赤坂城(鮫川村赤坂)

 鮫川村役場西の館山全体が城址。
 この山は標高482m、比高60m、東に鮫川、北に真坂川が流れ水堀の役目を持ち、南と西は谷津、ほぼ独立した山である。
 このため、山の周囲は車で一周できる。車で一周すると山裾が段々状になっているのが分かる。
 言うまでもなく\などの帯曲輪の跡である。

 谷津を隔てて南に出城である壇ノ岡館がある。
 山は上から見れば直径500m程度、このうち城域は400m四方に及ぶ。
 谷津部分を除く、すべての尾根に段郭が築かれる。

 鮫川に面する部分は崖になっており、この方面が最も堅固である。
 現在、館山公園となっており、東の山麓の館跡[に建つ鮫川村開発センター@駐車場から南を見るとそこには直ぐに郭YAが2段見える。
 鮫川村開発センターの裏の道は本郭まで延びており、車で本郭Bまで行ける。

本郭は60×50mの大きさ。本郭が駐車場と公園Bになっている。
 しかし、公園化され整備されているのは本郭周辺と北側の児童公園当りまでであり、他はうっそうとした杉の林の中にある。

 本郭の四方に曲輪群が展開する。南側に土塁Dがあり、その切れ目が南に延びる。
 ここが坂虎口であり大手口であったという。
 その南側、東側C、西側3方向に段郭Z等が数段見える。

 車で本郭まで行く道は、北側から本郭内部に入るが、児童公園を過ぎると、次々と郭Xなどの切岸Hが目に入る。
 本郭に入る口Kは搦手口らしい。
 本郭の北側が二郭Uであり、高さ3mほど南北70m、東西20m程度の大きさがある。
  本郭との間に堀切Eがあり、堀底道となって本郭、二郭西側の腰曲輪に通じる。

 この腰曲輪から本郭を見れば高さ8mほどの急傾斜の切岸が見える。
 西側に張り出すように出郭WFMがある。
その先は堀切があり、竪堀が北側に下る。
そこに湧水地がある。

北側にも曲輪群Lがある。その先は家臣の舟木氏の屋敷跡である。
 本郭の東側には良く整備された形で腰曲輪VCが2段見える。
 さらに下に数段の曲輪があり、末端が開発センターの南に見える出郭Yである。

 
城は基本的には段郭で構成され、切岸の高さと勾配で敵の攻撃を防ぐタイプであり、土塁、堀切や竪堀、横堀はそれほど発達していない。
この切岸の高さと勾配で敵の攻撃を防ぐタイプの城は、福島県南部の城に多い。その意味では典型的な奥州の城という感じである。
支城である菅生館、広畑館も似たイメージの城である。

(以下の写真は2004年11月撮影)

@東の山麓の館跡[
 鮫川村開発センターが建つ。
A館跡の南側、郭Z. B本郭内部。公園になっており、車で行ける。
C本郭東下の曲輪V. D本郭南側の土塁。
土塁間が空いており坂虎口になる。
E本郭(左)と二郭間の堀切。
F本郭西の曲輪。向こうに出郭Wが見える。 G西側の谷津部から見た曲輪\。 H二郭の北側の郭Xの切岸。

赤坂城は史跡として整備されるのかは分らないが、山の木がほとんど切られた。
すると、林に隠れていた遺構がきれいに現れた。
下の写真は2011年1月撮影である。

このうちA〜Fは上の写真と同じ場所を写したものである。
なお、撮影方向は一部、異なる。
まったく同じ場所を写したものか分らないくらいの風景である。曲輪の形がクッキリ現れている。
近世の石垣の城とは、全く異質の中世の土の城の出現である。

A曲輪Y方向から本郭方向を撮影。 B本郭内部、東屋付近の土盛りは公園化によるもの。 C本郭から見下ろした曲輪VとY。
D本郭南西の土塁も木がないとはっきり現れる。 E 上のEと同じ場所からの撮影。 F 上のFと同じ場所からの撮影。
木がないと曲輪の形状がはっきりと出る。
南側の広畑館前から見た城址。
頂上部の本郭、その右手が曲輪V。
手前側が曲輪Z。
J曲輪Z 段々状に曲輪が重なる。
右上の建物がある場所が「壇の岡館」、
右手の山が広畑館。
K本郭の搦手口。ここまで車で来ることができる。
L北に張り出す尾根の曲輪。谷部が館沢。 M曲輪Wの先端部 N西の出郭までの腰曲輪群

 この地は山間であり、農産物は余り採れない。米もあまり期待できる場所ではない。
 しかし、白河・浅川方面から岩城方面に通じる街道が通り、さらには大子方面と郡山方面を結ぶ街道が交差する地であり、海の産物と山の産物が行きかう流通の要衝である。
 同時に軍勢の通り道でもある。

 今は山間の村に過ぎないが、かつては戦略上、重要な場所であった。
 城の北、鮫川の中心部、赤坂宿は名の通り宿場町として栄えた場所である。

 城主の赤坂氏は石川氏の流れを汲む一族と言う。
 この地に来たのは鎌倉時代という。おそらく鎌倉末期に小規模な城が築かれていたのであろう。
 ちなみに石川氏は那珂氏から別れた一族であり、直系の江戸氏とは同族である。

 赤坂氏は石川氏に従っていたが、南北朝期に石川氏が分裂したことにより独立性を強め、独立した国人となり白川結城氏に従う。
 しかし、天文年間から佐竹氏の奥州侵攻が始まると再三にわたり佐竹氏の攻撃を受け、当主、赤坂政光は永禄3年(1560)ついに佐竹氏の軍門に下る。
 このころ今に残る姿に城が整備されたのであろう。

 天正17年(1589)伊達氏の軍門に下った石川昭光の攻撃を受けるが赤坂氏はこれを撃退する。
 小田原の役後、秀吉より破却命令が出て廃城になったというが、実際は存続していたようであり、完全に廃城となったのは赤坂氏が佐竹氏に従って秋田に移った慶長7年(1603)であった。