からである。 当時は佐竹氏の北上が始まり、この地方は佐竹対白河結城氏の激しい攻防が行われる。 この戦いは単なる領土拡張を目的とした侵略戦ではあるが、八溝金山の支配権を巡る戦いであったため、両者とも総力を挙げての戦いとなる。 戦いは勢力が衰えはじめている白河結城氏が次第に圧迫され、東館、羽黒山、寺山、赤館と次々と佐竹氏が攻略し、最後は白河結城氏の本城白川城(搦目城)を始め、浅川城が佐竹氏の手に落ちるという結末となる。 この戦いの中で東館を足掛かりに羽黒山城を落とした佐竹氏は、ここを足掛かりにさらに北の寺山、赤館を攻略する。この際の前進基地、中心的な兵站基地としてこの城が利用されている。 |
このため、元亀3年(1560)、天正2年(1574)、天正6年の佐竹氏への白河結城、芦名、田村連合軍の反撃では寺山城と羽黒山城が攻撃を受けている。
天正6年の攻撃では城代の大塚越前が打ち捕らえられている。この時、落城したのかどうかは不明であるが、佐竹氏の勢力を駆逐するまでは至っていない。
この間に佐竹氏により拠点城郭としての城の拡張が図られてきたのは事実であろう。
天正末期になると佐竹氏の敵は伊達氏に代わり、今度はこの地方が伊達氏の攻撃に晒され、佐竹氏が受身となる。
このため、佐竹氏は東館、羽黒山、寺山、赤館の主要4城の拡張整備を命じている。
現在残る東館、羽黒山、寺山、赤館の主要4城の規模は、この時期に現在の規模になったものと思われる。
いずれも佐竹本国の城郭と比べても規模が大きく、堅固な山城である。
そして、4城とも大兵力を駐屯させる共通の機能を有している。
山城は通常は留守役がいる程度で緊急時のみに兵が詰めるが、この4城は緊張感がある境目の城であるため、常備兵が駐屯し、佐竹氏の重臣クラクが城代として常駐していたという。
今に残る遺構はこの時期のものと思われるが、おそらく拡張工事も小田原の役終了後の豊臣秀吉の天下統一で中断されたと言われる。
この時期に羽黒山城の東側に残る曲輪群が大々的に築かれたのではないかと推定されている。
しかし、どうも関が原直前の時期に拡張工事が再開されたようであり、北出城は未完成のままとなっているという。
関が原直前の時期の拡張工事は多気山城、真壁城、谷貝城、谷貝峰城も行われたようであり、谷貝城、谷貝峰城は未完成に終わっている。
東館、羽黒山、寺山、赤館の主要4城の駐屯スペースを比べてみると羽黒山城が圧倒的に大きく、万規模の兵力を置くことができる。
要害性の面では寺山城が圧倒的に堅固ではあるが、駐屯スペースにはやや難があり、東館、赤館はその逆である。
両者の要件を兼ね備えているのがこの羽黒山城であり、この城こそが、佐竹氏の奥州における最大拠点であったのであろう。
いかに佐竹氏が重視していたのかは、この城の遺構と規模を見れば良く分かる。
東から見た羽黒山。城域はこの山全体。中央のピークが本郭部。左下の茂みが平館跡。 | Fの土塁間を通る出羽神社参道。 |
中城の矢倉台跡 | 中城の曲輪群。 | Dの虎口 |
B本郭南の腰曲輪。 | 本郭から西側のAの曲輪を見る。 | 本郭@北の土壇。 |
Aの曲輪から見た西の曲輪と塙市街地 | Cの堀切。 | 南出城Eの堀切。 |
この城には2回行った。
1回は夏に東側の林道から、もう1回は冬に西側の市街地からである。
割合、ずんぐりとした山の形状であるため、登る道は何箇所もある。
かつては西側から谷沿いを登る道が大手道だと言われていたが、昭和56、57年の発掘調査で東側の塙中学校付近から登る道が大手道であることが確認された。
この方面からは舗装された林道が山に向かって延びており、車で本郭の東下まで苦もなく行くことができる。
その途中から遺構が次々と表れる。
まず、最も山側にある人家を過ぎて、道がカーブする当りが城館跡である。
冬にならないと藪が酷くて分からないが、林道からも大きな堀が巡っているのが分かる。
さらに登ると両側に削平地と思われる遺構が所々に現われる。
舗装が途切れた場所が駐車場になっているが、その付近も削平地、切岸が見られる。
ここからは参道に入るが、本郭までの曲がりくねった道沿いに土塁や堀がいくつも現われる。
塙町史掲載の図を見てもどの土塁がどの郭のものなのか位置関係が今ひとつは把握できない。
郭も藪で良く分からない。
ただし、山上まで何段も郭が積み重なっている様子は良く分かる。
ひときわ大きな土塁(鳥瞰図のG)があるが、これが矢倉台跡であろう。
ここを過ぎると杉林の向こうに本郭の地に建つ出羽神社の本殿が聳え立っているのが見える。
Fの土塁と堀を越えると本郭東下の曲輪に出る。
冬に登った西側からの道(出羽神社裏参道)も杉林の勢いが旺盛で遺構の確認は困難である。
谷津沿いに道はあるが、両側の尾根は高く結構勾配もきつい。本郭近くは谷間も段々状に加工されているのが見られる。
主郭部一帯は本城と呼ばれるが、その入口部に虎口Dが開いている。
ここから南に延びる尾根が南出城であり、Eの堀切を始め尾根沿いに郭と堀切、竪堀が連続する。
尾根の末端は愛宕神社である。
主郭部までは虎口からさらに数段の腰曲輪を通る。
本郭直下の腰曲輪Bから階段が本郭@に建つ出羽神社社殿に延びているが、この階段は当然後付けであり、本来は、本郭とその西にある郭A間の土橋に道が延びていたという。
本郭@は東西25m、南北11mと比較的狭い。拝殿の後ろに高さ4m位の土壇があり、ここが最高個所である。
ここが後世の城でいう天守台に相当する櫓があったはずである。この北側には堀切を隔てて北を守る曲輪群(北城)が展開し、さらに北に北出城がある。
本郭の西側には本郭とほぼ同規模の郭Aがあり、本郭とは土橋で結ばれ双子の郭のようになっている。
この形式は同じ羽黒山城であるが、里美の羽黒山城と似ている。Aの郭からさらに西側を見ると腰曲輪C等や堀切がいくつか見える。
この先の尾根筋に西出城が存在する。
本郭の南東方向にも段郭群が展開し、南東の出城があると言うがこちらの方面は見ていない。
(北城)
本城の北側に展開する。杉の倒木が多く、冬場以外は入ることが困難な場所である。 北城は山頂から高度を下げながら250mほど続く。 この部分は巨大な直線連郭式である。 尾根上の曲輪は幅が20m程度と狭く、西側に腰曲輪が2段程度展開する。 東側は高さ20m程度の絶壁であり、やはり下に腰曲輪を持つ。 この腰曲輪には岩が転がっており、元々、北城の曲輪は石垣を持ち、石垣が崩落したものである可能性もある。 北城には2本の大きな堀切があるが、堀切と言うより、横堀になって斜面を下ると言った方が妥当かもしれない。 横堀に沿って、派生する小尾根に曲輪が展開する。 この北側にも曲輪や土塁らしいものが展開するが、非常に不明確である。関が原直前に拡張工事を行い、工事中に戦いの決着が付いて、工事を中断した未完成の場所とも言う。 |
中央部の堀切。深さ7m程度。 | 尾根上の曲輪の東側には土塁がある。 | 北端の横堀。 |
(館跡)
東の山麓付近に館跡がある。60m四方程度の広さであり、緩斜面を削って平坦地にしたものである。本城からは400m東に当たる。
櫓台跡? | 北側にある虎口。 | 館跡内部の平坦地。 |
伊香油館(塙町伊香古館)
塙町中心部の南3q、久慈川の西岸、伊香古館の西に聳える山にある城。
城のある山の標高は350mあり、比高は175mある。峻険な尾根に築かれ、最高箇所の本郭部より、四方に延びた尾根に曲輪が展開する城郭である。
城域は南北400m、東西250m程度であるが、南に延びる尾根にも延々と堀切等の遺構があると言われ1kmを越えるともいわれる。
城に行くには県道230号線沿いの古館の集落内から古館神社に行き、その裏から山に登る。
登っていくと最西端の物見台に出る。
道が南に延びており、10m行くと竪堀がある。この西側は緩斜面であり、倉庫等があった場所という。
一方、久慈川に面した東斜面は急斜面である。
少し行くと神社の鳥居が建つ平坦地がある。ここが久慈川方面一帯を監視する物見であったという。
その南は大竪堀になり、そこを越えるとまた、物見用の平坦地5に出る。 この付近の斜面も急勾配である。道が付いているのはここまでであり、主郭部に行く道はない。 藪の中を強行突破することになるが、急斜面と藪との格闘である。冬場でなければとても突撃不能である。 この斜面を突破し、高度差20mを登ると物見4のある尾根に出る。 この部分は若干の広さがあるが、堀切3までの尾根上は1m程度と狭い。 西側は絶壁である。 堀切3は岩をくりぬいたような感じであり、本郭側からの深さは5m、幅は10mほどある。 両側は竪堀となっている。 堀切の中央部は土橋状になって、本郭側に行くようになっている。 塙町史によると大手道はこの西側の谷を上がる道となっているが、どう見てもこの絶壁を登れるようには思えない。 この堀切から本郭までは高さで30mある。 途中に曲輪らしいものがあるが、不明確である。 |
3の堀切。土橋があり、岩剥き出しの竪堀になる。 | 2の曲輪。内部はしっかりとしている。 | 5の物見台。 |
5の物見。久慈川方面が一望。 | 4の曲輪(物見台) | 堀切3の土橋から見た本郭側。 | 本郭内。 |
5の物見手前の堀切。 | 南出城。単なる平坦地に過ぎない。 | 7の曲輪を見上げる。 | 東山麓から見た城址。 |
木にしがみついて本郭までよじ登る。 おそらく当時は斜面を斜めに登る道が付いていたのであろう。 本郭は細尾根の上部を平坦化させただけのものであり、幅は8m程度しかない。 長さは40m程度あるが、物見台のような土壇が3つあるだけである。 本郭から西側に延びる尾根に曲輪2がある。本郭同様、幅は7m程度と狭いが長さは30mほどある。 この郭はこの城で一番、足元が固くしっかりしている。西側1m下に2段腰曲輪がある。ここもしっかり造られている。 本郭から南東側に延びる尾根には堀切があり、その先に物見台のような6の土壇がある。 本郭より30m下の地点である。これもしっかり造られている。 その先はまた登りになり、南出城がある。直径8mほどであり、単なるピークの先端を平坦化したものに過ぎない。 その先は尾根が続く。堀切や曲輪があるというがそこまでは確認しなかった。 ここを行くと八溝金山まで行けるとのことであり、この城が金山と大きな関係があったらしいことが示唆される。 一方、本郭から南東に延びる尾根には7等の2段の曲輪があるが、明瞭な曲輪は認められない。 単なる斜面にしか見えない。長年の年月で埋もれてしまったのであろうか。 曲輪の切岸は、石垣のようなものがあるが、自然のものであろう。 |
築城は、鎌倉時代にまで遡ると思われるが明確な資料はない。
城の名が見える資料はないが、南北朝期、延元4年(1339)「沙弥宗心書状」に「伊香郷者、平賀兵庫助景貞」という名が見え、南朝方白川結城親朝が領土を所望するが、北朝方の平賀氏が居て領土にできない旨が記されている。
次に永禄9年(1566)伊香に鴇山平六郎というものが白川結城方の者としていたことが記されている。
おそらく古宿という地名どおり、山麓に居館があり、油館はその詰め城であったと思われる。
この当時、八溝金山は既に稼動しており、鴇山氏は白川結城氏の金山担当の代官であったのかもしれない。
佐竹の支配下でこの城がどのような位置付けであったのかは何の記録もない。
狼煙ネットワークの1つであったことは間違いないであろうが、金山警護の城でもあったのではないかと思われる。
(おまけ)
幕末のテロリスト 田中愿蔵の墓
水戸天狗党のテロリストというか、強盗放火常習犯 田中愿蔵の墓が、福島県塙町の久慈川沿いにある道の駅「天領の里」の脇にある。右の写真がその碑である。後ろに写っている山が羽黒山城である。
彼の係る水戸藩の幕末の内部抗争、尊攘派と天狗党の争いは複雑で筋が理解しにくい。
天狗党とは藤田小四郎(東湖の息子)と田丸稲之衛門らが率いる1派を呼ぶ総称であるが、末期になると水戸藩の保守派諸生派に追われた色々な人たちが加わっているため、特別な目的を持った団体とは言えにくいものになっている。 天狗党は文久3年(1863)ごろから攘夷をとなえ、水戸藩の郷校を拠点に組織され、元治元年(1864)3月筑波山に挙兵した。この中にとんでもない奴がいた「田中愿蔵」である。 郷校の教師をしていたというが本当か? 天狗党一向は宇都宮をへて日光の東照宮に参拝し、栃木の太平山をへて筑波山にもどった時には700人に達していたという。 ここで田中愿蔵がテロリストとしての凶暴性を発揮する。 天狗党は、武器や衣食のための金が必要になり、町村の役人や富商・豪農へ献金の強要を行い評判を落とす。しかし、これでは犯罪とはなりえるか微妙である。 |
ところが過激派、田中愿蔵は軍用金の提出を拒んだ栃木町を焼き打ちした。
これは、強盗放火事件である。これは犯罪であり、幕府も治安維持上、無視できず、天狗党討伐の決定的なきっかけとなる。
この間、水戸藩内の保守派は家老、市川三左衛門、朝比奈弥太郎らが実権を握り、以後諸生派とよばれた。天狗党に対しては幕府は、討伐軍を派遣するが、下妻近くで敗北。
討伐軍に加わっていた諸生派は水戸城に入る。
江戸藩邸の尊攘派鎮派は、藩主徳川慶篤にせまって藩内抗争を武力でさせることとし、支藩宍戸藩主松平頼徳を将とする部隊、大発勢を水戸に向ける。
これに天狗党が合流したことでややこしいことになる。大発勢と天狗党は那珂湊に終結する。
この中には田中愿蔵も混じっていた。リーダー武田耕雲斎や藤田小四郎にとっても迷惑だっただろう。
そこに水戸の諸生派が呼び寄せた幕府軍が攻撃、松平頼徳を誘殺し、那珂湊の大発勢と天狗党に総攻撃を加える。
幕府軍に敗れた大発勢の残りと天狗党・武田軍は北に向かい、大子から京に向かい、敦賀で壊滅する。この話はよく知れれた話であり、紹介する必要はないだろう。
一方、悪名高き、田中一行20名は、別行動を取り(同行を拒否されたらしい。)、助川城を占領、攻撃を受けると焼き捨てて、大子方面の山中を放浪。
各地で強盗殺人を繰りかえすが、ついには追い詰められ、最後は現在の福島県矢祭で捕らえられて処刑される。
住民にとっては、彼らは恐怖以外の何者でもなかったのだろう。
今残る彼の絵もひげ面の凶悪犯そのものである。なんだかかつての連合赤軍浅間山荘事件を連想するのだが・・。
でも、伝承と真実に大きなギャップがあるのは良くある。この田中愿蔵、本当に凶暴なテロリストであったのか?
郷校の教師をしていたというので、それなりのインテリだったはずでもあるのだが。真実は如何に。