赤館城(福島県棚倉町)

棚倉の城と言えば「棚倉城」が有名であるが、棚倉城は近世江戸時代初期丹羽氏により築かれた近世城郭であり、戦国時代には存在していない。

中世ではこの地に「赤館城」、「寺山城」があった。
 いずれも佐竹対白河結城、伊達氏等との対立、戦闘に名を残す歴戦の城である。

 しかしながらこの地でも城と言えば「棚倉城」を指し、その影に隠れて知名度も低い。
 赤館城は棚倉の町を見下ろす西の山に築かれている。

現在は赤館公園になっており、「ほとんどかつての姿が分からない」とどこかの本等に書かれていた。
このため、期待もせずに行ったが、予想に反し遺構はかなり残っていた。
 「遺構が完全にない」というのは、近世城郭を基準に城郭遺構を判断したからであろう。
確かに近世城郭の遺構を基準にすれば、この山にはそんな遺構はない。

 ただし、石垣もなく、土の造形だけの中世城郭の遺構として見れば、極めて良く残っている。
公園化もできる限り、遺構を破壊せずに行っていた。
特に腰曲輪や腰曲輪等の曲輪は、一部は住宅地になっているが、これほどまでに残っていることはうれしい誤算であった。 

 この城は江戸時代初期まで大名の居城として使用されていたため、江戸時代初期に若干、手を加えられている可能性もあり、どこまでが戦国時代の遺構であるかは判断がつかないところがある。

 城域は本城域のみで南北400m、東西300mあり、出城部分も含めると東西1q,南北700m程度に達する。
主郭のある山の標高は345m、比高は65mを測る。

この城の特徴は本郭部が城の規模にそぐわず、異様に大きいことである。
 本郭は西側が突き出た変則五角形をしており、大体150m四方程度の大きさがある。

現在、公園となっているのはこの本郭部と東側の帯曲輪である。
 北側には土塁が巡っていたようであり、一部、痕跡がある。

 本郭の西側に突き出た部分は一段と高くなっており、天守に相当する建物があったようである。
虎口は南側にある。

 本郭の周囲を帯曲輪が取り巻く。帯曲輪からは本郭は5m程高い。
帯曲輪の幅は東側が広く30m程度ある。
 一部、土塁の痕跡もある。
その下には曲輪が段々に築かれる。

東側、南側の曲輪は宅地や道路建設でかなり形は変えているが、それでも旧状を伺い知ることができる。
 杉林に覆われた本郭西側の曲輪群は藪化しているが、完全な形で残っている。
 堀切等も分かる。左の写真は本郭から北側下にある横堀である。
深さは4m近く、山腹を折れながら廻っている。
 形状からしてこの部分は中世の形状のままと思われる。

 城の築かれている山は比較的ずんぐりしており、斜面は緩やかであり、川などの天然の防御もなく、それほどの要害性を持った感じはしない。
 事実、何度の落城を繰り返している。
 ただし、本郭、曲輪は大きく、かなりの兵力と駐屯させることができる。
 どちらかと言うと兵力駐屯地とこの地を支配するための政庁も兼ねた城という印象である。
 東、北東の山に出城である鹿子山館や花園館が築かれているが、要害性を補完するためであろう。
 東方にある要害堅固な寺山城こそが赤館城の詰城の役目があったのであろう。

赤館公園となっている広い本郭内部。 本郭北側に残る土塁跡。 本郭北端の櫓台。 本郭東の帯曲輪。
右の一段高い場所が本郭。
本郭東の帯曲輪から東下の曲輪群を見る。 本郭から見た谷津を隔てて東にある
鹿子山出城。
本郭西側の曲輪群。
この部分は杉と藪の中に遺構がある。
鹿子山出城にある宇迦神社の曲輪。
頂上までは藪が酷く行けない。

 赤館城が築かれたのは南北朝時代初期、この地を支配していた赤館氏によると言われ、当然ながら城の規模もそれほどのものではなかったと推定される。
 戦国時代になるとこの地は佐竹対白河結城、芦名連合の抗争の最前線となる。

 余り米の収穫量も期待できないこの地が激しい攻防の舞台になった要因は、おそらくは八溝山系の金山支配であると言われる。
 東館、羽黒山に橋頭堡を築き北進する佐竹氏に対し、白河結城氏は赤館城を最前線の城として拡張を図る。

 しかし、天正3年(1575)城は佐竹氏の手に落ち、天正4年(1577)一時的に白河結城が奪還したが、すぐに佐竹氏に奪還され、以後20年以上にわたり佐竹氏が支配し、戦闘用城郭から領地支配の拠点的な性格及びさらに北方面への進出のための前進基地の性格を帯びる。
 さらに天正17年(1589)今度は佐竹氏が南下する伊達氏の脅威に備えるため拡張を行ない、軍事的な前線基地となる。
 文禄4年(1595)の城代の名には和田昭為、河合伊勢守の名が見える。

 本郭等が広いのは軍勢を駐屯させるため改修したものと言われる。
 小田原の役で脅威は去り、この地は佐竹氏のものとなる。
 しかし、関が原の合戦前夜には佐竹の軍勢がこの城に在陣している。
 戦後は一時、立花氏、丹羽氏の居城となるが、棚倉城築城により寛永2年(1625)廃城となり、足掛け300年の歴史を閉じた。

棚倉城
 丹羽長重が寛永4年(1627)に完成させた完全な近世城郭である。赤館城の南東1.5kmに位置する。
 既に立花氏が居城としていた赤館城には城下町が形成されていたにも係わらず丹羽氏が築城したのは、丹羽氏の意思ではなく幕府の命であったと言われる。

 高々5万石の丹羽氏が新城を築く必要性、財力もないはずであるが、幕府は奥州の外様大名が江戸侵攻を図った場合の阻止拠点とする意思があったようである。
 折りしも丹羽氏は関西でも一流の築城技術を有していた大名であり、安土城は長重の父長秀が総指揮をとっている。
 幕府はこの丹羽氏のノウハウを利用しようとしたらしい。

 その証拠に完成後、丹羽氏は直ぐに白河に移されている。
 というより丹羽氏は築城技術者として幕府から派遣されたと言える。
 白河に移った後は今度は白河城を改修している。以後、城主の交代が頻繁であり、最後は戊辰戦争であっけなく陥落している。

 丹羽長重が築いた城は意外にも総石垣造りの関西風の城ではなく、東北関東風の土の城である。
 これは石垣に適する石材が付近では調達できなかったためであろう。ごく一部、久慈川の河原石が土止め用に使われているのみである。
 しかし、さすがに土の城とはいえ、完成された最新の築城技術の粋を集めて造られている。

 土塁といっても堀面からは15mの高さと15mほどの幅を持ち、水堀も最大幅は65mもある。
 本丸を堀越しに南から見ると江戸城並みの景観である。土塁を石垣で葺いたら完全なる関西風の大城郭である。
 城は本丸と二の丸及び馬出のような三の丸からなる輪郭式であるが、現在は本丸部分のみが完全に残り、内部に図書館等の公共施設(現在は移転してない。)があり公園として整備されている。
 二郭はほとんど市街化しているが、付近の道路はクランクが多くいかにも城下町といった感じである。
 西側の棚倉北中学校(堀跡に建つ。)に面する斜面上部には石垣が100mに渡って見られる。
 平城というイメージが強いが、赤館から南に張り出した丘陵上にあり、丘城と言えるであろう。

本丸の北端部 本丸北門枡形 本丸土塁上から二の門を見る。 本丸土塁上から南を見る。堀幅が凄く広い。