摺上原の戦い
伊達政宗、最高の傑作の合戦がこの猪苗代湖畔で展開された摺上原の戦いである。
しかし、今伝えられる合戦のストーリーは勝者である伊達氏によりかなり脚色されているようであり、全てを信じる訳にはいかない。

この合戦は伊達政宗の戦術というより、戦略の勝利である。
当時、奥州南部で伊達氏に敵対していたのは、葦名、相馬、石川、二階堂、岩城の諸大名であり、それをバックアップしていたのが佐竹氏であった。
それらの反伊達連合とまともにぶつかれば、伊達氏には勝ち目はない。
そこで考えたのが、各個撃破作戦である。

佐竹氏、岩城氏には同盟軍の田村氏を攻撃させる。
そのため、田村氏の大平城や栗出城は攻略されてしまう。
一方、相馬氏に対しては、駒ヶ嶺城、新地城を攻撃することで、軍をこの方面にひきつける。
最大のターゲット、葦名氏に対しては、須賀川の二階堂氏を攻撃するふりをして、猪苗代盛国を寝返りさせ、葦名氏本土会津を直接狙う。
会津を狙われた葦名氏は慌てて軍を会津に返し、摺上原に出撃するが、準備は整わず、伊達氏に撃破されてしまう。
これがこの合戦の姿だろう。
田村氏を餌に肉を切らして骨を切る、見事な戦略である。

天正17年(1589)5月5日、安子ヶ島城(郡山市熱海町)、翌日6日、高玉城(郡山市熱海町)を落とした伊達政宗は、猪苗代盛国を造反させ、6月4日安子ヶ島城を出発し、中山峠経由で猪苗代城に入る。

 一方、義広は須賀川から慌てて戻り、黒川城に急遽入り、5日夜黒川を出発し、翌朝、磐梯町大寺の東に富田将監を先陣に、二陣には佐瀬河内、三陣には松本源兵衛、高森山に義広の本陣を置き、総勢16,000で対峙。
左の写真は葦名軍が本陣をおいた高森山である。

これに対し政宗は深夜猪苗代城を出て、本陣は国立磐梯青年の家付近に陣取り、総勢約23,000で待っていた。
ということになっているが、この軍勢、多すぎる。
伊達軍の実力せいぜい5000程度、葦名軍3000というところだろう。

5日朝、天気は晴れ、朝6時には合戦が開始される。
左の写真は磐梯山山麓に広がる摺上原である。
この辺も戦場であったのだろうか。

始めは葦名方の富田将監の猛攻で伊達軍はが、佐瀬河内や松本源兵衛、河原田盛次は、ほとんど動かなかった。
『会津四家合考』では見物人が多くいて、その逃げる様子が葦名軍と見誤ったことから味方の不利と捉えたからだという。
数で勝る伊達勢は、徐々に優勢となり、後続が動かない。葦名軍は旗本部隊を投入するが、奮戦むなしく崩壊、敗走し、その過程で大損害を出した。

その時、『新編会津風土記』には、大伽藍を誇った恵日寺が兵火にかかり、金堂だけが残ったという。
参戦しなかった葦名方の原田氏は柏木城に撤退するが、城を放棄する。
6日政宗は陣の山館(磐梯町町屋)に入り、葦名氏の崩壊を待って、11日には黒川に無血入城する。

猪苗代城と弦峰城(猪苗代町)
猪苗代町市街の北に位置し、市街地からの比高30mの磐梯山方面から南東に張り出した標高550mの細長い岡先端に築かれた城である。
この岡の北側は県道7号線が通るように、低くなっているため、城のある岡は、ほぼ独立しており、岡の南半分が猪苗代城、堀切1本を隔てて、北側が弦峰城(鶴峰城)となっている。
このうち、猪苗代城部分が戦国時代から明治維新まで使われ、現在は桜の名所として有名な城址公園になっている。
これに対して、北側の弦峰城は戦国末期に廃城となり、城址は藪化している状態である。

形式的には平山城であり、猪苗代城の主郭部は南北250m、東西200mと比較的コンパクトな城である。
しかし、切岸も鋭く、なかなか立派な城であり、石垣などの遺構の残存状態も良好である。
この石垣は蒲生氏時代に築かれたものと言われる。
岡の最上部が本丸であり、その南に1段下がって30m四方ほどの曲輪(二の郭ともいう。)。その2つの曲輪の周囲に帯郭(二郭とも呼んでいる。)が取り巻く。
本丸は100m×40mほどとかなり広く、南側以外は土塁が取り巻く。切岸も鋭い勾配を持つ。南側に位置する曲輪も本丸側以外を土塁(石塁)が覆う。
この曲輪内に野口英世のブロンズの頭像がある。この城址は野口英世が遊んだ場所でもあるのだそうだ。
しかし、この頭像、けっこうリアルで、暗くなって見たら生首のように見えなくもない。
本丸と二の丸の土塁上から8mほど下が帯郭であり、南下に南帯郭、本丸北と西の一段下に北帯郭と西帯郭がある。
大手口は城の東の麓部分にあり、ここには石垣を利用した巨大な枡形虎口が造られている。
この虎口の前の駐車場になっている場所付近が二の丸である。
道路を挟んで東側の窪みが堀跡であり、ここに中門があった。そして、その東に三の丸があったという。
さらにその外側にも堀で囲んだ城下町があり、総構を持っていたという。え
城の西側に巨大な空堀(箱堀)があり、曲輪を介して堀切がある。

その堀切を越えた北西の岡が弦峰城である。
この弦峰城に続く部分が堀切になっているが、それ以外の部分は水堀が囲んでいたようである。
猪苗代小学校の校庭部分や西側の運動公園との間に水堀があったのではないかと推定される。

主郭部入口の枡形門 中門(左)南側の堀跡 本丸東下の帯曲輪、胴丸の入口部。
本丸南の二の郭内部。周囲を石積みの土塁が覆う。 広大な本丸内から見た磐梯山。 二之郭入口の黒門跡を本丸から見る。
西帯郭 西帯郭と南帯郭を結ぶ通路は空堀状である。 主郭部西側にある巨大箱堀。
西側の巨大箱堀と大土塁 西側の大土塁北端と堀切。右が弦峰城。 弦峰城から見た猪苗代城の本丸(右)と北帯郭

弦峰城は隠居の城とは言うが、元々は猪苗代城の一部である。出城であり、隠居曲輪でもあったのであろう。
ジャンプ台の廃墟があるが、この台の上がすでに城域である。しかし、城内はかなりの藪である。ジャンプ台の上の曲輪Uには東側に土塁が存在する。風避けの土塁のようである。
この曲輪の広さは50m×30m位である。その北側に馬出のような土盛りがあり、堀切を介して、本郭である。
周囲を土塁が覆うが、一部、石垣が残る。本郭は100m×30m位の細長い曲輪であり、北側にかけて段々状となる。
曲輪内はかなりの藪である。東側に大きな土塁がある。その東側斜面は急勾配であるが、西側の勾配は緩く、腰曲輪が数段ある。
下に石積みの虎口があるらしい。本郭の北端に立派な土塁、土橋、堀切、竪堀がある。ここが一番の見所である。
その北側も城域とは考えられるが、特段の遺構はない。
弦峰城は通説の通り、近世の雰囲気はまったく感じられず、中世城郭のまま、廃城になったことが良く分かる。

猪苗代城から見た磐梯山。左の森が弦峰城。 南側先端部にはスキージャンプ台の廃墟がある。 南側の曲輪U内部、南側を除けば藪である。
本郭東の虎口前の馬出のような土塁。
堀切があり土橋がある。
本郭内部も藪である。周囲を土塁を覆う。 本郭の土塁外側には石積みが残る。
本郭西端の虎口。土橋があり、両側は竪堀。 東側に延びる竪堀。 西側に延びる竪堀。

築城は頼朝の奥州征伐の功でこの地を与えられた相模国の御家人、桓武平氏三浦氏の支族、三浦義明の七男義連の子佐原遠江守盛連の長男、長門守経連という。
経連が猪苗代氏を名乗り、子孫が代々猪苗代地方を治めた。築城は、鎌倉時代初期と推定される。館を置くには領内が見渡せる絶好の場所である。
経連の弟、光盛が葦名氏の祖となり会津に住んだという。弟の立てた家が本家筋というのがどうしてか分からないが、いずれにせよ猪苗代氏と葦名氏は同族ということになる。
しかし、猪苗代氏は独立志向が強く、本家筋の葦名氏に対しては、反逆と従属を繰り返した経緯がある。
そして最後の反逆で、本家筋の葦名氏を滅亡に追いやってしまう。
しかし、葦名氏とは親戚同士であり、経元の代に、嗣子がなく、葦名盛詮の次男が継いで猪苗代盛清と称するなど、絆は強かった。
その盛清の子が葦名氏を滅ぼす原因となる盛国である。
盛国ははじめ葦名氏に属していたが、天正13年(1585)、50歳で家督を嫡子盛胤に譲って隠居をし、弦峰城に移る。
どうも盛胤との仲が険悪であり、この隠居事件には葦名氏の指示があったのではないかと推察される。
そこに伊達政宗の手が延びる。後妻の讒言をにより、盛国は天正16年5月、盛胤が葦名氏の元に向かい留守になった隙に猪苗代城を乗っ取り、伊達成実の臣羽根田直景を介して伊達家に投じた。
そして天正17年、伊達軍を猪苗代城に入れ、摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼす原因をつくってしまう。
葦名氏滅亡に結びついた摺上原はこの城の西方であり、葦名軍が展開したのを見払って、伊達軍がこの城から出撃した。
その合戦の目撃者の城である。
果たして盛国に本家を滅ぼそうとする目的があったのか、それとも短慮の結果なのか、今となっては謎のままである。
しかし、葦名氏が滅び、伊達氏の家臣にはなるものの、豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も伊達家の準一家に列せら五千石を給され、猪苗代を離れることになる。
盛国の家督は次男が継いで宗国と称し、以後、伊達氏の家臣として続いた。
一方、城を乗っ取られた盛胤は、天正17年、摺上原の戦いに葦名方として参戦し、伊達の陣へ突入し奮戦するが、重症を負う。
しかし、戦死はせず、葦名氏滅亡後は、佐竹氏に亡命し、伊達氏が会津から去ると耶麻郡内野村に帰って住み、そこで生涯を閉じる。

その後、猪苗代城は会津若松の重要な支城として、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成の支配下に置かれ、重臣が配置される。
江戸時代には会津領の重要拠点として、一国一城令の例外として存続が認められ、有力家臣が城代を勤めた。
そして、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで官軍が会津藩を破って、会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、建物は全て焼失し、猪苗代城は廃墟となり、城としての役割を終える。
もうこの頃は、猪苗代城は要害ではなく、会津藩の支所であり、城下町が形成され、多数の町民が住んでいた。
ここで戦いが起これば、町は廃墟となり、住民に犠牲が出る。これを避けるため、城のみを焼き捨て利用できないようにし、退去したのであろう。
この退去には町民の圧力もあったのであろう。
その後、城址は公園となり今は町の象徴となっている。
 (会津若松市史、ふくしまの城を参考)

陣の山館(磐梯町赤枝)
伊達政宗と葦名義広の間でくり広げられた摺上原の戦いで勝利した政宗が黒川城を攻略する前に入った城と言われる。

城は黒川城の北北東8q、磐梯山系の1つ、扇ヶ峰の南の尾根末端、会津盆地を南と西に見下ろす場所にある。
城の標高は310m、会津盆地は180〜190m、会津盆地を恫喝するにはいいポジションである。
磐越西線東長原の北、1.5q、日橋川の北岸、赤枝の町田地区、北の岡である。
会津盆地を威圧するにふさわしい地であり、黒川城と北の要衝、柏木城の連絡を分断する地にある。

左の写真は北から見た館跡(森の部分)である。
右上が会津若松方向、会津観音が見える。
ここに布陣することで政宗は会津盆地一帯をパニックに落とし入れ、葦名氏家臣団の崩壊を待ったのであろう。

その効果があり、葦名氏は崩壊し、義広は常陸に落ち延び、黒川城は政宗に無血占領される。
城のある岡の比高は25mほど。下左の写真は南の町屋地区から見た館跡の岡である。
鉄塔付近左側が本郭らしい。写真のようにべったりとした形の岡であり、要害性は乏しい。


岡の頂上部付近は耕作が放棄された畑であり、草ぼうぼう状態。切岸や堀のような窪みはあるが、良く分からない。

その南東の麓に磐梯町の立てた解説板があり、以下のように書かれている。
「耶麻郡誌では、天正17年(1589)6月、会津の葦名氏を攻めた際、伊達政宗が、東西20間、南北25間の本丸と二の丸、三の丸を持つ館を築いたといわれています。
陣の山は標高315m、縄文時代の遺跡としても知られ、平安時代には、城四郎平長茂の居城ともいわれます。
城四郎は、寿永の頃(1183〜1285)木曽義仲追討のとき、恵日寺僧兵を率いて城四郎を授けた恵日寺住僧乗丹坊と縁があり、また一説には、この乗丹坊がこの館を築いたとも伝えられ、恵日寺との関係が深いとのことです。
戦後は農地となり、わずかに頂上を囲むように「堀跡」が残っています。磐梯町教育委員会」

僧乗丹坊が戦った戦いは「横田河原の合戦」のことである。
この戦いで彼は戦死、以後、寺は衰微したという。
解説板には左の写真のような城の図が描かれているのであるが、この岡、なだらかな斜面であり、遺構らしいものはない。

畑となって破壊されたこともあるだろうが、とても図のような城があったとは思えない。

古くから館は存在していたようであるが、戦国時代にどうなっていたかは分からない。
僧乗丹坊といっても平安末期の人物である。
廃墟状態だったところを政宗が陣城として、緊急復興して一時的に使用した程度のものではないだろうか?

「陣の山」の名の通り、臨時築城の陣城であったのだろう。
航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものである。


慧日寺(磐梯町本寺)
磐梯町役場の北1q、本寺地区にあった名刹であるが、廃寺状態で、現在、復元工事が行われている。
解説によると、この寺は平安時代初期、大同2年(807)に法相宗の僧・徳一によって開かれたという。
徳一は南都(奈良)の学僧であったが布教のため会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めた。
また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実論争」、真言宗の空海と「真言宗未決文」など大論争を繰り広げていた。徳一は承和9年(842年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだが、この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3800を数えるほどの隆盛を誇っていたといわれる。

平安時代後期、越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、承安2年(1172年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。
この関係で、源平合戦では、平家方に付いた城助職が木曾義仲と戦った横田河原の戦いに慧日寺衆徒頭、乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて参戦する。しかし、横田河原の戦いで城氏は惨敗、乗丹坊も戦死し、これにより慧日寺は一時的に衰退する。
戦国時代になると、葦名氏が庇護し、伽藍を復興。
その姿は『絹本著色恵日寺絵図』に描かれ、複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。
しかし、天正17年(1589)、葦名氏は摺上原の戦い破れ、政宗が会津へ侵入した際、襲撃され、金堂を残して全て焼失してしまった。
そしてその金堂も寛永3年(1626年)に焼失、その後は再建されたが、小さな寺となり、明治2年(1869)には廃仏毀釈によって廃寺となってしまった。
一応、明治37年(1904)に「恵日寺」は復興された。

かつての慧日寺のあった場所は発掘調査によって、創建当初は中門、金堂、講堂、食堂と推定される主要な建物が南北一列に建立されたことが判明している。
また、現在は中心伽藍遺構の東側に薬師堂と仁王門、さらにその東に龍宝寺不動堂と乗丹坊供養塔、中心伽藍の北には徳一廟が残されている。
薬師堂にはもともと薬師如来が納められ、会津五薬師の一つ・東方薬師として多くの信仰を集めていたが、焼失したといわれる。
龍宝寺不動堂裏手の森には往事のものと思われる土塁や石塁が現存している。
現在、中心伽藍跡は復元工事が行われており、平成20年(2008年)には金堂が復元された。

この慧日寺、磐梯山、厩岳山、吾妻山などの山岳信仰の中心であった。慧日寺の開基は大同元年(806)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もあるという。(磐梯町HPより)

仁渡館(磐梯町磐梯)
磐梯町役場の東、磐梯中学校の敷地が館跡という。
中学建設で遺構は湮滅してしまっているようである。
東から西に下る緩斜面の大谷川とその支流が南北に流れ、その間にある。
東から北に磐越西線が通るが、東側は堀切を利用したもののように思え、土塁らしいものもある。

南側には堀跡らしい場所がある。
館の歴史は不明であるが、慧日寺がすぐ北のあり、慧日寺に関係した館ではなかったかと思う。
航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したものである。