母成峠防塁(郡山市熱海町/ 猪苗代町)

母成峠には駐車場があり、戊辰戦争での古戦場碑が建てられている。
その戦いのあった肝心の防塁はその碑の場所ではなく、南東側の山にある。
駐車場から旧道に入り、少し上り、平になった場所が標高972mの峠であり、道の両側の藪の中に遺構が残っている。

この防塁は元々、関が原の戦いの前夜、慶長5年(1600)に上杉景勝が築いたものである。
それを幕末に会津藩が改修・再利用したものであり、どこまでが上杉氏時代のものか、会津藩が付け加えた部分がどれか、入り混じっていて識別が付きにくい。

旧道西側の山中には高低差3mで2本の横堀(塹壕)@、Aが湾曲しながら存在する。
総延長は80mくらいであり、西端は新道建設で分からなくなっている。
こちらは規模が比較的大きいため上杉時代のものと思われ、会津藩が余り手を加えた感じではない。

これに対して旧道の東側の遺構は複雑であり、2本の土塁が交差し、南に堀(塹壕)が下りながら80mほど延びている。
土塁が交差する部分は櫓台のようになっている。
南側に延びる土塁と塹壕@は、会津藩が作った銃撃陣地であろう。
この塹壕の東の山斜面にも長さ30mほどの2本目の塹壕Aがある。
一部、大きな岩が並んでおり、岩を遮蔽物にしていたようである。これも規模が小さく、会津藩によるものであろう。
北側には北東の安達太良山から延びる尾根の上に向かって高さ1mほどの竪土塁が延びている。
この土塁は一気に高度差80mの急斜面を登り、やや平坦となった尾根上を延々と北東方向に延びている。
600mほどは確認できたが、まだ先がある。これは上杉時代のものであろう。
急傾斜を上り平坦になった標高1050mの尾根上に6m四方に整地した砲台跡があり、その前面に三日月状の砲台防護用の銃撃塹壕Bがある。
竪土塁の50mほど南である。
北側の古戦場碑の建つ駐車場から見た峠方向
正面の山の頂上まで竪土塁が延びる。
堀Aであるが藪で分かりにくい。 堀Aの土塁から見下ろした堀@。
櫓台から北に延びる土塁。 旧道東にある櫓台 竪土塁の途中にある岩に残るこの穴は銃弾痕?
東の尾根上の砲台跡 砲台跡の前面にある三日月形をした塹壕B。 山上まで延びる土塁。

母成峠の戦い
慶応4年(1868)8月21日(新暦では10月)、今の福島県郡山市磐梯熱海と猪苗代町間にある母成峠で行われた戊辰戦争の戦闘の一つである。
母成峠を守る会津藩800と官軍3000が戦うが、会津藩は兵力の差で破れ、官軍が侵攻。
会津藩は戸の口原で迎撃するが破れ、官軍が会津若松の城下に殺到。
このため、日光方面、越後方面の戦線が崩壊し、戦線は一気に会津若松付近に狭まってしまうことになったきっかけを作った戦いである。
奥羽列藩同盟を攻撃する官軍は、宇都宮、大田原、白河口、二本松城と奥羽列藩同盟軍を撃破しながら北上。
総督の大村益次郎は盟主である仙台藩、米沢藩への直接進攻を指示したが、参謀・板垣退助と伊地知正治は会津攻めを主張し、これが通った。
もちろんこれは、戦略などではない。京都における会津藩への恨みに基づく怨恨。復讐に根ざしたものであることは明白である。

会津への侵攻路は山道ばかりであり、会津藩も当然、防御を固めていた。
会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)、中山峠(二本松口)である。
常識的には官軍は中山峠に主力が通るものと思われた。
しかし、薩摩藩兵と土佐藩兵が主力で他に長州藩兵と佐土原藩兵から構成される官軍は北の裏街道である、母成峠に主力を向かわせた。
会津藩の大鳥圭介はこれを見抜き、母成峠を固めた。
この洞察力は立派であるが、いかんせん会津藩兵、仙台藩兵、二本松藩兵、そして伝習隊や新選組から構成される会津藩の兵力はやっと800程度に過ぎなかった。

8月20日に麓で前哨戦が行われたが、兵力差と火力差はどうにもならず会津藩は敗走、伝習隊が大損害を出しながら、何とか官軍を阻止し全面崩壊は免れる。
翌8月21日、官軍が母成峠に進撃。
会津藩は峠で迎え撃つ。会津藩は善戦するが、側面攻撃を受けて崩壊して夕刻に敗走する。
戦死者は会津藩75名、官軍25名ほど、負傷者はその5倍程度は出た大激戦であった。

母成峠を突破した官軍は、中ノ沢温泉方面から猪苗代へ進撃し、猪苗代城代、高橋権大夫は防戦をあきらめ、城に火を放って撤退した。
官軍はそのまま会津に向けて進軍、会津藩は敗走兵に加え、白虎隊などの予備兵力をかき集めて出陣させたが、戸ノ口原で破れ、23日朝には若松城下への突入を許してしまう。
まさに官軍の電撃戦であり、これにより越後口や日光口の戦線も崩壊し、篭城戦に移行してしまう。
しかし、一気に会津まで侵攻した官軍であるが、鶴ヶ城を落とすほどの兵力はなく、この後、1ヶ月にわたる泥沼の篭城戦が始まる。

戸ノ口原古戦場(会津若松市湊町赤井)
国道49号線を会津方面に走り、猪苗代湖を過ぎると会津レクリエーション公園がある。
その公園西端の山頂上付近に官軍の塹壕が残っている。(明治時代に陸軍によって使用されたため改変を受けているという。)
この公園の西側に未舗装の道が西に延びるがこれが旧街道であり、この道を1km進むと古戦場碑と慰霊碑がある。
多分、この付近が主戦場であったものと思われる。
さらに西に1km行くと山があり、道北側の山に二重の塹壕がある。
藪でよく分からないが3重ともいう。これが会津藩の塹壕である。
会津藩が1868年8月21日、母成峠が突破され、天然の防壁である日橋川が官軍に突破されると、予備部隊の白虎隊などを出陣させ、敗残兵とともにこの場所に1日で塹壕を築き、官軍を迎撃する。会津藩は日光口や越後口に主力軍を派遣しており、城下には予備部隊がない状態で、官軍の電撃作戦に白虎隊の派遣程度の対応しかできなかったという。
案の定、圧倒的兵力差と火力差がある官軍と会津藩では勝負にならず、会津藩は敗れ敗走する。
この地では両軍あわせて98人の戦死者が出たという。
会津藩の塹壕から1kmほど西の地点に地元民が、会津藩の戦死者6名、16名の計22名を葬った22人塚がひっそりとある。
ここから飯盛山までは山また山の曲がりくねった道であるが、直線では4kmに過ぎない。
この道を白虎隊が敗走したのである。

官軍の塹壕であるが、・・さっぱり分からん。 古戦場碑と慰霊碑 旧街道、右手の山に会津藩の塹壕がある。
会津藩の下段の塹壕。単なる藪? 会津藩の上段の塹壕。こっちも藪である。 会津若松よりにある戦死した会津藩士の墓、
22人塚。