桑折西山城(福島県桑折町)
伊達氏が米沢に本拠を移す前に本拠にしていた城である。 東北線桑折駅の西に見える西から張り出した山の尾根の東端部が盛り上がった部分が城址である。 山の北面から東面、そして西に囲むようにして流れる産ヶ沢川が天然の堀の役目を果たしている。 なお、「桑折」という地名、福島県以外の人はなかなか読めないであろうが、「こおり」と読む。 城は標高215mある東西に長い山全山に渡り、東西1km、南北500mの広さを持つ。桑折駅付近の標高が100mであるので比高は100mを越える。 この山は西側以外、急峻であり、かなりの要害性を持つ、また、山上部は平坦であり、非常に広い曲輪が展開し、居住性も抜群である。 山城と言えば曲輪は狭く、臨時的な施設の場合が多いが、この城は要害性と居住性を兼ね備えた山の上にある平城と言った感じである。 イメージからすると栃木県の茂木城が良く似た感じである。 この城は伊達氏が本拠を置いた城であるが、それは戦国時代のことであり、それ以前から伊達氏の有力な城として存在していたようである。 一般に戦国時代以前の伊達氏の本拠地は梁川城と言われるが、この桑折西山城が本拠であったという説もある。 伝承によれば、1189年(文治5年)の奥州合戦の戦功によって、この地を与えられた常陸入道念西という者が築いたともいう。 また、応永年間(1400年頃)に伊達氏9代政宗が鎌倉公方に背いて立て籠もった赤舘が、この西山城とも言われている。 この赤館は高館であったという説が有力である。 |
1532年(天文元年)、戦国時代の訪れを予期していたのか、伊達稙宗は本拠を平城の梁川城から桑折西山城に完全に移す。
このとき、城は大改装され、それが現在残るものであるという。
伊達稙宗は、あの分国法「塵芥集」を制定した人物である。その編集を行なったのがこの城である。
この伊達稙宗、曾孫の政宗同様、かなり専制的な人物であったようであり、有能ではあったが、強引なやり方で家臣や国人層からかなり反感を買っていたようである。
それが天文11年(1542)、爆発する。稙宗は三男実元を越後上杉氏へ入嗣させようとする。
これを巡り、反対する重臣の桑折景長と中野宗時が、「伊達家中は蝉の抜け殻となる」として晴宗を煽動。
晴宗は6月、稙宗が鷹狩を終えた帰りの道で拘束し、桑折西山城に幽閉。
この辺の話になると、武田信虎が武田晴信に追われた話とそっくりである。
稙宗拘束に対し、女婿相馬顕胤と懸田俊宗がただちに動き、稙宗家臣、小梁川宗朝が桑折西山城から稙宗を救出。
稙宗救出後、稙宗方には相馬顕胤、懸田俊宗、蘆名盛氏、二階堂輝行、田村隆顕や実施の大崎義宣、葛西晴胤らが付き、一方晴宗方には、ほとんどの有力伊達家臣や岩城重隆が付き、伊達氏内部での稙宗方と晴宗方に分かれての内紛から、縁戚関係を結んでいた南奥州の諸大名も巻き込んだ大乱となる。
これを「伊達天文の乱」とか「洞の乱」と呼ぶ。
この内乱は約7年続き、この間、西山城では何度も両軍の攻防戦が展開される。
始めは稙宗方が優勢であり、桑折西山城を奪回する。
しかし、家臣団の支持を受けた晴宗方が盛り返し、蘆名盛氏、最上義守らも晴宗を支持するようになる。
そして天文17年(1548)将軍足利義輝の命によって、蘆名、二階堂、相馬、田村氏らの調停が行なわれ、晴宗が伊達氏家督を継ぎ、稙宗が丸森城に隠居し、晴宗は居城を米沢城に移し、桑折西山城は破却することで決着した。
この乱は実質的に稙宗方の敗北となったが、本当にこの城はその時、廃城になったのであろうか。
その後、この城の名が資料に見えなくなるようである。
しかし、圧倒的な要害性を持ち、多くの人員が収容できるので、梁川城の詰城、住民の避難城、遠征時の宿城として存続していたのではないだろうか。
江戸時代になると再度、この城が着目される。
延宝8年(1680)、本多忠国は福島15万石を与えられこの地に入る。福島城が手狭であったため、ここを拡張して居城にしようとする。
彼は川村瑞賢を招き、築城を開始するが、わずか2年後、移転となり築城は中止された。
最後にこの城が登場するのは戊辰戦争時、奥羽列藩同盟軍が陣を敷いた時である。
この主力はいうまでもなく、仙台伊達藩であったという。
桑折駅付近から見た城址。山麓を東北道が走る。 | 大手道を上がっていくと大手門跡に着く。 枡形があり土塁は石垣になっている。 |
大手門の南にある「砲台場」。先端部は土塁が覆う。 | 「砲台場」の東側は段々状の登りになっており、高館の本郭に繋がる。 |
砲台場(右)と高館本郭(左)の間はくぼ地のようになっている。 | 高館本郭に建つ城址碑。 | 高館本郭内部。平坦で広いが草だらけである。 | 城から望んだ南方桑折市街方向。 |
二郭(左)西の堀切。岩が転がっていたので石垣があったらしい。 | 中館下から二郭(林の部分)を見る。 手前の草原が鞍部で唐沢と呼ばれる。 |
中館東の腰曲輪の切岸。 | 中館東の虎口の枡形。 |
中館東の腰曲輪内部。 | 中館の内部 | 中館の土塁。草木に隠れて見えない? | 西館の石垣。 |
この桑折西山城は、東側の標高193mのピークにある高舘と西側の標高215mのピークにある西舘を中心とした2つの主要部と、その間の鞍部、派生する尾根の曲輪群からなる。
さらに西側の斜面、南側の山麓には家臣団の屋敷があったという。
南側山麓にある観音寺は伊達氏ゆかりの寺である。
城へは東北自動車道の下を潜り、観音寺前の道を西に行く、道はのぼりになるが、途中、東側に城址入り口の案内板がある。
ここを行くと大手門に行ける。この道が大手道である。
狭い道であり、バイクか軽自動車なら通れないことはないが、車で行くのは止めておいた方が無難だろう。
この大手道がある山の斜面はかなりの急傾斜であるが、上に平坦地が見える。帯曲輪であろうか。
大手門の場所は枡形になっており、土塁が張り出す。土塁は石垣だったようである。
大手門の右手が「砲台跡」と言われている曲輪であるが、この名前は戊辰戦争時奥羽列藩同盟がここに砲台を置いたことによるという。
本来は「大手曲輪」とも言うべき曲輪であろう。
先端部が土塁に覆われ、東側が高館に続く段々状となっている。
「砲台場」と高館本郭の間は掘状にえぐれたような地になっている。
高館は南側に数段の腰曲輪を置き、最高箇所にあるが、碑が建っているだけで荒れている。
非常に古臭い感じの場所であり、築城当時はこの部分が本郭であったのではないかと思われる。
ただし、非常に広い。この西側は鞍部になっており、西側に二郭がある。ここも非常に広い。
西側の道が堀底道であるが、この堀底道は100mほどの長さがある。
二郭側には堀に面して土塁がある。堀底に石が転がっているので石垣であったようである。
この堀切を介して西側が鞍部である。唐沢と呼ばれているが、ここも広い曲輪である。
その西の盛り上がった山塊部分が西館を中心とした城域である。
ここは西館を中心に東に中館、西に隠居館があり、いずれも広大な曲輪である。
曲輪間は堀で仕切られ、堀に面して石垣で補強された土塁があり、見事な虎口がある。
周辺の斜面部にも曲輪が見られる。しかし、杉林であり、夏場は藪が凄くて遺構が分かりにくい。
ここに行った日は、暗い雨の降る日であり、フラッシュ撮影でも光が届かず、林の中では、この豪快な遺構の撮影がほとんど不可能であった。
冬場に再訪したいものである。
この城が伊達氏の本城として機能していた期間は15年ほどに過ぎない。
当初は高館付近のみの城であったが、この西館の方が戦国時代っぽい虎口や石垣が多くあり、伊達稙宗が拡張した部分がこの西館、中館ではなかったかと思われる。
ただし、石垣部分は延宝8年(1680)、本多忠国がここに築こうとした城の遺構ではないかとも言われる。
隠居館というのが、稙宗が幽閉あるいは隠居させられていた場所なのであろうか。
ここは果樹園になっていて周囲にあった土塁、堀は失われている。
戦国時代の本郭は高館よりも標高が20m高い、この西館であったと思われる。
高館は東を守る出丸として使われていたのであろう。
阿津賀志山防塁(福島県国見町)
国見町のほぼ中央、奥羽山脈から突き出たように標高は289.3mの目立つ阿津賀志山がある。
その南の山麓を東北本線、東北新幹線や東北自動車道が迂回する。
この山の山頂付近から南を流れる阿武隈川まで3.2kmにわたって防塁が存在した。これが阿津賀志山防塁であり、今でもその一部が所々に残っている。
はっきり言って800年も前の遺構がこれほどはっきりと残っているのは驚きであった。
予想したものよりもはるかに大規模なものであった。
単純、巨大なものである。当然、横矢などの技巧的なものはないが、地形にあわせて湾曲しており、横矢に近い効果はあったのであろう。
言うまでもなくこの防塁は、奥州藤原氏が、源頼朝の率いる鎌倉の大軍を迎え撃つために築いたものである。
当時、鎌倉幕府による全国統治を進める源頼朝は、奥州藤原氏に難癖をつけ攻略する機会を狙っていた。
源義経を謀殺して源頼朝に服従の意思を示した藤原泰衡だが、さらに難癖を付けた源頼朝は、文治5年(1189)に奥州藤原氏の討伐のため鎌倉を出立する。
この辺は豊臣秀頼を攻める徳川家康とそっくりである。
西側(鎌倉軍側)から見た土塁。高さ4mくらいの切岸になっている。 | 土塁の堀、末端部から北の阿津賀志山方面を望む。あの山まで長塁が続いていた。 | 東側の土塁上から堀を見る。この付近は三重土塁になっていたようである。 |
頼朝は軍を3つに分け、頼朝自ら東山道を、比企能員・宇佐美実政軍は北陸道を、千葉常胤・八田知家軍は東海道を進軍させる。
一方、奥州藤原氏は、防衛ラインを伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境に置き、この阿津賀志山防塁を築く。
この工事には延40万人の人工をかけたという。構造は阿津賀志山の中腹から滑川の沢に沿って、阿武隈川(当時の阿武隈川は、防塁末端付近では、今の滝川の位置を流れていたという。)までの間に幅15m、深さ3m、全長3.2kmの三重の土塁を持つ、二重堀であったという。
実際に残存遺構を見ると、幅は30m位あるような感じである。
土塁の高さもかなり埋没しているがもっと有りそうである。
発掘の結果では土塁は、東が高い三重比高土塁であったようである。
今でも地元ではこの遺構を二重掘り(ふたえぼり)と呼んでいる。
藤原氏は総大将に泰衡の異母兄藤原国衡を任命し、金剛別当以下兵力20,000を置き、泰衡は陸奥国国分原(現仙台市)鞭楯に本陣を置き、名取川、広瀬川などの川底に縄を巡らせ、要所に兵を配置するほか、秋田三郎致文を出羽国に派遣して出羽方面の指揮を統括させ、鎌倉軍の来襲に備える。
8月7日、鎌倉軍の攻撃で戦いが開始される。戦いでは頼朝は藤田宿に本拠を据え、畠山重忠・小山朝光らの軍が正面から攻撃を加えるが、防塁の効果が発揮され全く突破できない。このため、朝光を鳥取越(現小坂峠)から迂回させ、国衡軍の後陣を奇襲する。
この混乱に乗じて、鎌倉軍は、数に任せて大木戸を突破し、金剛別当らは討ち取られ、国衡軍は崩壊し、国衡は畠山重忠、和田義盛らに討ち取られてしまう。
この1戦であっけなく勝負が付き、藤原泰衡は蝦夷地に逃走する途中、肥内郡贄柵(秋田県大館市)で家臣に殺害され奥州藤原氏は滅亡してしまう。
このような大規模な長塁による防御戦闘というのは、日本では余り聞かない。
規模は小さいが長篠の合戦の織田・徳川軍陣地が似ている。また、関が原の合戦の西軍陣地も似てはいる。
しかし、規模はここと比べたら比較にならない。いったいこの戦術思想はどこから来たのだろうか?もしかしたらこれは万里の長城が先例じゃなかったのか。
しかし、物凄い工事量の万里の長城も1箇所を突破されたら、終わりである。
線で防御するのは、とても経済的な方法ではない。典型的な例が、第二次世界大戦のフランスのマジノ線である。
多額の予算をつぎ込んだこの要塞線も、ドイツ軍が要塞線の切れていたアルデンヌの森に迂回して背後に回った時点で崩壊してしまった。
この防塁での戦いと全く同じであることが面白い。
もし、藤原氏側の指揮を天才戦術家義経が執っていたらどうなっていたのだろう。
果てしない歴史のifの世界である。
彼ならこんなものでは戦わないだろう。
縦深陣地で消耗させ、得意の迂回奇襲戦法を用いたのじゃないかな?