人取橋の合戦 
最近、戦国ブームだそうで、特に若い女性がはまっているとか?
始めは戦国シミュレーション小説から埋もれていた戦国武将に光が当てられ、次いで
「戦国無双」や「戦国バサラ」などのゲームで火がブームに火が付いた。
当然人気があったのは上杉謙信や武田信玄、伊達政宗、真田昌幸&幸村、島左近、直江兼続だそうである。
島左近なんか彦根城で「しまさこにゃん」として復権している。その上司、石田三成も大人気だそうである。
江戸時代に抹殺され、以降、完全に封じ込まれた石田三成が復権したことは結構なことである。
ついでながら長曽我部元親も人気なのだそうだ。

確かに彼ら、魅力溢れる人物であることは疑いなし。武田勝頼は?

そこに行くとも北条氏政も佐竹義重は皆、有能な武将であるが、地味!
とても人気は出そうにない。
徳川家康や豊臣秀吉は成功者であるから、今更、人気は出ない。
今川義元、朝倉義景なんか常に引き立て役である。
いずれにせよ秘めた可能性を持った武将に人気が集まるようである。

その1人、伊達政宗。
この男、確かに人気がある。イフを感じさせる男である。
戦上手のように思えるが、けしてそうではない。結構、負け戦も多い。

彼は戦術家としてより、戦略家としての才能が光る。天才的である。
圧巻はこの人取橋の合戦からの5年間、芦名氏を滅ぼすまであろう。
佐竹、芦名、相馬などのそうそうたる戦国大名を上手く分断し、芦名氏を滅ぼし、ほぼ南奥羽の平定直前まで行っている。

その伊達政宗、最大の危機だったのがこの戦い。
この時、わずかに19歳である。
この戦いについては後世、仙台藩が藩祖政宗を大いに宣伝したような要素があり、結構、着色されているようでもある。
一方の連合軍側にとっては、余り重視していた戦いでもなかったようである。

右の地図(国土地理院の地図を加工)は本合戦に係る城館等の位置関係を示した図である。その場所は福島県本宮市。東北自動車道本宮IC東側一帯である。

当時、政宗は18歳。伊達家17代目の家督を継ぎ、奥州制覇を狙っていた。
その最初のターゲットが岩代小浜城を根拠にする大内定綱であった。
政宗は天正13年(1585)、大内氏攻撃を開始。
小手森城で虐殺を行い、大内定綱を恐怖に陥れ、大内定綱を二本松城の畠山氏の元に逃れさせ、その後、会津の芦名氏の下に奔らせ、小浜城を手に入れる。
このやり方、とても18、19歳の若僧の手口ではない。
ついで大内氏に味方していた二本松城の畠山義継を攻め、屈辱的な和議を結ばせる。
これが悲劇の幕開けであった。

政宗が2年間滞在した小浜城。
巨大な兵站基地といった感じの山城である。
小浜城本郭。石垣は蒲生氏時代のものという。

この結果、畠山氏は二本松のわずか五ケ村だけの保有を許されるばかりの、事実上、滅亡の状況に瀕した。
畠山義継は、その窮状を隠居し、宮森城にいる(宮森城は小浜城の前衛基地であり、上館と呼ばれ、下館と呼ばれる小浜城と2城で1組として防衛を図る役目の城である。
けして隠居城ではない。)政宗の父輝宗に訴えたものの、義継の願いは断わられた。
当時、伊達親子は米沢を離れ、この小浜城と宮森城を一時的に居城にしていた。
宮森城からのの帰路、義継は刀を輝宗に突きつけ、拉致して二本松城に向かうが、国境の阿武隈川まであと1q地点の「栗の須」で伊達家臣団に追い付かれ、輝宗とともに死ぬ。(殺される。)

輝宗が拉致された宮森城。 宮森城の本郭と腰曲輪。土留めの石垣が見える。 輝宗、畠山義継が死んだ栗の須に立つ慰霊碑
この拉致事件については、諸説ある。
通説は義継の単独犯行説であるが、もう1つは、政宗が父輝宗を消すために仕掛けた黒幕説である。
伊達輝宗という人物、政宗の影に隠れてはいるが、武将としても一角の人物であったらしい。

しかし、その考え方は、政宗とは異なり、親戚関係に結ばれた近隣の戦国大名と協調並立を採る古い考えであったという。
したがって、織田信長流の脱中世的な考えの政宗とは対立があったらしい。
当然、畠山氏対応も穏健派の輝宗と過激派の政宗との間に路線の対立があり、政宗にとっては、父親が目の上のたんこぶであったらしい。
これが、拉致を畠山義継に仕向け、一気に両者の抹殺を狙ったというものである。
どうもこっちの説の方が説得力があるような気がする。

父を殺された(殺した)政宗は、畠山義継の首を小浜城下に晒し、弔い合戦のため、二本松城に押し寄せる。
しかし、畠山氏にとっても弔い合戦であり、一族の総力を挙げて防戦し、伊達氏は撃退される。
小浜城下にある義継の首さらし場

一方、伊達政宗に脅威を抱く、芦名氏、岩城氏、相馬氏、二階堂氏、白河氏、石川氏周辺の戦国大名は連合して伊達氏阻止を考え、佐竹義重を盟主に迎え、連合軍を組織する。
天正13年(1585)11月上旬、主力となる佐竹氏の軍勢到着を待って、二本松城救援のために終結地点の須賀川から北上を開始、
途中、中村館などの伊達方の諸城砦を攻略し、11月16日には前田沢の南の原に陣を張った。
この時の軍勢が3万と言われ、主力の佐竹軍は1万の軍勢であったという。

しかし、この数字には誇張がある。
佐竹氏の外征軍の兵力は大体3000程度、南郷の支配下在地勢力を合流させても4,5000程度であろう。
芦名氏でも2,3000、他の大名なら500から1000程度であろう。したがって、合計しても1万から1万5千程度だろう。
それでも万を越える軍勢が東北地方で勢ぞろいしたのは始めてのことであったという。
一方の伊達軍は8000であったというが、最大に見積もってもその半分以下、3、4000程度であろう。

小浜城にいた伊達政宗は、連合軍北上の報を受け11月13日、小浜城を出陣し、岩角城に入り、軍勢を終結させる。
そして、最前線となる松峰城(高倉城)に富塚近江守宗綱、桑折宗長、伊東肥前守重信らの部隊を増援する。
本宮城には、瀬上中務景康、中島伊勢守宗求、浜田伊豆守景隆、桜田右兵衛元親を、玉井城には白石宗実を派遣する。

小浜城を立った政宗は岩角城に進軍する。
奇岩で有名な岩角山が岩角城という。
さらに政宗は岩角城から本宮城に移動。
本宮城跡には安達太良神社が建つ。
ついで観音堂山に本陣を据える。
写真は観音堂山から見た本宮城。

 伊達軍の重臣、伊達成実は二本松城包囲のため、渋川に在陣いたが、青木備前守、内馬場日向守などを残し、11月16日、岩角城で政宗に合流。
 翌17日、伊達成実は兵1000を率いて、高倉城北(観音堂の東)にある瀬戸川館に入る。

その観音堂山の西側の五百川沿いには、高野壱岐守親兼と本宮城から進出した浜田景隆、玉井城から進出した白石宗実が布陣。
現在の国道4号線沿いの日輪寺がある裏に当たる観音堂山の岡には、留守政景、原田左馬助宗時、片倉小十郎景綱、鬼庭左月斎、亘理元宗と二本松包囲軍から引き抜いた国分盛重ら伊達軍4000が布陣。

伊達政宗は、16日夜には岩角城から本宮城に移動し、さらに翌17日に本宮城の南2qに位置する観音堂山の岡に本陣を敷く。
連合軍は17日、三方面から北上を開始する。
東側、阿武隈川沿い高倉城方面には佐竹、岩城、二階堂、白河、石川氏の軍勢が、西側の荒井・五百川方面には芦名、佐竹、相馬の軍勢が、そして中央、会津街道には佐竹、芦名の主力が北上する。
東部戦線、高倉城からは伊東重信が出撃し、連合軍を攻撃するが、圧倒的な兵力差に壊滅状態となり、伊東重信は戦死、残りは城に退く。
(落城したともいう。いずれにせよこの後、戦線は高倉城の北2.5qの瀬戸川館付近に移っているので、高倉城は落城しなかったとしても無力化されたと言えるだろう。)
この方面の連合軍はさらに北に向かい、瀬戸川館の伊達成実勢と戦いながら、東側から観音堂山の伊達軍本陣攻撃を目指す。
しかし、伊達成実は瀬戸川館を死守する。
瀬戸川館が突破されたら観音堂山は北方面以外、3方からの攻撃を受ける。この状態では壊滅状態に陥る危険がある。

西部戦線、荒井、五百川方面でも数で圧倒する連合軍が伊達勢を撃破。
中央、会津街道を北進する佐竹、芦名の主力と伊達軍は、人取橋(当時は別の名前であったという。人取橋の名は、この合戦で多くの戦死者が出、人の命を取った橋という意味で、人取橋と呼ばれた。)一帯で大激戦を展開する。
しかし、伊達軍は圧倒され、鬼庭良直は討ち死、伊庭野遠江守広昌も退却中に討ち死する。

東部戦線の要衝、高倉城。
しかし、数で圧倒する連合軍の敵ではなかった。
伊達成実本陣、五百川北岸から見た高倉城
山頂部にほぼ完全な状態で遺構が残る。

東部戦線が崩壊しなかったため伊達軍は全面崩壊は免れ、政宗以下、何とか本宮城まで退却する。
兵力差を考えれば、これは善戦と言えるだろう。

一方、日没を迎えたため、連合軍は戦闘を中止して引き上げる。
伊達政宗はその夜、岩角城まで撤退する。

伊達軍本陣 観音堂山(現在の日輪寺の地) 伊達成実本陣 瀬戸川館跡と思ったが場所間違い。
これは瀬戸川館と高倉城の中間にある仁井田館。
国道4号線脇に建つ古戦場碑
観音堂山の1q南の地点である。

その夜、あの有名な事件が起こる。
佐竹義政(佐竹義重の弟、山直城主。小野崎氏に養子に入っている。)が、馬の手入れのことで叱責した家僕に刺殺されるという事件が発生する。
、さらに安房の里見義頼と水戸の江戸重通が佐竹領に侵攻するとの急報が届けられる。
(安房の里見は佐竹と協調しており、佐竹氏の領地との間に北条氏、岡見氏などがおり、常陸を攻撃することはあり得ない。
水戸の江戸重通は、佐竹氏一族待遇の家臣でこの頃は敵対関係にはない。
また、佐竹氏と戦うほどの軍事力もない。この話は創作であろう。あるいは噂を蒔いた可能性はある。)

これにより佐竹義重は撤退を決意したという。
主力の佐竹軍が撤兵すると、他の諸将も順次、軍勢を引き上げ、連合軍は解散状態となってしまう。
これにより、二本松城は孤立無援状態となり、翌天正14年7月16日落城し、畠山氏は会津に亡命し、滅亡してしまう。

これが一般的に言われる人取橋の合戦の概要であり、伊達政宗生涯最大の危機とされる。
しかし、佐竹氏の資料ではこの戦いは軽視している。
この戦いに佐竹義重自身が参陣していないという説もある。

どうも連合軍には伊達政宗を滅ぼそうとする意思はなかったと思われる。
もともと、この地の戦国大名は婚姻関係に結ばれ、協調並立状態で均衡を保つ極めて中世的な関係にある。
その秩序を伊達政宗が壊そうとしている。
奥州では伊達氏が当時でも最大の戦国大名である。周辺の戦国大名はいずれも小大名であり、連合しても抑えることは難しい。
そこで、俺たちの後ろには大物がいるんだぞというデモンストレーションに佐竹氏を登場させたのであろう。
この戦いは、その政宗に1発お灸を据えるための攻撃ではなかったかと思われる。

伊達政宗を滅ぼすという意図はなかったと思われる。
だから1戦交えただけで撤兵したのではないだろうか。
お灸を据えれば二本松城の攻略をあきらめると思っていたのではないか?

これは、佐竹義重以下、全大名が伊達輝宗同様、中世的な考えの持ち主であり、伊達政宗を甘く見ていたということであろう。
この認識によるこの合戦での判断ミスが、その後、畠山氏、芦名氏、二階堂氏が伊達氏に滅ぼされる遠因となってしまうのである。